切っ掛けは小さな花園で
第6話 切っ掛けは小さな花園で
1
西方歴3006年初春。オストニア王国、巨壁山脈東麓地方南部にある工房都市カメンスク。その日は氷曜日で、前日に行商人が商店街に商品を卸した日だったので、キオスクに1週間分の新聞が並ぶ。リルは、その曜日をいつしか新聞の日と呼ぶようになっていた。
リルは、アテラと一緒に、日課の朝の散歩に出掛けた。毎度のこと、キオスクが開くまで時間があったので、王立魔導従士研究所の所長の家の前で、庭先で飼われている犬の観察をしていた。アテラは、犬の観察をするリルを観察していた。所長宅の犬は、何故が犬小屋の中に入らず、犬小屋の屋根の上で寝ている。犬小屋の表札には「タレミミ」と書かれていたので、そういう名前なのだろう。名前の通り、長い耳が垂れているのがカワイイ。
「みう?」
リルは、タレミミに竜語で話しかけてみたが、タレミミは、リルの方を片目だけ開けて一瞥しただけで、すぐに元の姿勢に戻って寝てしまった。
キオスクが開店する午前6時になると、新聞を買って帰った。新聞には、隣国グランミュール王国で、暴動の兆候があるという記事が載っていた。リルは、そんなじょうほうどうやってとってるんだろう、と思った。
「こんな記事、どうやって書いてるんだろう。」
アテラも同じ記事に疑問を抱いたようだ。
2
グランミュール王国の王都シテで、新年を祝う祝賀行事が行われた。見栄っ張りな王妃マリーヌの意向で、この年も財政難にもかかわらず、各地から貴族を招いて、盛大な式典が行われた。式典の会場になった王宮の大広間には、冬だというのに、この日のために集められた、色とりどりの花で装飾され、出席者へのお土産も、意匠にこだわったノルラント王国製の銀製カトラリーのセットが用意された。
「ご無沙汰しています、ド・モンフォール伯爵夫人。」
「これは王妃様、ご機嫌麗しゅう。今ちょうど、この部屋を飾るお花について、話していたところですわ。」
「ふふふ。この季節でも綺麗に咲く花を集めて、王家の花園で育てましたのよ。」
王妃は、ここぞとばかりに、自分が用意させた花の自慢を、貴夫人たちにして回った。
各地から貴族が集まれば、王都に滞在するための宿をとるから、当然、市井にも、王宮での華やかな行事の様子が伝わる。喫茶店フィヤンでも、そのことが話題になった。
「これから増税をするかもという噂なのに、王家の散財ぶりは酷いね。」
そう酷評するのは、フィヤンの常連のチャゲアス・セイ=イエスだ。
「噂通りなら、ド・ローヌ財務長官は、例年通りの規模での祝賀行事の開催に難色を示したそうだ。」
そう応じるのは、アントン・ダールトンだ。
「ふむ。さすがはダールトン氏。色々な情報に精通している。それにしても、あの王妃は、領民からの税金を金のなる木か何かだと思っているのかね。王家が倹約に励まないで、それで増税などという話になれば、そろそろ民の心も、王家から離れてしまうよ。」
セイ=イエスは、これから起こることを暗示するようなことを言った。
「それは、例の『人民の中へ』と接触しての手応えか?」
普段は聞き役に回ることが多いダールトンが、珍しくセイ=イエスに質問した。
「いや。彼らは、人民を教育してはいても、焚き付けるようなことは、していないと、あの時は感じたな。」
セイ=イエスは、「人民の中へ」が密かに進めている計画を知らないのだ。それは、「人民の中へ」の方が用心深いのもあるが、何と言ってもセイ=イエスが、彼らと会った時、自分の喋りたいことを喋って、彼らの腹の内を探るようなことをしていないからである。
増税の布告がされたのは、新年祝賀行事に集まった貴族たちが、所領に帰ってすぐのことだった。シテ市民の反応は、
「今でも楽な暮らしじゃないのに、これ以上税金なんて払えるか。」
「いよいよ、戦争が始まるのかねぇ。」
