明晰夢
気がつけば、橙里はとある和室にいた。机を挟んで正面には、老人が煎餅を食べながら読書をしている。すぐ近くでは、男の子と女の子が2人してこちらに背を向け、食い入るようにテレビを観ている。
「……?此処は…、いや、俺は、たしかに家のベットで眠ったはずだ。それに、この人はもう…。」
橙里は困惑しながら、目の前の老人を見てそう呟いた。話しかけて確認しようと口を開き、
「橙里、」
それの前に、老人が話しかけてきた。
「っ!」
(とすると、俺はもう…。)
その瞬間、橙里の胸に驚愕と深い悲しみが溢れかえった。
「歩波、そんなにその番組が気に入ったのか?」
しかし、老人は顔をあげ、目の前にいる橙里に目もくれず、テレビを観ている子どもたちに目を向けながら言葉を続けた。橙里に話しかけたわけではなかったのだ。それが分かった橙里は大きく息を吐いた。
(俺に話しかけたわけじゃない。…とすると、やはりこれは…)
「「うん!もう、最高!」」
老人の問いかけに、子どもたちが返事をしたのが聞こえ、橙里は子どもたちに顔を向けた。二人は振り返っていたようで、今度は顔を見ることが出来た。その顔は、橙里にとっては馴染みのある、しかし、とても懐かしい顔だった。番組がちょうど終わったタイミングだったらしく、二人は老人のそばに寄ってはしゃぎ始めた。
「せっかく札幌に近づいてもサイコロでまた遠くにいっちゃってて、ほんと面白かった!歩波のじいちゃん、このテレビ、ほかの回もみれる?」
「内容はほとんど乗り物の中でおしゃべりしているだけなのに、とっても面白かった!とってもすごかった!おじいちゃん、見させてくれてありがとう!」
子どもたちが同時に話しかけてしまい、老人は困ったように苦笑いをしている。そんな光景を眺めながら、自分の状況に確信を抱いた。
(間違いない、「明晰夢」ってやつなんだろうな。それも、幼いころの出来事の夢ときたか。)
幼い頃、橙里は毎日といっていいほど幼馴染の家に遊びに行っていた。ゲームや読書、宿題、そのほかにをいろいろなことをして家に帰るまでの時間をつぶしていた。それが、橙里のにちじょうだった。この明晰夢は、そんな日常のうちの一場面だ。そんなことを考えつつ、目の前の光景を懐かしみながら、橙里は目の前の皿からとったせんべい食べる。
「ねぇ、おじいちゃん。深夜バスにのったら、そんなに体がいたいの?」
女の子のほうがそんなことを老人に聞いた。
「そうだなぁ、移動中はずっと座った状態だから、降りるときには痛くなっちゃうんだよ。」
それを聞いた小さい橙里が、困ったように言った。
「…そっか。大人になったら、体が弱くなるって本当だったんだな。俺、それなら大人になりたくないよ。」
それを聞いた老人は苦笑いをした。
「ハハハ…。けどな、痛みもそうだけど、疲れもするんだよ。じいちゃんも昔よく乗ってたけど、この歳になるとさすがにキツイなぁ。」
その言葉に二人が食いついた。
「え~!おじいちゃん乗ったことあるの⁉」
「もしかして、『サイコロの旅』したことあるの⁉」
老人は嬉しそうに微笑んだ。
「『サイコロの旅』はやったことないけど、旅ならしていたぞ。おばあちゃんとも旅の途中で出会ったんだ。」
子どもたちは目を輝かして続きを促している。
「山に登って雲の上までいってみたり、砂漠を歩いてみたり、『水の都』って呼ばれている場所や火山のふもとの町、谷の間の集落、ほかにもいろんなところに行ったなぁ。」
「すっごいや!」
「おじいちゃん!もっと話を聞かせてよ!」
老人の話を聞いて、子供たちは更にはしゃぎ、女の子は老人に抱き着いた。その光景を眺めながら、橙里はこの時のことを思い出していた。
(そう、俺たちはこの時こんな風に佐武郎じいさんの話を聞いてみたこともない景色に想いを馳せたんだ。そして…)
