地上の住人
――生きてるのか……?
ドラゴンを目の前に目を閉じても、痛みが襲ってくる気配はない。身体が動く感覚はある。
もしかして、痛みを感じる間もなく踏み潰されたのか。なんて考えられてるうちは生きてるんだろうけど。
「な……」
薄く目を開けると、人間なんておやつ感覚で飲み込みそうな大口を開けた魔物が悪趣味にも俺が怖がって背中を向けるのを待ってるのか? それにしては、俺が目を開けてるのにピクリとも動かない。
「死んでる……?」
頭があり得ないと否定しても、現実は俺の眼にあり得ない光景を見せつける。さっきまでお元気に空を飛んで火を噴いていた魔物の頭と体が分断され、砂の山に埋もれていた。さっきの音は踏み潰された音じゃなく魔物の頭が砂に落ちた音だったのか。
少し遅れて、制御を失った胴体が地響きと共に砂漠に倒れ、砂塵を巻き上げる。見たことないほどの量の血が黄色い砂を赤く染め上げ、嫌なにおいが立ち込める。
何が起こっているのか全く分からない。ただ、助かったと言い切れないってことは分かる。一見、目の前の脅威は去った。だけど、この状況から考えると、今のバケモノを一瞬で倒すほどの何かが近くにいると考える方が自然だ。もし、もっと強い魔物が近くにいるとしたら、隠れる場所のない砂漠でジェシーを守れるだろうか。
「……大丈夫か、少年」
ふと、唐突に響く凛とした声に心臓が跳ねる。まさか、この砂漠に人がいるのか。恐る恐る辺りを見渡すと、茶色い布で口元を隠した人影が魔物の足元で立っていた。
砂漠に溶け込むような色をした外套に体を隠しているけど、その上からでも細身の少女だということが分かる。反面、右手にはナイフにしては大振りの物騒な得物が握られていて、鉈のような、剣のような鈍色に光る刀身からは鮮血が滴っていた。そして、一際目を引くのが顔に巻いた布と外套の隙間から覗く血のように朱い前髪と、炎のように紅い瞳。その格好と雰囲気は、只者には見えなかった。
助けてくれたってことはわかる。ただ、安心できる状況でもなさそうだ。こんなにでかくて強そうなドラゴンを一刀両断にするような人間だ。仮に敵だと思われたら、たぶん殺される。
どう答えたらいいか分からずに固まっていると、謎の少女はこっちを見てため息を吐いた。
「そう警戒しないでくれ。生憎私は魔物や鬼ではない。獲って食ったりはしないさ」
同時に、周囲に充満していた殺気が霧散する。
少女は得物に血ぶりをくれて懐にしまうと、そのまま太いロープを取り出して手慣れた手つきで魔物の尻尾を縛り上げてナイフで切り落とす。妙に手際がいいけど、地上の狩人みたいなものか。
「君は一体……?」
「私はアカネ。村一番の戦士だ」
漠然とした問いかけに、アカネと名乗る少女はこっちを振り返らずに答えた。村ってことは、地上にも人間の集落があるってことか。こんな世界でも、人は生きていけるのか。
「君は? 見ない顔だが、他の集落から来たのか?」
呆然としていると、アカネはこっちを向いて目だけで不審そうな顔を浮かべる。外套と同じ色の布で鼻から下を隠しているからか、どこか不気味な感じだ。ともかく、相手は武器を持ってる。怪しまれないようにしないと。
とりあえず、まずは正直に……「俺はレイン。クジラの上から来たんだ」と言ったところで、しまったと口をつぐむ。
クジラなんて言っても、地上の人間に通じるかどうかは分からない。もし知ってたとしても、そこから来たなんて自分は怪しい人間だと自己紹介してるようなものだ。
突飛な発言にアカネは面食らったように赤い目を見開いたかと思えば、すぐに口元に手を当てて苦笑した。
「積乱雲の上に浮かぶという島のことか。そんなところから来たなんて、面白いことを言う」