「王家はあれだけ豪遊していて、その上増税なんて、冗談じゃない。」
と言ったところだ。
「人民の中へ」が集まる喫茶店ジャコバ=アンでも、増税の話題になった。
「マーラー、君の言った通りになったな。」
ロベ・ラピエールが同志のフランク・マーラーに言った。
「これでも記者の端くれだ。情報源はある。」
マーラーが応じる。
「その上で、あの計画を立てたのだったら、君は大した戦略家だよ。」
「褒められるほどのことじゃない。」
「増税の目的は、近衛騎士団の強化だろう。グランミュールも、いよいよロターリア戦役に介入する積もりか。」
「我々の計画が間に合えば、そうはならないがな。」
ここで少し、グランミュール王国の税制について解説しておこう。グランミュール王国には、現在もいわゆる不輸不入の権があり、国王といえども貴族領の領民に課税できないことは、すでに述べた。
国王直轄領に関しては、民営地と直営地に分かれる。民営地とは、国王から農奴に貸与されている土地で、貸与を受けた農奴は、民営地からの収穫量に応じて地代を支払わなければならない。長らく停滞していた西方世界でも、貨幣の普及が徐々に進んでおり、農奴制が出来たばかりのころは、現物地代、すなわち収穫された作物そのものを領主に納めていたが、現在は貨幣地代、作物を市などで換金して得られる通貨(西方世界で用いられる通貨は専ら硬貨であり、紙幣はまだない)で、地代を支払わなければならない。ちなみに土地の所有は、貴族にしか許されていない。
国王を含む領主の主な収入源はこれらの地代だが、直営地からの収益もある。直営地と言っても勿論領主自身が鍬鋤を振るって土地を耕すわけではなく、領民に、直営地を維持するための賦役が課せられる。王家が所有する花園も、直営地であり、その管理は、国王直轄地に住む領民が、交替で行っていた。こらの賦役も税の一種である。
その他、所領に都市を抱える貴族は、都市の商工業者に売り上げに応じた課税をしていた。国王直轄領にも、王都シテという都市があるので、王家にもこの商工業者からの税も入っている。この税は勿論現金払いである。やや込み入った話になるが、売り上げを基準に課税がされるので、例えば、製糸職人が糸を紡ぎ、染色職人が糸を染め、織布職人が機を織るといった具合に、たくさんの事業者の手を経て最終製品が出来上がる場合、中間生産物が次の職人に売られる度に、税金がかかることになる。すると、最終製品完成までに関わる業者が多いほど、製品価格に占める税金の割合が増えることになる。このような税制をカスケード税と言う。このカスケード税の存在が、グランミュールにおける分業化を妨げ、長年農業国のまま、手工業者も、一人で原材料から製品を仕上げられる熟練の多能工中心という状態を続けさせた要因なのだ。
地代にしろ、賦役にしろ、税率はころころ変わる。農奴にとって過酷なのは、領主の必要を満たすため、凶作の年ほど税率が高くなる傾向があり、グランミュールの温暖で穏やかな気候がなかったら、度々飢饉が起こっていてもおかしくない。
国王が出した増税の布告は、人の歩く位のスピードで、少しずつ全土に広がり、ほとんどの貴族が追随して増税した。各地の農奴たちにとって、それまでも決して楽ではなかった暮らしが、更に逼迫することになる。増税に対する不満は少しずつだが確実に高まって行った。
増税への不満を貯めていたのは、都市の商工業者も同じである。ラピエールの実家は、グランミュールでも有数の商会を経営していて、主に穀物を取り扱っていたが、増税の影響で穀物の仕入れ値が上がった上に、それを客に価格転嫁すると、その売り上げにかかる税金も跳ね上がる。裕福な商家なので、それだけで経営が傾くことはないが、ラピエールの父は、増税のせいで景気が悪くなり、商売あがったりと嘆いているらしい。
そんな実家で、親の愚痴に付き合うより、ジャコバ=アンで「人民の中へ」の仲間たちと語らっている方が、余程建設的である。
