11.狩り
そして、一週間後の、薄い霧に包まれた早朝。城門の前では、狩りに同行する近衛兵や従者たちが、出発の最終準備を行っていた。
一方、動きやすい乗馬服に身を包んだリゼは、一頭の馬の前で立ち尽くしている。今から、馬に乗って狩猟用の森林まで向かうらしい。
隣に控えていたエリンは、眉を下げて青い顔をしている。
「申し訳ございません。事前に確認しておくべきでした。狩りのご経験があるとのことでしたので、てっきり乗馬もなさるものかと……」
リゼは馬に乗ったことがない。
リゼが森の中で狩りをする時は、決まって茂みの中に身を隠し、息を潜めて獲物を狙う。馬に乗り音を立てるなど、獲物を逃がすようなことはしない。森の中に住んでいた頃の狩りは、食料を得るため、生きるための行為だ。貴族の娯楽のそれではない。
そのため、乗馬の経験などありはしないのだ。残念ながら、ウィンター王城では乗馬を習得するだけの時間がなかった。
(まさか、馬に乗って狩りをするなんて……)
リゼはどうすることもできず、馬の前で困り果てていた。
今日は全ての妃に声が掛かっており、行きたい者だけが参加している。この場にいる妃は、リゼと、そしてアンジェリカだ。彼女はすでに馬上にいて、リゼを冷ややかな目で見下ろしている。
「馬に乗れないのなら、なぜこの場にいるの? 屋敷に戻ったらいかがかしら。そうまでして陛下の気を引きたいのね」
アンジェリカはそう言うと、馬を歩かせその場から立ち去った。すると、彼女と入れ替わるようにして、ルーファウスがやって来る。リゼの様子がおかしいことに気づいたようだ。
「もうすぐ出発だが、何かあったか?」
問われたリゼは、なんとも情けない気持ちになり俯く。代わりにエリンが答えた。
「リゼ様が、馬に乗ったご経験がないと……」
「乗ったことがないだと? 狩りの嗜みがあると聞いたが、母国ではどうやって狩りをしていたんだ?」
ルーファウスは訝しげに眉をひそめている。ここで何も答えなければ、嘘をついたのかと不興を買うだろうか。
リゼはルーファウスに気に入られたいわけではなかったが、彼の機嫌を損ねるのは避けたかった。この国にいる間は、せめて平穏に暮らしたい。
「ええと……。く、草むらに隠れて、獲物をじっと待って、それから弓で仕留めていました」
正直に答えると、場に沈黙が流れた。ルーファウスもエリンも、目を丸くしている。
リゼは何かまずいことを言ってしまったかと肝を冷やしたが、ルーファウスがすぐに笑い出した。
「ハハッ! ウィンター王国の狩りは独特らしい」
ルーファウスはおかしそうにクックッ、と喉を鳴らしている。あの夜に――彼が屋敷に来た夜に見せた笑顔だ。この人は意外と感情を表に出す人なのだと、リゼは思った。
しかし、その理解は間違っていると、周囲の言葉ですぐに悟る。
「陛下が笑っていらっしゃる……」
「あんなに楽しそうなお姿、一体いつ以来だろうか……」
近衛兵や従者たちはルーファウスを見て驚いていた。普段、臣下の前では笑わないのだろうか。リゼには彼の本性がよくわからなかった。
すると、ひとしきり笑ったルーファウスは、徐ろにリゼの手を取った。
「構わん。俺の馬に乗れ」
「い、いえ! 大丈夫です!」
脳裏にアンジェリカの顔が浮かんだリゼは、すぐさま手を振りほどこうとする。しかし、どうやっても男性の力には敵わない。
絶対に手を離そうとしないルーファウスは、どこか楽しげに目を眇め、片方の口角を上げている。
「俺のそばにいるのがそんなに嫌か?」
「い、いえ、そういうわけでは……。あの、アンジェリカ様がお待ちですし、先に向かわれてください。すぐに乗りこなしてみせますので」
「乗りこなすにはそれなりの時間がかかる。ほら、行くぞ」
