第19章:1981年という1年(その2)
まずは、もういいかげんしつこいので、皆様には「耳タコ状態」の方もおられましょうけども・・・
『松田聖子さんの歌』。
ぼくが美絵子ちゃんと、連日のように、仲良く手をつなぎながら下校したあの日、あのとき。
聖子さんの歌が、ぼくと美絵子ちゃんの『絆』を、強固なものにしてくれました。
だから、あの『魔物事件』さえなければ、あるいは、いまごろ・・・今日、このときも、ぼくと美絵子ちゃんは、お互いの休日を、ともに松田聖子さんの『赤いスイートピー』あたりをリビングでいっしょに聴きながら、いつのまにか、ぼくが美絵子ちゃんの膝まくらで寝てしまう・・・
こんな幸せで、心地いい時間を共有していたかもしれない。
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・・・聖子さんの歌のことは、もういいだろう。
次に、『バイ菌軍団消しゴム』。
これは、1980年、1981年ごろに、地方の駄菓子屋などのガチャガチャで、ひとつ20円ほどで売られていた、ゴム製のおもちゃである。
もう、その材料そのものが、「環境ホルモン」の規制に引っかかるということで、いまは製造禁止になってしまっているが・・・
まだまだ、ヤフオクやメルカリでは、プレミアがついて高額だが、入手可能である。
ぼくの「はとこ」に、小林功ちゃんがいる。
この「功」というのは、処女作『たからもの』における、峯岸美絵子ちゃんのお父さん、「功さん」の、名前のモデルにさせていただいた。
功ちゃんとは、1978年・・・ぼくが小学校2年のときに、東京で知り合った。
東京のおばさんのところに、父を除いた、母方の親戚のみんなで泊まりにいこうということになり、東京の『十条』というところの家に2、3泊してきた。
このころ、地方の児童にとっては、東京という都市は、まだまだ「神秘の領域」だった。
TVドラマでも、新宿副都心の超高層ビル群が出てくるし、CMでも、スーツを着たサラリーマンが、都会を闊歩するシーンなんか、よくお茶の間に流れていたものだ。
子供だけでなく、大人にとっても、東京に出ることは容易ではなかった。
電車にしても、いまの快速電車なんてなかったし、おっそいオレンジとグリーンの、超各駅停車版の「普通鈍行列車」ぐらいしかなかった。
ぼくは、たしか、みんなで靖国神社に行った時、おばさんあたりから、功ちゃんを紹介されたんだと記憶している。
性格が似ているせいか、ぼくと彼は、すっかり意気投合し・・・それからは、毎年のように、ぼくが東京で功ちゃん、それに、妹の由美さんに会ったりして、いろいろと語り合ったり、キャッチボールして遊んだりした。
功ちゃんは、ぼくよりひとつ、上の学年だった。
どこかにも書いたことがあったが、このときのおばさんの家には、「お座敷便所」なる、トンデモネーものがあった。
なんと、おしいれをあけると、そこに「和式トイレ」が!!
狭い住宅事情がそうさせたのであろうが・・・皆さんも、アレにはたまげると思うでぇ~(笑)。
おばさんには、矢板市に発つときに、「ウルトラ警備隊セット」なるものを、そこの近所のおもちゃ屋さんで買ってもらった。
母が買ってくれないので、しかたなくおばさんに泣きついた形だ。
これは、昭和の特撮ヒーロー物の「ウルトラセブン」に出て来る、ウルトラ警備隊という組織が使用する銃のモデルガン、無線連絡兼テレビ電話、モロボシ・ダンがセブンに変身するときの必須アイテム『ウルトラアイ』も、同梱されていた。
・・・この功ちゃんだが、あんまりぼくと仲良くなったので、ぼくが美絵子ちゃんとグッと距離を縮めた1981年のお盆に、うちに1週間ほど泊まりにきてくれた。
そのとき、ぼくと功ちゃんが、川崎小学校の前にあった、「神山文房具店」の店頭においてあったガチャガチャで集めまくったのが、前述の『バイ菌軍団消しゴム』だったのである。
「今野産業株式会社」という会社が作ってくれた玩具のひとつで、もう、金型もないらしく、そして、原材料の一部が、「環境ホルモン」に指定されてしまっているので、もはや「復刻版」も作れないと聞く。
ぼくは、この『バイ菌軍団消しゴム』を見たりさわったりするだけで、当時、美絵子ちゃんや功ちゃんと遊んだ、あのさわやかな夏の日々を思い出すことが出来る。
そんなわけでぼくは・・・
いまでも、ヤフオクやメルカリで、自分が所有していない「バイ菌消しゴム」の色違いバージョンや材質ちがいバージョンを見つけては、50歳を過ぎても、買いあさる日々なのである(苦笑)。