「同志クリストフ、戻ったのか。東部の状況はどうだった?」
この時代のグランミュールには、長距離の通信手段は、伝書鳩くらいしかない。「人民の中へ」のメンバーのローラン・クリストフは、馬で東部の農村を回って、子どもたちに読み書きを教えながら、現在の農奴がどれだけ非人間的な扱いを受けているかを説いて回っていたが、この前日に農村回りを終え、王都シテに帰って来ていた。
「お久しぶりです、同志ラピエール。私は、ド・クレルモン公爵領を回っていたのですが、公爵も国王に追随して増税を行いました。農奴たちの不満も、日に日に高まっていると、そう感じられました。」
「そうか。マーラーの予想が、良くない方に当たったな。あるいは、これも産みの苦しみとして受け入れなければならないのだろうか。」
普段は自信満々のラピエールが、らしくなく悲観的になっていた。
「どうしました、同志ラピエール。」
「ここに、あれがいないから言うわけではないが、マーラーの予想では、これから些細な切っ掛けで、全国規模の暴動に発展する。そうすれば多くの血が流れるだろう。政治を変え、人々の人間らしさを取り戻すために、避けられぬ犠牲とは言え、流れる血は少ない方がいいに決まっている。何故だと思う?」
ラピエールは、クリストフに問いかけた。
「人命は尊重されるべき、だからでしょうか。」
「その答えも間違いではないがね、何故尊重すべきかが足りていない。」
ラピエールは、自分より若いクリストフに、諭すように続けた。
「生命の権利が、基底的に重要だからだ。精神の自由も、財産権も、生命の権利が認められて、初めて意味がある。噛み砕いて言えば、命あっての物種だよ。人間の尊厳を守る闘いで、人命が失われるのは、痛し痒しとしか言い様がない。」
「基底的権利…。」
「暴動によって政治を変えようというのは、罪深いことなのかもしれないと、そう思ったのさ。ただ、誰かが動かない限り、世界は停滞したままだ。モンペスキーやアンリが期待したように、賢君が現れて、政治を変えてくれるなどと考えるのは、逃げでしかない。」
ラピエールは、紅茶に口を付け1拍置いた。
「同志クリストフ、目をそらさずによく見ておいてくれ、我々がやることを。これから多くの血が流れるが、そうして血を流す人々のためにも、我々はやり遂げねばならん。」
「分かりました、同志ラピエール。」
その後は、いつも賑やかな「人民の中へ」の若者たちも、言葉少なだった。
3
1月17日。その日は、内陸で降雪の少ないグランミュールでは珍しく、小雪のちらつく日だった。王都の郊外にある王家の花園。ここも王家の直営地で、領民が交替で花園の世話をしている。賦役の一種だ。
その日、賦役に来ていた農奴たちに、役人から王妃の指示が伝えられた。
「王妃様は、春に向けて、赤と紫だけでなく、青い薔薇を育てよとご命令だ。今から準備しておけ。」
青い薔薇とは、我々の世界では品種改良により実現しているが、この世界では、不可能なことの代名詞だ。そうでなくても増税で不満が貯まっていた農奴たちは、遂に爆発した。
「青い薔薇なんて、無茶言うでねえ。」
「王宮で贅沢三昧しといて、更におらたちから搾り取るだか。」
「こんな仕事、やってられねえ。」
口々に言いながら、農奴たちの怒りの矛先は、手の届く場所にいた者、つまり王妃の指示を伝えに来た役人に向かった。
「こうなったら、やっちまえ。」
「役人が。よくも今までこき使ってくれたな。」
「こうして、こうして、こうだ!」
農奴たちは、次々に役人に襲いかかった。そうなると多勢に無勢。役人も帯剣していたが、まさか農奴に反抗されるとは考えていなかったので、反応が遅れた。多数の農奴たちに一方的にたこ殴りにされる。
「痛ッ。止めッ、止めろ!誰か!誰か来てくれ。」
