17.水の精霊王
『リゼ』
透き通った女性の声が聞こえたかと思った途端、リゼの体が急浮上する。そして、そのまま勢いよく池から飛び出したかと思えば、ゆっくりと池のほとりに降ろされた。
リゼはゲホゲホと激しくせき込み、飲んだ水を吐き出す。助かった安堵と共に嬉しさがこみ上げ、リゼは打ち震えた。
(ああ……! やっぱり、この池ならと思った!)
助けてくれた彼女の姿を早く見たくて、リゼは急いで顔を上げた。すると同時に、彼女が思いっきり抱きついてくる。リゼは勢いのまま後ろに倒れ、地面に横たわった。
『リゼ! ああ、愛しのリゼ! 会いたかったわ!』
長い耳に、ターコイズブルーの髪。清く透き通った体に薄い衣をまとった人型の彼女は、まさしく水の精霊王、ウンディーネであった。
彼女はリゼのいたるところに口づけを落とし、再会を喜んでいる。
「ふふっ。ウンディーネったら、くすぐったいよ」
『一年ぶりの再会ですもの! これくらいさせて頂戴な。ああ、なんて愛らしいの。我らのかわいい愛し子』
庭園の池の水は、澄んでいて実に清らかだった。リゼはこの池を見た時、ふと「ここならウンディーネに会えるかもしれない」と思ったのだ。彼女は清らかな水が近くにないと力を保てないので、会える場所が限られるのだが、この場所はその条件を満たしていた。
ウンディーネは、リゼが池に落ちたことで――自らの支配域である水に触れたことで、リゼの居場所を察知したのだろう。そして、こうして助けに来てくれた。
ウンディーネからの熱烈な挨拶を受けていると、ヴェンヌがフェンリルを背に乗せてやって来た。眷属の精霊にでも異変を聞かされ、文字通り飛んできてくれたのだろう。陸の精霊はフェンリルが、空の精霊はヴェンヌが統べているのだ。
『リゼ! 無事か!?』
『怪我はない!?』
リゼを見つけた二匹はこちらに向かって急降下してきたが、同時にウンディーネを捉え、驚きの声を上げる。
『ウンディーネじゃねえか!』
『君がリゼを助けてくれたのか。ありがとう!』
地面に降り立ったフェンリルとヴェンヌに、ウンディーネは眉を吊り上げる。そして、腰に手を当てながら、思い切り怒鳴った。
『あんたたちがついていながら、なんて体たらくなの!? ほんと、無能なんだから! 私がいなかったら、リゼが死んでいたところだったじゃない!』
『うるせえ! こっちだって、いろいろと事情というもんがな……!』
『そんなの知らないわよ! 精霊王が聞いて呆れるわ。なんのためにリゼのそばにいるのよ。私はリゼのそばにいたくても叶わないっていうのに……!』
互いを睨みつけながらギャアギャアと言い合うフェンリルとウンディーネに、ヴェンヌはやれやれと肩をすくめている。リゼのこととなると、この二匹はよく衝突するのだ。
「フェンリルもウンディーネも落ち着いて。私は大丈夫だから、ね?」
リゼが取りなすと、二匹はようやく溜飲を下げた。
そして、気を取り直したウンディーネが、怪訝そうな顔で言う。
『でもリゼ。どうして一人でいたの? 大国の妃ともなれば、普通、護衛の一人や二人ついているものでしょう?』
「私が一人になりたいってお願いしたの」
ウンディーネの真っ当な疑問にそう答えると、ヴェンヌが眉根を寄せる。
『それでもおかしいよ。皇城には至る所に衛兵がいるはずだ。各国から要人を招いているのなら、なおさら警備は厳重でなきゃいけない。それなのに、誰もいないなんて変だ』
言われてみれば、この場にはリゼと三匹の精霊王しかいない。エリンは「各所に衛兵がいる」と言っていたが、周囲に人の気配はなかった。そこまで考えて、リゼはハッと思い出す。
「そうだ。私、誰かに突き落とされて……」
リゼが池に落ちたのは、後ろから思いっきり背中を押されたからだ。犯人の顔を見れなかったことが悔やまれる。そして、明確な殺意を向けられた事実に、ぶるりと背筋が震えた。
すると、考え込んでいたヴェンヌが口を開く。
『僕たちがリゼの危険を察知できたのは、眷属から報告を受けたからなんだ。ローブをまとった小柄な人間が、リゼを池に突き落としたって。リゼ、心当たり、ある?』
「その情報だけだと、なんとも……」
小柄な人間など、皇城にはいくらでもいる。ヴェンヌの眷属が犯人の顔を見ていないのなら、突き止めるのは難しいだろう。殺意の理由がわかれば、容疑者を絞り込めるだろうが、今は情報が足りない。
今度はウンディーネが妙案を思いついたように、ポンと手を叩く。
『フェンリル、ヴェンヌ。殺るわよ。犯人はまだこの城の中にいるはず。皆殺しにすれば問題ないわ』
「ウンディーネ、お願いだから落ち着いて。絶対にそんなことしちゃだめ」
『リゼの命が狙われたのよ? 精霊王の立場がどうだとか、精霊と人間との関係がどうだとか、言っている場合ではないわ』
ウンディーネは納得できないというように口をへの字に曲げている。怒ってくれるのは嬉しいが、彼女の力を虐殺に使わせるわけにはいかない。
リゼはウンディーネの頭を撫でながら「大丈夫だから」とよく言い聞かせ、なんとか彼女をなだめた。
『リゼ、人が来るぞ。あの侍女だ』
不意にフェンリルがそう言うので、リゼは慌てた。「皆、隠れて!」と言うと、ウンディーネは池の中に、フェンリルとヴェンヌは近くの茂みに身を隠す。それからすぐにエリンが姿を現した。
「リゼ様!?」
髪から水を滴らせ、全身ずぶ濡れになっているリゼを発見したエリンは、血相を変えて駆け寄ってくる。
「なかなかお戻りにならないので心配して見に来てみれば……。一体何があったのですか!?」
「ええと……」
どう答えるか迷ったが、誰かに命を狙われている以上、事実を伝えて保護してもらった方がよいだろう。リゼはそう判断し、身に起きたことを正直に話した。
何者かに背中を押され、池に落ちてしまったこと。衛兵がおらず、犯人の目撃証言は得られそうにないこと。ウンディーネに助けてもらったとは言えないので、そこは脚色し、なんとか泳いで池から出たと伝えた。
「申し訳ございません。私がついていれば……」
エリンは主人を守れなかったことを激しく悔いているようで、強く唇をかみしめている。彼女は何も悪くないのに、とリゼは申し訳なくなった。
「エリンのせいではありません。一人になりたいと言ったのは私ですから。不用意に一人になるべきではありませんでした」
「いいえ、衛兵がいないことに気づけなかったのは私の落ち度です。このことは陛下に報告し、早急に対策を打ちます。今日はこのまま屋敷に戻りましょう。風邪をひいてはいけません」
そう言うエリンの瞳は、犯人への強い怒りに燃えていた。




