13.アンジェリカの本音
「大丈夫ですか?」
リゼが優しく問いかけると、アンジェリカはまだぼんやりとした眼でリゼを捉えた。
「あなた……。ああ、わたくしは、馬から落ちたのね」
「はい。どこか痛みますか?」
「いいえ、大丈夫よ。不思議と、どこも痛くないの」
上体を起こそうとするアンジェリカの背をリゼが支えると、彼女は目を丸くした。そしてすぐに視線を落とす。愁いを帯びた、彼女らしくない弱々しい表情だ。
「……どうして?」
アンジェリカがポツリとつぶやいた。消え入るような小さな声だった。
リゼは聞き取れず、「え?」と声を漏らす。アンジェリカは伏し目がちのまま続けた。
「どうして、わたくしを助けに来たの? わたくし、あなたに嫌なことばかりしたのに」
「誰かを助けるのに、理由など必要ありません」
リゼが素直な言葉を伝えると、アンジェリカの瞳がかすかに揺れた。今この時は、一国の妃ではなく、はたまた一国の王女でもなく、年相応の一人の少女に見えた。
「ごめんなさい……。わたくし、焦っていたの」
「焦る……?」
「わたくしはね、この国の正妃になるためだけに生まれてきたの。だから、あなたが来て、皇帝陛下があなたの元に通われたと知って……気が狂いそうになった」
アンジェリカはどこか吹っ切れたように、空を見上げた。そして彼女は、これまで歩んできた人生について語った。
――アンジェリカは幼い頃から、厳しい妃教育に耐えてきた。全ては、セレスティア帝国の皇帝に嫁ぎ、正妃になるため。アンジェリカが正妃になれば、彼女の母国であるダウデン王国の安全と繁栄が約束されると、そう言い聞かされて育ってきた。
アンジェリカは弱音を吐くことなく、ただ自分の使命を全うしようと努力を重ねた。自分の双肩に国の未来がかかっているのだからと、心は殺した。本当は友人と遊びたくても、本当は両親に甘えたくても、自分を律し、正妃になることだけを考えた。
しかし、十五歳の春、彼女の覚悟は大きく揺れることになる。
恋をしたのだ。
相手は、新しく着任した専属の護衛騎士だった。彼だけは、アンジェリカのことを「王女」ではなく、ただアンジェリカという一人の人間として見てくれた。
アンジェリカは彼を見るたびに胸が締め付けられ、これが恋なのだと知った。日を重ねるにつれその想いは強くなり、生まれて初めて己の使命から逃げたくなった。好きでもない男に嫁がなければならない未来に、深く絶望した。
セレスティア帝国に嫁ぐ直前、アンジェリカはとうとう耐えられなくなり、自分の気持ちを彼に伝えた。
あなたを愛している。ずっと共にいたいから、どうか連れ去って欲しい、と。
彼はアンジェリカを抱きしめた。しかし、彼は何も言わず、当然連れ去ることもしなかった。そして、ルーファウスとの結婚を境に、護衛騎士の彼と会うことは二度となかった。
アンジェリカに残ったのは、重たい使命だけだった。
正妃にならなければ自らの存在価値を失ってしまう。そんな強迫観念に囚われたアンジェリカは、なんとしてでもルーファウスに気に入られなければと躍起になった。しかし、何をしても、ルーファウスは振り向いてはくれなかった。
アンジェリカは気が狂いそうになりながらも、「他の妃の元へも通っていないなら、いつかは勝機が来る」と思うことで自分の心を保った。
だがそんなときにリゼが現れ、そしてルーファウスがリゼの元へ通ったと聞き、アンジェリカの中で何かがプツリと切れた。
どうして自分ではなくリゼが選ばれたのか、今までの自分の人生はなんだったのか。これまでの努力は全て無駄だったというのか。好きでもない男の元に嫁いだというのに、どうしてこんな屈辱を受けなければならないのか。
どうして。どうして。どうして。
そんな失意と絶望が、リゼとルーファウスへの激しい怒りに変わってしまった――。
「わたくしはもう、正妃になる以外に価値はないの。でなければ、なんのために生まれてきたのかわからなくなる……」
アンジェリカの大きな目から一粒の涙がこぼれた。