王家の花園にも、衛兵が駐留している。衛兵が騒ぎを聞きつけ駆けつけた時には、役人は、農作業で使う縄で、縛り上げられていた。
「おい!お前たち。止めろ。」
衛兵は声を張り上げたが、一度火が付いた農奴たちは言葉くらいでは止まらない。
「役人に手を出したことがバレたら、おらたち処罰される。衛兵様もやっちまえ。」
農奴の1人が叫ぶと、
「やっちまえ。」
「今までの恨みだ。」
「こうなりゃ自棄だ。」
と、他の農奴も口々に叫んで、衛兵に襲いかかった。
「こいつら。反抗する気か⁉」
衛兵は、襲いかかって来る農奴たち相手に、剣を抜いてしまった。
「野郎。そんな剣1本で、おらたちの怒りが抑えられると思うなよ。」
「多勢に無勢だ。」
「やっちまえ。」
「ええい。寄るな、寄るな。寄らば切る。」
衛兵の警告も虚しく、彼は農奴たちに取り囲まれてしまった。農奴たちも、農作業で使う鎌や鍬を持って、衛兵と対峙した。そしてにらみ合うこと1分弱。衛兵の後ろに回っていた農奴の1人が、
「どりゃあー。」
とかけ声を掛けて、鍬を振り上げ衛兵の頭目がけて振り下ろす。衛兵も、かけ声に反応して、振り向きざまに剣で鍬を受けるが、その隙に、別の農奴が、衛兵の首を狙って、鎌を振りきった。幸か不幸か、鎌は、衛兵の兜と鎧の隙間に食い込む。
「この!」
衛兵は、鍬を振り下ろしてきた農奴を押し返すと、返す刀で、鎌を振った農奴に剣を振った。飛び散る鮮血。ただ、兜と鎧の隙間に食い込んだ鎌が落ちると、そこから衛兵の血が、勢いよく噴き出した。頸動脈が切れたのだ。
「ひえぇ。」
「血、血だぁ。」
「やっちまった。」
農奴たちに応急手当の心得はない。あったとしても、切られた農奴が負った傷は深く、止血は難しかっただろう。農奴たちは、切られて倒れた仲間を囲んで、なすすべなくうろたえるしかなかった。
一方、衛兵の方も、頸動脈が切れた事による出血が激しく、意識朦朧としていた。本来なら、兜を脱いで、清潔な布で圧迫止血をすれば、一命は取り留めただろう。ただ、出血が酷く、判断力が低下した衛兵は、吹き出る自分の血を、他人事のように見ていた。
「さ、寒い。俺は…死ぬ、のか?」
それが、衛兵の最期の言葉になった。
かくて、農奴1人と衛兵。2人の犠牲者を出して、花園での1件は幕を閉じた。
4
花園が王都のすぐ側にあったこともあって、噂はすぐに王都中に広がった。ただこういう時は、噂に尾ひれがつくもので、
「農奴が、花園の衛兵を切ったらしい。」
「俺が聞いた噂は、切られたのは農奴らしいぞ。」
「王妃の横暴が原因らしい。」
「このままじゃ、俺たちもどうなるか分からん。」
「俺たちもやっちまおう。」
と、どんどん過激化する方向に、噂は姿を変えていった。
翌日の夕方、ジャコバ=アンで、ラピエールは、マーラーから事の顛末を聞かされていた。
「どの噂も的外れではないな。真相は、暴れる農奴たちを押さえようと剣を抜いた衛兵に、農奴たちから襲いかかったらしい。農奴が1人切られて死んだが、衛兵も死んだようだ。」
「さすがは、敏腕記者。記事になるのかい?」
「いや、無理だろう。王妃の横暴が原因というのも本当らしいから、記事にしたら、新聞自体が発禁処分だ。」
真相を聞かされたラピエールは俯いて、小さな声でつぶやくように言った。
「犠牲者が2人。これも避けられない犠牲だったのか?」
聞いていたマーラーは、
「そうだな。腐りきったこの国を変えるには仕方ない犠牲だ。」
「割り切れ、と?」
「そうだ。」
ラピエールは顔を上げた。
「分かった。私の覚悟は決まった。それで、マーラー。この後、どうなる?」
どうする、ではなくどうなるという問い。
「もう火は点いた。燃料も充分。後は燃え広がるだけだな。」
元々そういう戦略だった。ラピエールも確認したかっただけである。
「後戻りはできないな。」
「できないし、させない。」
マーラーは、決意を固めた者も表情だった。