「そうだ!橙里!大人になったら一緒に旅に出ようよ!いろんな景色をみてきてからさ、こんどは私たちがおじいちゃんに話をしてあげようよ!」
興奮覚めやまぬ様子の女の子の提案に幼い橙里大きく頷いた。
「そうだな!歩波のじいちゃん、楽しみにしててくれよ!そうだ、歩波、そのためにはまず体を鍛えないと!大人になったら、体が弱くなっちゃうからよ!」
そう言って、幼い橙里はシャドウボクシングを始めた。そんな二人の会話を聴いていた老人は目を細めて、女の子の頭をなでた。
「ありがとう、楽しみにしてるぞ。」
(たった今気づいたけど、この時佐武郎さんは若干悲しそうだな。)
一連のやり取りをみていた橙里はそう思った。
(結局、俺たちが大学生の時に佐武郎じいさんが亡くなって、この時の約束はいまだ果たせず、か…。)
橙里はセンチメタルな気持ちになりながら、緑茶を啜った。
(それにしても、明晰夢ってホントすごいな。今の今まで忘れていたことをこんな鮮明に思い出せるし、ちゃんと煎餅とお茶の香りもする。というか、正面からの光景なんて俺が知ってるはずもないのに、なんでこんなにはっきりと見れるんだよ。)
橙里は畳に横になると、天井の木目を眺めながら目を瞑る。
(それにしても、旅、か…)
そんなことを考えながら、橙里の意識は思考の海の中へと沈んでいった。
ゴミが散らばった部屋の中にカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
「………………。」
橙里は体を起こしていたが、目が開いておらず、頭がぼんやりとしていた。そんな状態がかれこれ10分は続いている。
「……凄く懐かしい夢を見たな…。それでもやっぱり、夢は奇妙だな…。」
橙里はそう言ってベットから降りて、いつも通りに朝の支度を始める。シャワーを浴びて歯を磨き、パンを焼いて、スマホで連絡と天気予報を確認する。こうしていつもの支度が全て終わったところで、今日はゴミの日だった事を思い出した。部屋の散らかり様に嫌気を覚えつつ、時間に余裕があったため片づけをする。何とか人を招けるほどに部屋を片づけた橙里はベットに腰を落とし、重い溜息を吐いた。
「はぁ…。朝からこんなに疲れるとか…。気力湧かねぇ…。はぁ…。」
そう言って再び溜息を吐いた橙里は今日みた夢を思い出した。
「旅…か…。」
(忘れてたや。小学校のころに将来の夢で『旅人』って書いたこともあったっけ。)
台所からパンが焼けた音がした。
(なんか昨日からずっと憂鬱というか、心がざわついてるし、俺が先導きってたプロジェクトも昨日で終わったし、行けるなら行きたいけど…、仕事があるしなぁ…。)
そう考えて、三度目のため息をつこうとしたとき、橙里はふと気が付いた。
「あれ?そういえば、俺が今の仕事頑張っている理由って、なんだっけ?というか、志望動機自体、なんだっけ?」
(俺のさっきの考えは、要は仕事があるから旅に行けないってことだよな。…とすると、仕事が無ければ旅に出れる?)
そんな、恐ろしいことに橙里は気がついてしまった。
(いや、待て、待つんだ橙里!思いとどまれ!お金、お金はどうすんだよ!旅は金がかかるぞ!な?やめとけやめとけ、旅なんて思いつきで行くもんじゃねぇよ。)
心の悪魔がそう囁いてくる幻がみえる気がする。
「お金…。カネ…。投資に使ったお金があったはず…。そもそも貯金自体、今どれぐらいあるんだ?」
早速スマホの銀行アプリを開き、預金を確認してみる。
「カンマが三つ…。」
橙里は生唾を呑み込んだ。
「始業時間まで後2時間半…、会社まで電車で1時間…。」
橙里の身体が震え出す。
「そして、今の俺に、仕事を仕事を続ける理由は思いつかない…。」
心の悪魔が匙を投げる幻がみえた。
橙里の口角が上がっていく。
「フフフフッ、フッハハハハハッ!もう誰も、俺を止められねぇ!」
イキイキとした目で悪魔の笑いをする男は行動を開始した。




