9.皇帝陛下のお通り(2)
リゼは気づけば寝台に押し倒されていた。目の前にはルーファウスの整った顔がある。その瞳には、依然として敵意が感じられた。
リゼの上に覆いかぶさるルーファウスは、シャツのボタンをひとつ、またひとつと外していく。鍛え上げられた肉体が徐々に露わになり、リゼは頭が真っ白になった。
もう追求は終わったのだろうか。それなら、どうして彼の瞳から敵意が消えないのか。そんな疑問を考える余裕すらなくなる。妃教育で散々培った知識たちは、とっくにどこかへ行ってしまった。
「お、お待ち、ください。ま、まだ、心の、準備が……」
かろうじて声を出すことができたが、うまく舌が動かない。その頃にはルーファウスのシャツのボタンは全て外されていて、鍛え上げられた腹筋が目に飛び込んでくる。気が動転し、どこに視線を向ければいいのかわからない。
「俺の子を孕むと、何か都合の悪いことでもあるのか? やはりお前は間者で、この国の情報を掠め取ろうとしているのか? それとも、俺を殺しに来たのか? ならばこの場でそうしてみせよ。返り討ちにしてやる」
ルーファウスは冷笑を浮かべて責め立てるように言葉を並べているが、リゼは彼の表情を見る余裕もなく、彼の言葉すら聞こえていなかった。
「あ……あ……」
リゼは生まれて初めて男性の裸体を見た。長年一緒に暮らしてきた人間が母ひとりだったのだから当然だ。リゼはルーファウスの美しい肉体に見とれた挙句、それを自覚して自分自身に恥ずかしくなり、とうとう両目を手で覆った。
「隠すな。手をどけろ。お前の言葉の真偽を見定められない」
ルーファウスはそう言ってリゼの手に触れた。とうとう事が始まると勘違いしたリゼは、目に涙をためながら反射的に言葉を発した。
「は、初めてなので、優しくしていただけるとありがたい、ですっ……!」
手をどけられ、ルーファウスと再び目が合う。月のように輝くその瞳には、敵意ではなく驚きが映っていた。意表を突かれた、といった様子だ。
リゼもその反応に驚き、一気に涙が引いていく。しばらく見つめ合っていたが、ルーファウスがこらえきれなくなったように喉を鳴らした。
「クッ……ククッ……ハハッ!」
彼は笑いながらリゼの上から体をどけた。寝台の上に座りながら、口元を抑えなんとか笑いを収めようとしている。が、ツボに入ったようで、なかなか止まらないようだ。
(笑顔……初めて、見た……)
これまでルーファウスの険しい表情しか見たことがなかったが、血濡れの皇帝もこんなふうに笑うのだと、リゼは少し意外に思った。
そして、完全にルーファウスに呆れられてしまったと焦る。初めて過ごす夜に泣いてしまうなど、本来ならあってはならないだろう。
「あの……ごめんなさい……こんな、甘えたことを……。覚悟はしていたつもり、だったのですが……」
リゼが上体を起こして謝罪すると、ルーファウスがようやく笑いを収めた。彼の表情は柔らかく、いつもの威圧感はすっかり鳴りを潜めている。
「いや、悪いのは俺だ。怯えさせてすまなかった。安心しろ。お前を抱くつもりはない」
「そうでしたか……」
リゼは安堵しつつも、なぜか胸がチクリと痛んだ。その理由は自分でもわからない。
「そもそも、こんな強烈な殺気を向けられた中で、そういう気分にはなれない」
「え? 殺気?」
目を丸くするリゼに、ルーファウスは視線で窓際を指し示した。そこに答えがあるのだと、リゼもそちらに視線を向ける。
すると窓際には、白銀の小さな狼と、黄金の小鳥がいた。二匹は揃ってルーファウスを激しく睨みつけ、威嚇している。
「いつの間に入ってきたの!?」
リゼは慌てて窓際に駆け寄り、二匹を抱きかかえる。そしてルーファウスに向かって、深々と頭を下げた。
「も、申し訳ございません……どうかお許しください……!」
二匹は不服そうにリゼの腕の中で身を捩っているが、「いいからじっとしてて」と言って、ぎゅっと抱きしめ直す。
皇帝に殺気を向けるなど、不敬極まりない。その上、相手は血濡れの皇帝。どんな厳しい罰が言い渡されるかわからない。
リゼは必死に頭を下げ続けた。自分がフェンリルとヴェンヌの分の罰も受ける覚悟だった。
「構わぬ。実に飼い主に忠実な者達だ。大事にするといい」
予想外の返答に、リゼは顔を上げた。呆気にとられ、ぽかんと口を開く。
ルーファウスの表情は、依然として柔らかい。最悪、不敬罪で極刑も覚悟していたのに、あっさりと許されてしまった。これのどこが”血濡れの皇帝”なのだろうか。噂話とあまりにも乖離している。