翌日。王都シテの市民の中でも、血気盛んな連中が、ヌーセ川の中州、パリ島に集まっていた。
「このまま重税に喘ぐのも、戦争が始まるのも、先日の花園の農奴の様に殺されるのも御免だ。だから、行動する。」
「まずは王家の金庫番がいる、宮殿の東棟を襲うぞ。」
「狙いは、財務長官のド・ローヌだ。」
「行くぞ。」
市民たちは、口々に、
「戦争反対。」
「パンをよこせ。」
「増税止めろ。」
と、シュプレヒコールを上げながら、財務長官の執務室がある、王宮の東棟に向けて行進した。途中、最初に集まった者たちの訴えに共感する市民が次々と行進の列に加わったので、王宮の東門に着くころには、人数は当初の10倍にまで膨れ上がった。
王宮の東門では、門を守る近衛騎士が、
「な、何だ、お前たちは?」
と来訪の目的を問うが、近衛騎士はたった2人。対して集まった群衆は、120人にもなっていた。
「邪魔だ、邪魔だ。」
「門を開けやがれ。」
「下っ端に用はねえ。」
群衆は、近衛騎士を無視して、東門になだれ込んだ。
「えーい。解散!解散!」
近衛騎士は必死に叫ぶが、熱狂する市民たちを止めることはできない。そして市民たちには幸運なことに、近衛騎士には不幸なことに、王宮の東門は、普段出入りする者が少ないため、この時偶然施錠されていなかった。
「開いたぞ。」
「突っ込め!」
東門が開くと、120人の市民が、ドッと王宮に入っていく。たった2人の近衛騎士では、留めることは不可能だった。
王宮の敷地内に入った群衆は、そのまままっすぐ東棟に向かった。東棟は、王家の人間が使わない、家産官僚たちの執務室を集めた建物だったので、護衛の騎士はいなかった。そのため、群衆は、門を破った勢いそのままに建物になだれ込み、
「ド・ローヌ財務長官はどこだ?」
「増税止めろ。」
「戦争反対。」
と、建物中に散らばっていった。
東棟3階にある財務長官執務室に、市民がやって来たのはそれからすぐだった。
「ド・ローヌ!」
「見つけたぞ。」
「増税止めろ。」
「な、何者だ?」
財務長官のエドゥワール・ド・ローヌは、誰何の声を上げたが、答える者はいない。市民の1人が用意してきていた縄で、ド・ローヌを、座っていた執務椅子に縛り付けてしまった。それからナイフを突きつけ、
「命が惜しければ、増税を止めろ。」
自由を奪われ、刃物を突きつけられたド・ローヌは、
「待て、話し合おう。話せば分かる。」
と、命乞いをしたが、市民たちは、
「増税反対。」
「戦争反対。」
と声を上げるばかりで、ド・ローヌの命乞いなど聞く耳を持たない。
「分かった。しかし、税率を決められるのは陛下だけで、私の一存では決められない。陛下と話をさせてくれ。」
ド・ローヌは、市民相手にあっけなく白旗を揚げた。
「分かった。ただし、逃げるなよ。お前の命は預かる。」
「逃げない。誓って逃げないし、約束も違えない。」
その時だった。別の市民が財務長官執務室に駆け込んで来た。
「おい、窓の外を見ろ。」
「何?」
市民たちが財務長官執務室の窓から王宮の庭を見ると、完全武装の近衛騎士たちが、東棟を包囲していた。
東棟を包囲する近衛騎士団の将軍は焦っていた。
「市民に東棟の占拠を許すなど、王宮の警備を預かる我が身にとって大失態だ。何とかこの状況を打開して、汚名を雪がなくては。おい、状況を報告しろ。」
将軍が手近な部下に報告を求めた、ちょうどその時、3階の1室の窓が開かれた。
「こちらはド・ローヌ財務長官を預かっている。下手な真似はするなよ。」
窓から振ってきた声は、将軍にとっては最悪の事実を告げていた。
「分かった。分かったから、早まった真似はするな。」
将軍は、窓に向かって叫ぶと、
「包囲網を維持しつつ、どうにかして内部の状況を探れ。人質が財務長官1人とは思えん。状況が判明するまで、突入は厳禁だ。」