ルーファウスに半ば引きずられるような形で、リゼは歩き出した。振り返ると、エリンがなぜかとても嬉しそうに微笑んでいる。数歩後ろにはフェンリルがやれやれという表情でついて来ていた。
そして、すぐにルーファウスの愛馬の元へ辿り着いた。愛馬は見事な金の毛並みを持ち、皇帝が乗るに相応しいと思える、とても美しい馬だった。彼が慣れた手つきで撫でてやると、馬は気持ちよさそうに目を細めた。しっかりとした信頼関係を築いているようだ。
ルーファウスが先に馬に乗り、リゼはフェンリルを抱えたまま彼の手によって引き上げられる。ルーファウスの前に乗せられたリゼは、想像以上に彼との距離が近く、心臓が跳ね上がった。背中に彼の体温を感じて、嫌でもあの夜を思い出してしまう。リゼの顔はりんごのように赤くなり、誰にも見られたくなくて思わず俯いた。
「背筋を伸ばせ」
すぐ後ろからルーファウスの声が聞こえ、リゼは反射的に顔を上げる。
「そうだ。肩の力は抜いて、視線はまっすぐ前に」
「は、はいっ」
リゼの視線の先にはアンジェリカがいた。彼女は恨めしそうにこちらを見ている。
『陛下はどれだけわたくしを侮辱すれば気が済むの!』
昨日聞いた、アンジェリカの悲痛な叫びを思い出し、リゼは胸を痛めた。彼女が参加するとわかっていたら、リゼは今日欠席していただろう。
(どうせなら、アンジェリカ様を乗せてあげて欲しかったな……)
凛としたアンジェリカと威風堂々としたルーファウスが並べば、きっととても絵になっただろう。自分が隣にいるよりも、ずっと――。
二人が並ぶ様を想像し、リゼはなぜか胸がざわついた。どこか暗い気持ちになり、また俯きたくなったが、ルーファウスの指示を無視するわけにもいかず、視線だけ下に向けた。
程なくして出発した一向は、一時間ほどかけて狩猟用の森林へと移動した。
道中、ルーファウスが手綱の扱いや足での合図の仕方を教えてくれたため、リゼは短時間で随分と乗馬に慣れることができた。上達が早かったのは、幼いころからフェンリルに乗って森の中を駆け回っていたことが大きいだろう。フェンリルの本来の姿は、二メートルを優に超えるほど大きいのだ。もしかしたら、馬よりも乗りこなすのが難しいかもしれない。
目的地に到着すると、まずは一部の兵と猟犬が森林の奥に入っていった。リゼやルーファウス、アンジェリカは、馬に乗ったまま森の中の開けた場所で待機している。十数名の近衛兵たちも一緒だ。
これから森に入った猟犬たちが獲物を追い立て、ここまで誘導してくるらしい。最後はルーファウスが仕留める、という流れだそうだ。
『何が面白いのかわかんねえ』
リゼの腕の中にいるフェンリルは、この場に着いてからずっと文句を垂れている。
昔、一緒に狩りをしていた時は、まずフェンリルが嗅覚で獲物を見つけ、茂みに隠れながら慎重に近づき、リゼが弓で急所を突いてからフェンリルがとどめを刺す、という流れが多かった。そのため、なんの苦労もせずおいしいところだけ持っていこうとするルーファウスが気に食わないらしい。しかし、貴族の狩りというのはそういうものだから仕方がない。
フェンリルには『猟犬たちに混ざってきてもいいよ』と言ったのだが、リゼに何かあるといけないからと、この場に残っている。
しばらくすると、ガサガサと葉のこすれる音が遠くから聞こえてきた。近衛兵たちは、獲物が来たと身構える。ルーファウスも馬から降り、剣を抜いた。
場の空間がわずかに張り詰め、程よい緊張感が満ちる。
――その時、フェンリルの耳がピクリと動いた。
『リゼ、嫌な感じがする。魔物だ。それもかなりの数』
「え……?」
ガサガサという音はどんどん近づいてきている。しかし、おかしなことに、森に入った兵や猟犬の声は聞こえない。それに、一方向からでなく、まるで囲まれているようにそこかしこから音が聞こえてくる。
「様子がおかしいぞ」
「何が起きている?」




