1.隣国に売られた王女
「あら、やっと城を出ていくの? あなたのその貧乏くさい顔を見なくて済むと思うと、清々するわ」
ここは、ウィンター王城のとある一室。
王国の第二王女であるリゼ・ウィンターは、異母姉の嘲笑から目を背けるように、深く俯いた。心無い言葉を浴びせられるのはいつものことだが、一向に慣れることはなく、心が軋む。
「馬子にも衣装だな。いつも汚らしい格好をしていて見るに耐えなかったが、今日は目に入れても不愉快さがマシだ」
異母兄が鼻で笑う。彼に視線を向けようものなら必ず睨まれるので、怖くて顔を上げられない。
リゼは心を抉る言葉の刃に耐えるために、ドレスの裾をきゅっと握った。質の良い生地に、くしゃりとシワができる。
今身に着けているのは、これまでの十六年の人生の中で、最も高価な服だ。リゼがこの城でドレスを着た回数は、今日を含めて二十六回。普段は「お前に上等なドレスを着る資格はない」と言われ、使用人同然のみすぼらしい格好をしていた。
しかし今は、自身の瞳の色と同じ、空色の美しいドレスを身にまとっている。柔らかい白銀の髪も綺麗にまとめられ、薄く化粧だってしている。
今日リゼがとびきり着飾っているのは、今から隣国の恐ろしい皇帝の元へ嫁ぎに行くからだ。
ウィンター国王が険しい声で命じる。
「くれぐれも皇帝陛下の機嫌を損ねぬようにな。間違っても、逃げようとは思うな。お前の肩にはウィンター国民全員の命がかかっていると思え」
自分の父親である国王に向かって、リゼは小さく「はい」と返事をした。何かしら言葉を返さないと、無視するなと怒鳴られ、打たれるから。
隣国、セレスティア帝国は、五つの国と南の大海に囲まれた、大陸一の大国だ。
五つの国のうち、ダウデン王国とステイリー王国という小国は、百年以上も前からセレスティア帝国の属国となっている。ここウィンター王国は、軍事産業が盛んで、その二国と比較すると大きく栄えていたが、数十年前に帝国に敗れ、同じく属国となった。
そして、セレスティア帝国にはひとつの習わしがある。属国から姫を一人ずつ皇帝の妃として献上する、というものだ。つまりは「人質を差し出せ」ということである。
正妃が口元を扇で隠しながら、クスクスと笑う。
「果たしていつまで生きていられるかしらね。なにせお相手は、あの『血濡れの皇帝』だもの。そそっかしいあなたのことだから、皇帝の怒りを勝って、スパッと首を切り落とされるかもしれないわね」
彼女は側妃の子であるリゼのことを心底嫌っている。リゼはその扇で叩かれた痛みを思い出し、ビクリと身を縮めた。
リゼが嫁ぐ相手は、セレスティア帝国現皇帝、ルーファウス・ガートライト。二年ほど前、当時の皇帝であった自らの父を殺害し、たった十八歳で国を乗っ取った冷徹無慈悲な男。故に、血濡れの皇帝。
ルーファウスの残忍さは、ここウィンター王国にもよく伝わっており、その名を聞くだけで民は震え上がる。武人としても秀でた彼は、戦場に出れば敵なしで、これまでに多くの敵を屠ってきたらしい。
そんな恐ろしい相手に嫁ぐために、リゼは一年前、この王城に連れてこられた。
リゼはウィンター王城で育っていない。ほんの一年前まで、森の奥深くでひっそりと暮らしていたのだ。自分が王女だということを知らずに。
物心ついた時には既に森の中で母と暮らしていて、数年前に母が亡くなってからは、一人で生き抜いてきた。
母は非常に聡明な人で、数学から天文学、医学、生物学、大陸各国の言語、はたまた軍を動かす戦術に至るまで、ありとあらゆることを教えてくれた。
そして、勉学だけでなく、生きていくための生活の知恵もたくさん教わった。森の中では、当然ながら自給自足の生活だ。母に教わりながら、野菜や穀物を育て、狩りをして暮らした。
しかし母は、大陸の歴史だけは教えてくれなかった。恐らくは自分の娘に、外界への興味を持たせないためだ。
リゼは幼い頃から、母に「森の外は毒素に満ちていて命を落としてしまうから、絶対に出てはいけない」と言われ続け、それを鵜呑みにして信じてきた。そのため、森の外がどうなっているか全く知らなかった上に、一年前に王城の使いがリゼの元へ来るまでは、母以外の人間に会ったことすらなかった。
リゼにとっては森の中が全てだったのだ。
だが、外に出た今ならわかる。なぜ母が、自分を森の奥で育てたのか。
それは、リゼが精霊の愛し子だから。
この世界には魔法が存在する。一部の貴族のみが扱える特別な力だ。そして魔法が使える者は、魔術師と精霊術師に分けられる。“血濡れの皇帝”ルーファウスも、一流の魔術師だそうだ。
魔術師は自分の魔力を操り魔法を使う一方、精霊術師は精霊の力を借りて魔法を使う。精霊の力を借りるためには、精霊の姿を見たり、声を聞いたり、精霊の存在を認識できる事が最低条件である。その素質を持つ者は非常に限られ、故に精霊術師は、魔術師よりもさらに貴重な存在なのだ。