しかして、王宮の東棟を占拠する市民たちと、それを包囲する近衛騎士団のにらみ合いが始まった。
5
王宮で起きた騒ぎは、瞬く間に王都中に広まった。
「おい、聞いたか?王宮に群衆がなだれ込んだらしい。増税反対を叫んでいるそうだ。」
「俺の聞いた話だと、王宮の東棟を占拠して、近衛騎士団とにらみ合ってるという話だ。」
「無名の一般人にできたんだ。俺たちだって。」
「行こう、王宮へ。」
「東棟を占拠している奴らに加勢するんだ。」
そうやって、王都中から市民たちが王宮に向かって動き始めた。
パリ島は王宮の他は、貴族の別邸や、貴族向けの宿が建ち並んでいるので、市民たちが暮らしているのは、主に、ヌーセ川の両岸である。そこから王宮のあるパリ島に向かうには、東西1本ずつの橋を渡らなければならない。
普段は市中の治安任務を担当している近衛騎士団のクリストフ・ドラファイエ将軍は、部隊を率いて、ヌーセ川の右岸(ヌーセ川は南から北に流れているので、右岸は東に当たる)とパリ島を結ぶ橋の上で、パリ島に押し寄せる市民たちを押しとどめるように騎士団長から指示を受けた。シテの街の構造を知り尽くすド・ラファイエは、速やかに東の端を封鎖し、橋を渡ろうとする市民たちと対峙することになった。
「前衛、盾を構えろ。ここは通すな。」
ド・ラファイエの檄が飛ぶ中、いよいよ、市民たちと、前衛を務める近衛騎士たちが衝突した。集まった市民たちも、農奴たちの様に、武器に転用できる道具を手にしている訳ではない。橋を守る騎士たちと、橋を渡ろうとする市民たちの押し合いになった。ただ、集まった市民は、ド・ラファイエの想像以上に多かった。部下の騎士たちは、徐々に押し負け、ジリジリ後退している。
「押せ、押せ。」
「ラ式蹴球のタイトヘッドの実力を見せてやる。」
と市民たちが、気合いを入れる。
「ここがボトルネックだ。ここを通すと、更に多くの市民を相手にしないとならないぞ。踏ん張れ。」
ド・ラファイエは、後方から檄を飛ばすが、数の差は如何ともし難い。いよいよ橋の終点が見えてきたところで、前衛を務める部下の騎士の1人がしびれを切らしてしまった。
「お前ら凡人と我ら騎士の違いを見せてやる!」
「待て!剣を抜くな。」
ド・ラファイエは、制止したが間に合わず、その騎士は剣を抜きざまに一閃。市民の1人を切った。
「見たか。同じ目に遭いたくなければ、下がれ。」
騎士は大音声で市民たちに警告する。剣の威嚇効果は凄まじく、つい先程まで優勢だった市民たちは、驚いて数歩後ずさった。ただ、市民たちの後方には、最前列で起きていることが伝わっていないのか、市民たちの列の中程から、
「押すな、一時後退だ。」
「ぐえぇ。」
「何弱気になっている。押し通れ。」
「押すな。潰れる。」
「下がれ、下がれ。」
「ぐえぇ。」
と、進もうとする後ろと下がろうとする前に挟まれて、混乱していた。あるいは圧死者が出たかも知れない。ド・ラファイエは、市民を切った部下に、
「何をやっている。市民を守ることが務めの騎士が、その市民を切ってどうする。」
と、叱責した。それで部下も我に返ったのか、剣を握る右手をだらりと下げて、呆然と今し方自分が切った市民を見た。切られた市民は、
「い、痛いぃ!助けて。助けてぇ!」
と、泣き叫んでいる。今や東の橋は、混乱の坩堝と化していた。
東の橋がよく見えるアパルトモンの1室から、その混乱を見下ろす2つの目があった。室内にいるのに、覆面で顔を隠している。
「本国の室員も偶には役に立つ。あれらをマークしていて正解だった。それにしても『自然発火』か。実際に暴動が起きたのを目にして、初めて実感が湧くな。」
男の声だ。覆面男は、そう独り言ちると、室内に振り返った。アパルトモンには、彼の他に、もう1人、覆面姿の人物がいる。
「イエロー3、こうなると、王都以外の情勢が気になる。こちらは私1人で充分だから、南部の調査に迎え。」