おかしなことを言っている自覚はある。俺だって、自分が生き物の上に住んでることを知ったのはつい最近だ。
「とはいえ、君が嘘を吐いているようには見えん。というより、嘘を吐く理由がない」
「信じてくれるのか?」
「君は、そのドラゴンに乗って来たのだろう?」
「乗って来たってよりは、急にバケモノに襲われて落ちてきたって感じだ」
アカネは俺の背後に視線を向けると、ジェシーは小さく尻尾の先を振った。元気だと伝えようとしてるけど、それが弱々しい印象を大きくする。それを見たアカネは何か納得したように頷いた。
「ドラゴン……それも、滅多に人前に現れないと言われる飛竜の子供がなついている人間に悪人はいない。君がよければ、私たちの村に案内しよう」
「本当か! それなら助かる!」
地上でも飛竜は伝説の生き物として知られてるのか。結果的に、ジェシーのおかげで命拾いしたわけだ。
「ああ。ドラゴンは動けるか?」
怪我をしているみたいだけど、少しなら動けそうだ。ただ、空を見上げるとあんなに大きかったクジラが指先くらいの大きさになっている。戻るのは当分無理そうだな。
アカネの言葉を聞いていたのか、ジェシーはさっきより少し元気そうに尻尾を振る。本当は休ませたいところだけど、ジェシーが気を遣わせたくないと思ってることくらいわかる。
「歩くだけなら大丈夫だと思う」
「そうか。なら、ついてきてくれ」
アカネはそう言って頷くと、切り取った魔物の尻尾を担いで踵を返した。ひとまず、信用してもらえたみたいで助かった。ジェシーを肩でかばいながらアカネの足跡についていくと、アカネは背中越しに口を開く。
「魔物から逃げて消耗しただろう。近くに拠点があるから少し休んでいこう」
「ありがとう。助かるよ」
やっぱり、こんな日差しの下で生活してるわけじゃないのか。見たところ周りには草木一本生えてないけど、どうやって日差しを防いでるんだろうか。
「……その前に、これをつけておけ」
「うわっ!」
ゆだるような頭で考えていると、べっとりとした感触の布が思考と視界を遮った。慌てて摘まみ上げると、アカネが口元に巻いているのと同じ薄灰色の布だった。
「これは?」
「防魔布だ。外の砂塵は人体に有害でな。あまり長く吸いすぎると肺が焼けただれてしまう」
「まじかよ」
吸い込みすぎると、肺炎になるってことか。雨雲病と関係があるかもしれないな。防魔布を首の後ろで結ぶと、つんと鼻に来る臭いが砂の匂いをかき消した。薬草を煮詰めた汁で浸したような感じだ。身体には良さそうだけど、当分慣れなさそうだな。それよりも。
「ジェシーは大丈夫なのか?」
外の砂が人間にとって毒なら、ジェシーにとっても良くないと思うのは自然だった。その上、怪我をしてるジェシーが汚染された空気や砂に触れるのも良くない気がする。
「ドラゴンの事なら心配は無用だ」
「……どういうことだ?」
「砂から発生する瘴気は、人間にだけ牙を剥く。ドラゴンなら野性でも生きていけるさ」
「なんでだよ」
「……」
ふと、純粋な疑問にアカネは足を止め、背中越しにつぶやいた。
「人を殺すために撒かれたからさ。魔物や動物に害はない」
砂漠の真ん中で、風が砂を巻き上げる音だけが響く。さっきまで歩いていたところの足跡は風で流されて、もう見えなくなっている。まるで、俺たちの存在を消そうとしてるように。
「それってどういう……」
まさかとは思うけど、アカネの仲間が撒いたのか? そう口にしようとすると、アカネは速足で歩き始める。
「行くぞ。呼吸するときはなるべく布越しでな」
「おい、待ってくれよ」
結局、まっすぐ歩いていくアカネについていくことしかできなかった。