そして、通常の魔法に比べると、精霊魔法の方が圧倒的に威力が高い。精霊の魔力量と比べると、人間のそれなど微々たるものだからだ。だがその代償として、精霊術師は魔力を借りる対価を精霊に支払わなければならない。
対価は基本的に、借りる魔力の大きさに比例する。精霊によっても求めるものが異なり、人間の食事や血液、髪、はたまた寿命まで様々だ。
しかしリゼは、ほんの少しの魔力を分け与えるだけで、ありとあらゆる精霊の力を借りることができた。いわば魔力交換――わずかな魔力で膨大な魔力を借りるのだ。どうやらリゼの魔力は、精霊にとって非常に魅力的で、とても美味しいらしい。
数百年前にもリゼのような特別な魔力を持つ者が存在していたそうだが、そういった人間は「精霊の愛し子」と呼ばれる。あまりに特異な存在なので、「精霊の愛し子」は半ば伝説上の存在だ。
リゼは、王城の使いが迎えに来て初めて、自分が王女であることを知った。同時に、母は侯爵家の人間で、ウィンター王国の側妃だったことを知った。
『絶対に、お母さん以外の前で精霊魔法を使ってはダメよ。悪い人間に攫われてしまうから』
それが母の口癖だった。
自身も精霊術師だった母は、我が子の力が国に悪用されることを恐れ、リゼを生んで間もなく城を飛び出し、森の中に閉じ込めたのだ。全ては、娘を思ってのことだった。
リゼは森を出てから、人間の醜悪さを知った。
無理やり城に連れてこられたかと思えば、それはリゼをセレスティア帝国に献上する駒として使うため。
本来であれば、帝国に嫁ぐのは異母姉のはずだったらしい。しかし、絶対に嫌だと異母姉が駄々をこね、正妃も断固反対したため、なんとしてでもリゼを見つけ出せという王命が下ったというわけだ。
王城に来てからは楽しいことなどひとつもなく、つらい日々が続いた。
厳しい妃教育。正妃や異母姉、異母兄からの暴言と暴力。
扱いは使用人以下で、与えられたのは蜘蛛の巣だらけの屋根裏部屋と、ボロボロの服と腐りかけの残飯。
森で育った野蛮人と同じ空気を吸いたくないからと、王族や貴族に忌避され、使用人にまで煙たがられた。
みな利己的で傲慢。欲深く、嘘にまみれ、虚栄心に溢れている。
なるほど確かに、他人に「精霊の愛し子」だと知られれば、どんな目に遭うかわかったものではない。そのことをよくよく理解したリゼは、自分の力をひた隠しにした。
ウィンター城にいたのはほんの一年だったが、リゼが人間不信や対人恐怖症になるには、十分な時間だった。本来明るい性格だったリゼの顔からは笑顔が消え去り、人間相手にはすっかり怯えるようになってしまった。
つらく苦しい日々だったが、それでもリゼが耐え抜いてこれたのは、大切な家族の存在があったから。先ほど「森では母と二人で暮らしていた」と語ったが、それは正確ではない。正しくは、母と、三匹の精霊王と暮らしていた。
神々しい白銀の狼、陸の精霊王フェンリル。
輝く黄金色の羽を持つ鳥、空の精霊王ヴェンヌ。
清く透き通る水の化身、水の精霊王ウンディーネ。
いずれも、精霊の愛し子と同様、伝説上の存在とされる大聖霊である。精霊の最高位に君臨する彼らは、リゼが幼い頃からずっと見守ってくれた、家族同然の存在だった。
精霊王のうち、ウンディーネは清らかな水が近くにないと力を保てない。そのため、残念ながらこの一年は顔を見られていない。
しかし、フェンリルとヴェンヌは、リゼがウィンター城に半ば誘拐同然で連れて来られた後も、小さな狼と小鳥としてリゼの屋根裏部屋にこっそりと住まい、傷ついた身と心を癒やしてくれた。
フェンリルとヴェンヌは、ウィンター王家の仕打ちに度々憤りを見せていたが、彼らは精霊王という立場。安易に人間に干渉すれば――彼らが王家の人々に直接制裁を加えでもすれば、人間と精霊の関係が崩れてしまう。それはリゼも望むところではなかったので、事あるごとに彼らをなだめた。
リゼにとって、精霊王がそばにいてくれるだけでよかった。「自分には逃げ道がある」と安心することができたからだ。最悪、二匹の手を借りてここから逃げ出せばいいと、そう思っていた。
しかし、結局は逃げ出すことなく、リゼは隣国に嫁ぐ日を迎えた。これから向かう国が、より恐ろしい場所かもしれないのに。
人質として献上されるはずの自分が逃げ出せば、恐ろしき血濡れの皇帝・ルーファウス・ガートライトが怒り狂い、ウィンター王国を滅ぼしてしまうかもしれない。罪のないウィンター王国の民を死なせることなど、リゼにはできなかった。
「言っておくが、侍女は付けぬ。貴重な人材をお前のためには割けぬのでな。一人で行くのだ、リゼよ」
「……はい、国王陛下」
ウィンター城ではフェンリルとヴェンヌがいてくれた。だが、隣国へは連れていけない。残虐な皇帝に見つかって利用されたり、まして殺されたりしたらと考えると、「一緒に来て」とは到底言えなかった。
「……それでは、行って参ります。一年間、お世話になりました」
リゼは王家の面々に最後の挨拶を告げた後、擦り切れた身と心を引きずりながら、帝国行きの馬車に乗り込んだ。
片道切符の、長く寂しい旅路。
これから先はもう、本当に一人だ。