「了解。」
そう言うと、覆面姿の人物、女性の声だ、は、音もなく姿を消した。
ド・ラファイエは、何とか混乱を鎮めるべく、泣き叫ぶ怪我人の手当を部下にさせていた。それから、市民たちと、騎士たちは、数歩の距離を空けて睨み合いを続けていた。市民たちの列から聞こえる悲鳴も、徐々に減り、今は静かになっている。
「ここは何とかなりそうか。」
ド・ラファイエは、騎士たちと市民たちの距離が開いたところで、部下全員に抜剣を指示した。勿論威嚇のためで、実際市民を傷つけないよう厳命しての措置だ。市民たちも、実際に切られた者の姿を見ているから、抜剣した騎士たちに、無謀にも突撃したりはしない。そのまま膠着状態が、30分ほど続いた。
東の橋を守るド・ラファイエのもとに伝令がやって来たのは、そんな時だった。
「伝令。西の橋を渡った市民たちが、王宮を取り囲んでいます。」
「何だと!」
普段は冷静なド・ラファイエも、この時ばかりは声を上げて驚いてしまった。それから、伝令の内容を吟味する。
「王宮の危機となれば、何を置いても駆けつけねばならん。ただ、今私の部隊を動かせば、東側の市民たちも、ここを突破して、王宮包囲加わってしまうかも知れん。どうする?」
ド・ラファイエは、自らに問いかける。が、事態は刻々と変化して行く。考えている時間はそれほどない。ド・ラファイエは、意を決して、伝令に来た騎士に告げた。
「我々はここを動けん。救援は不可能だ。武運を祈る。」
伝令もあまり期待はしていなかっったのだろう、ド・ラファイエの言葉を聞くと、
「了解。」
とだけ言って、戻って行った。
6
その日、王妃は、性懲りもなく、ド・ローヌ伯爵夫人を招いて、王宮の庭園で茶会を開いていた。すると、庭園の前を横切りながら、慌ただしく近衛騎士たちが東棟の方へ移動していくのが見えた。
「あら、何かあったのかしら?」
伯爵夫人は疑問を抱いたようだが、王妃は騎士など目に入らないかのように、
「そんな些細なこと、放って置いて大丈夫ですわ。それより見て下さいな。この美しい花。こんな雪の降るような季節にも咲く花があるんですのよ。」
と、庭園自慢に夢中だ。
そこに1人の騎士が近づいて来た。
「ド・ローヌ伯爵夫人とお見受けいたします。ただ今、王宮の東棟へ賊に侵入を許し、伯爵が人質になっている模様です。」
「何ですって⁉」
騎士の報告を聞いた伯爵夫人は、驚きの余り卒倒してしまった。
「あなた、何をしていますの?これでは庭園を自慢する相手がいなくなってしまったじゃありませんか。」
王妃には、伯爵の安否より、そちらが重要な様だ。
王宮の警護を任されていた将軍は、想定外の事態に頭を抱えていた。
「東棟の騒ぎに気を取られている隙に、王宮の包囲を許すとは。なんたる失態。」
思わず独り言が漏れるが、部下に聞かれては部隊の士気に関わる。将軍は、独り言を聞かれていないか、周囲を見渡し、
「誰かいないか?」
と、叫んだ。
「将軍、どうされました?」
部下の騎士の1人が、呼びかけに応えて現れた。幸い先程の独り言は聞かれていなかった様である。
「部隊の再配置だ。市民たちも、さすがに城壁を乗り越えて中に入っては来るまい。3つある城門に戦力を集中しろ。それから、東棟の表口と裏口も押さえろ。」
「了解。東棟周辺から各城門に戦力を動かします。」
そんなこんなで、一時王宮中から東棟包囲網に集められていた近衛騎士たちは、慌ただしく東西の門と、南の正門に振り分けられ、東棟周辺には、出入り口を見張る騎士が少数だけ残された。騎士たちが慌ただしく動いている間にも、東棟や王宮の外からは、
「増税止めろ。」
「戦争反対。」
「王家の無駄遣いを止めろ。」
と、市民たちのシュプレヒコールが叫ばれている。今のところ、外の市民たちには、城門を破って突入する素振りはない。
「くそ。援軍が来るまで今の戦力で持ちこたえるしかないが、相手は市民だ。この場合、何をすれば勝利なんだ?」