彼女の事情を聞いたリゼは、まるで自分のことのように胸が苦しくなった。皆、嫁ぎたくてこの国に来ているわけではないのだ。
「正妃になる以外の価値がないなんて、そんなことは絶対にありません。正妃にならなければ、国に帰ることもできるはずです。そうすれば、アンジェリカ様の想い人ともまた会えます」
リゼはアンジェリカの顔を覗き込み、なんとかして励まそうとする。しかし彼女は、首をゆるゆると左右に振った。
「いいえ、それはできないわ。わたくしはセレスティア帝国の妃である前に、ダウデン王国の王女よ。母国を繁栄させる義務があるの」
「ダウデン王国は貧困率が低く、治安もよいと聞きます。民が平穏に暮らせているなら、これ以上の繁栄のためにアンジェリカ様が身と心を削る必要は、私はないと思います」
リゼがまっすぐに伝えると、アンジェリカの目にはたちまち涙があふれだした。そしてとうとうこらえきれなくなったのか、彼女は両手で顔を覆った。
「彼に連れ去ってほしかった! わたくしをどこか遠くへ連れて去って、この世のすべてから隠してほしかった! 共に生きてほしかった!」
アンジェリカはきっと、誰にも言えず、すべてを胸の内に抱え込んできたのだろう。王女としての使命を背負い、想い人への気持ちを殺し、耐えて、耐えて、耐えて――。
そんな状況で、心に限界が来ない方がおかしい。リゼは、これまで受けたアンジェリカからの仕打ちについて、彼女を責める気には到底なれなかった。
「アンジェリカ様。今からでもまだ道はあります。母国に帰る道はきっと――」
「無理よ……! 相手はあの血濡れの皇帝よ。運よく側妃になれたとして、母国に帰りますと正直に言える? 帰りたいと伝えて、あの方の反感を買ってしまったら? わたくしは母国を戦場にするわけにはいかないのよ!」
「……ルーファウス様は、そんなことはなさらないと思います」
リゼは気づけばそう口にしていた。
ルーファウスとはまだほんの数回しか話していないが、リゼはルーファウスと”血濡れの皇帝”がどうにも結びつかなかった。彼がそんな残忍な人間だとは、どうしても思えないのだ。
「あなたがそう言うのなら、そうなのかもしれないわね」
顔を上げたアンジェリカは、どこか納得した様子だった。彼女は涙を拭うと、「励ましてくれてありがとう」と言って、ためらいがちに続けた。
「あの…… 散々ひどいことをしておいて、こんなお願い、おこがましいのだけれど……」
「なんでしょうか?」
リゼが首を傾げると、アンジェリカは言いづらそうに視線をそらした。わずかに頬が赤くなっている。
「わたくしの……お友達になってくださらない?」
「おともだち……」
その魅惑的な響きに、リゼは思わず繰り返していた。新鮮な言葉だった。
リゼはこれまでに一度も、友人というものができたことがない。
森で暮らしていた頃は、母と精霊王たちしかそばにいなかった。フェンリルやヴェンヌは家族同然なので友達とは違う。ウィンター王城ではもちろん友達などできないし、いま周りにいるのはエリンとルーファウスだが、どちらも友人ではない。
初めての友達ができる貴重な機会だ。リゼにはアンジェリカのお願いを断る理由などどこにもなかった。
「はい……! 喜んで!」
リゼが笑顔で答えると、アンジェリカも釣られて笑った。いつもつり目がちな彼女は、笑うとこんなにも優しい表情になるのかと、新しい一面を知れてつい嬉しくなる。
するとその時、馬の蹄の音が遠くから聞こえた。それも一頭ではなく複数の。
リゼがハッとして音の方向を見ると、ルーファウスや近衛兵たちがこちらに向かって馬を走らせていた。どうやら迎えに来てくれたらしい。リゼはここに来る途中でフェンリルに乗り換えた時に、ルーファウスの愛馬を森の中に置いてきてしまったのだが、今はその背に主人を乗せている。
「アンジェリカ様。帰りましょう」
リゼが差し伸べた手を、アンジェリカが取る。
「アンジェリカでよくてよ、リゼ」
彼女の表情には怒りも愁いもなく、ただ穏やかな笑みをたたえていた。