自分の衣服を整え始めていたルーファウスに、リゼは思わず尋ねていた。
「陛下はどうして、悪い人のフリをなさっているのですか?」
今度はルーファウスが目を丸くして固まった。そんなことを言われるとは思わなかったようだ。
ほどなくして、ルーファウスはフッと笑った。しかしその表情は陰っている。
「俺は罪深い人間だ。善人ではない」
「そうでしょうか。陛下はお優しい方だと思います」
「……お前は俺のことを優しいと評するのだな。先ほど詰問したばかりというのに」
シャツのボタンを止め終えたルーファウスは、なぜか自分の手のひらをじっと見つめた。まるで、かつてそこにあった何かを思い出すように。
どうしたのだろうと気になったが、かける言葉が見つからず、リゼは黙り込んだ。
妙な沈黙が流れた後、ルーファウスは顔を上げ、気を取り直したように言う。
「謁見のあの日、侮るようなことを言ってすまなかった。あの時は、お前のことをウィンター王国が送り込んだ駒だと疑っていた。許せ」
「い、いえ。むしろ、貴族の方々を制してくださって、ありがとうございました」
リゼは再び頭を下げながら安堵した。どうやら「ウィンター王国の企てに加担している」という疑いは晴れたようだ。
「抱かなかったこと、エリンには言うな。あいつは色々と口うるさいからな。バレると面倒だ。寝具に血でも付けておけばごまかせるだろう」
そう言うルーファウスは、徐ろに魔法を使い、氷の小刀を作り出した。魔力操作に一切の無駄がなく、仕上がりも美しい。たった一つの魔法だけで彼の実力がよくわかる。
しかし、リゼが感心していたのも束の間、ルーファウスはなんのためらいもなく、小刀で自らの手のひらを切った。パタタ、と落ちた血によって、白いシーツに鮮やかな赤が広がる。
「なんてことなさるのですか!」
リゼは慌てて駆け寄った。すぐに治してあげたいが、ここで魔法を使っては自分の正体がバレてしまう。その上、腕の中の二匹はすっかりへそを曲げてしまって、魔力を貸してくれそうになかった。
「これくらい、魔法ですぐに治る」
ルーファウスは事も無げにそう言うと、傷つけた手のひらにもう片方の手をかざした。そして、自身の発言を証明するかのように、一瞬で傷を治してしまったのだ。
治癒魔法は扱いが難しく、扱える者が限られる高等魔法だ。それをいとも簡単に使いこなすとは、彼の魔法の腕は噂通り――いや、それ以上かもしれない。
リゼは改めて感心したが、それよりも心配が勝った。自分のことを平気で傷つけてしまうことに、彼の自分自身への無頓着さに、危うさを感じる。
「だとしても、ご自分をそんな簡単に傷つけるものではありません。一国の主なのですから、御身を大切にしてくださいませ」
リゼが眉を下げて苦言を呈すると、ルーファウスはフッと口角を上げた。その笑顔が思った以上に柔らかく、リゼはドキリとしてしまう。
そして彼は、その大きな手で、リゼの頬にふれる。
「お前は俺から目を逸らさないな。他の妃は、目を合わせようとすらしないというのに」
長い指に、硬い手のひら。夫に――ルーファウスに触れられている事実に、鎮まっていた心臓が、またうるさく鳴り出す。抱きかかえている二匹に、自分の心臓の音が聞こえてしまうのが嫌だった。しかし、その場から動くこともできず、リゼは立ち尽くす。
「怯えて震えていたかと思えば、この俺に対しても恐れずにはっきりと物を申す。面白い娘だ」
ルーファウスの表情は、どこか満足げだった。彼はリゼから手を離すと、懐中時計を取り出し時間を確認した。そしてサッと寝台から下り、扉へと向かっていく。
「この城では自由に過ごせ。足りぬ物があればエリンに。あれはよく気が利く」
ルーファウスは最後にそう言い残し、颯爽と去っていった。
リゼはしばらく呆けたまま、彼が出ていった扉を見つめていた。やがてルーファウスが去った事実を頭が理解すると、一気に足の力が抜け、へなへなとその場に座り込む。
『リゼ、大丈夫か?』
『怖い思いをさせてごめんよ。もっと早くに止めに入ればよかった』
フェンリルもヴェンヌも、一様に心配してくれたが、リゼは「大丈夫、もう寝るね」と言って、ベッドの中に飛び込んだ。そして、上掛けを引っ張り、頭まですっぽり覆う。
(まだ心臓がドキドキしてる……)
リゼの体はすっかり火照っていた。頬にそっとふれると、ルーファウスの手の感触を鮮明に思い出し、また体温が上がる。
リゼは高鳴る心臓が落ち着くまで、その日はなかなか寝付けないのだった。




