長い一日の終わり
幸野橙里「旅」とは、住む土地を離れて、一時他の場所に行くこと。旅行。古くは必ず遠いところに行くことに限らず、住居を離れることを全て「たび」といった。(『広辞苑 第五版』より)
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終電間近、もうすぐ日付が変わると言った時間帯、LEDの灯りで白く照らされた駅のホームのベンチに一人の男が目を瞑って座っていた。くたびれたスーツ、濃い隈、血色の悪い肌、軽くコケた頬、無精髭。くたびれたサラリーマンを体現しているこの男の名は、幸野橙里。激務をこなしたサラリーマンである。
「………ンア?あぁ、ヤッバ。眠ってた…。」
目を覚まし、次の電車の時刻を確認するために時刻表へと目を向ける。しかし、短時間とはいえ、眠ってたにも関わらず、その動きは緩慢だった。
「5分後か…。ふぁぁぁ〜、あぁもう、眠気エグいわぁ…。」
大きな欠伸をしながら、気怠けな独り言を言う橙里。もういっそこのままここで一夜を明かしてしまおうか、なんて考えが頭の中身浮かぶほどには疲れている。そんなことは出来るはずがなく、出来たとしてもいえのふとんの方が遥かに疲れが取れるため、一刻も早く家に帰りたいと思っている。とはいえ、何か対策をしなければ再び睡魔に負けてしまうため、ブルーライトを求めてネットニュースを読み始めた。
(汚職に不倫に明日のお天気、お手軽献立、イチオシの本…相も変わらずネットの海はカオスだねぇ…。)
「…っと。」
定刻に電車が到着し、ホームドアが開く。幸いにも人は少なく、すぐに席に座ることが出来た。再びスマホを開き、ネットサーフィンを再開すると、とある記事が目に止まった。『羽根山歩波最優秀主演俳優賞受賞』
橙里はその記事をみて口角が上がり、思わず小声で独り言を呟いてしまう。
「流石は、今をときめく名俳優だな。」
指を動かし、その記事をさらに読み進めていくと、インタビュー内容があった。
(『今、受賞した事を一番伝えたいのは、家族と幼馴染です。』…。嬉しい事言ってくれるじゃないの…。)
記事を読み終えた橙里は、他に面白そうな記事がないかと、三度ネットの海に潜り始めた。
(六本木のイルミネーション、ヒーロー達の新フォームの玩具、クリスマスマーケット、冬休みに行きたい観光スポット…、そっか、もうそんな情報が出てくる時期か…。)
橙里は、窓から見える深夜の街に眼を向ける。街の明かりもまばらになってきていた。
「まさに、光陰、矢の如し、だったなぁ。」
視線をLEDモニターに目を向ければ、家の最寄り駅まで5駅ほどある。車両内を見渡せば、乗った時にはいた他の乗客は居なくなっており、乗客は橙里だけになっていた。
背筋を伸ばして目を瞑り、ここ数日のことを振り返る。ここ数日、長い間取り組んできたプロジェクトが大詰めになっており、それが今日、ようやく終わったのだ。入社してからずっと大変に感じていた勤務内容たち。それらが簡単に思えてしまう程、ここ数日は激務だった。食事も睡眠も、短時間で簡単にしか摂ることが出来ず、地獄にいるのだと思ってしまうほどだった。そんな地獄を乗り越えたプロジェクトは成功、いや、大成功だった。プロジェクトメンバーの努力は報われた。達成感に溢れていた。いつもは無愛想な部長も、今日は満面の笑顔だった。みんなで打ち上げをすると決まった時、部長が全額出してくれた。数日の疲労が吹き飛ぶほどの、興奮と歓喜、喜びに溢れたはずなのに…
(俺は…何故こんなに、心が満たされない感覚になってしまっているのだろうか…。)
電車の白い明かりを浴びている橙里の心は、虚無感に溢れていた。
電車は最寄駅に到着し、明るい駅から出た橙里は、1人で暗い深夜の街を歩く。秋から冬に移り変わる空気が体に纏わり付き、橙里は身体を震わせる。急ぎ足で静寂を進み、家の前へと辿り着く。家の中に入ると、静寂が一層強くなったような気がした。疲労感から風呂に入る気力も、食事をする気力も湧いてこず、激務ゆえに、数日間掃除のできていない部屋を抜けて、橙里はそのままベットに倒れ込んだ。その身を襲い続けていた眠気についに身をまかせて、橙里はそのまま深い眠りについた。
カクヨムさんでも掲載させて頂いています。
話の進みは遅いです。