将軍は、回りに聞いている部下がいないことを確認して、自問した。
「少なくとも、東棟で人質になっている財務長官以下の官僚たちは助けにゃならんが、外の市民は、追い払うのは無理だろう。ただ、このまま閉じこもっていたら、王宮内の物資が底をつく。」
考えというのは、言葉に出してみると、難問も案外まとまるものだ。将軍も次にやるべき答えを得た。
「優先すべきは、補給路の確保か。」
結論を得た将軍は再び部下を呼び、
「おい、伝書鳩を用意しろ。紙とペンもだ。状況を駐屯地に伝える。」
近衛騎士団の駐屯地は、王都シテの郊外、街の西側にあった。王宮の警護や、街の治安維持に当たる部隊もあるが、それは騎士団全体から見るとほんの一部で、本体は駐屯地にいる。歴史上何度か戦火に見舞われたことのある王都だが、軍事拠点としての機能を有していないため、街の外に、砦を造り、王都防衛の要にしていた。駐屯地には、魔導従士も配置されている。ただ、王都を横切る街道は、せいぜい馬車がすれ違えるくらいの幅しかなく、パリ島に渡る橋は、魔導従士が渡れるほど頑丈に出来ていない。市内での騒乱があった場合は、生身の騎士で対応するしかないのだった。
駐屯地に王宮の様子を伝える報せが届いたのは、王宮が市民たちに包囲されてから、ほぼ1時間後だった。近衛騎士団長は、幹部級の騎士たちを招集して、緊急の軍議を開いた。
「状況は極めて困難だ。無闇に市民たちを傷つける訳にはいかないが、放置もできん。中の将軍からは、補給路の確保を優先するよう要請が来ているから、長期戦は覚悟しているのだろう。」
「団長のご意見は?」
居合わせた幹部に意見を問われた騎士団長は、
「人質を取られていることや、王宮を包囲されていること、それに市民の犠牲を極力減らす観点からも、籠城戦はやむを得ないだろう。物資の補給は、飛空船を使えば可能だろう。」
と、難しい表情で答えた。
「すると市民たちは、どうするお積もりで?」
「王宮を包囲する程の数の市民を追い払うのは、量的に不可能だ。魔導従士を動かせれば話は別だが、渡河用装備を用意しないと、現場に近づくことすらできんから、数日はかかる。現実的ではない。消去法だが、市民たちを説得して、自主的に解散してもらう以外、王宮の包囲を解くことはできんだろう。」
「そんなことが可能ですか。」
「それは政治の役割だ。俺には判断できん。」
「そんな、無責任な。」
「分を弁えているだけだ。ただ、そうなると、市民を不必要に刺激しないために、こちらから援軍を送るのは、控えた方がいいのか?」
「むう、確かに。」
「対案は浮かびません。」
「仕方ないな。今の方針をまとめて、陛下に奏上しろ。」
結局、控えていた近衛騎士団の主力は、動かないことが決まった。
7
状況が国王オウギュスト・ヴァロワ・グランミュールの耳に入ったのは、王宮が包囲されてから、2時間も経った後だった。と言っても、国王の側近たちが、自体を報告せず隠していたのではなく、国王が報告しようとする部下を遠ざけて、1人で部屋に閉じこもっていたのが原因である。
「王宮が包囲されているなんて、なんでもっと早く報告しなかった。」
理不尽な叱責を受けているのは、宰相のシャルル・ド・モリガンである。
「そうはおっしゃいましても、報告しようとした部下を、後で聞くと、追い払ってしまったのは、陛下でございます。」
ド・モリガンも、理不尽な叱責に、少々あきれ気味だ。
「それは、…、確かにそんなこともあったが…。」
宰相にあきれられて、国王の言葉も尻切れ蜻蛉だ。
「ともかく、ド・ローヌ財務長官も人質になっているのです。こちらから何も動かないわけには参りません。」
「それなら、賊は、皆殺しにしてしまえば良いではないか。」
国王は自棄になっていった。
「本当にそれでよろしいのですか?東棟に立てこもっているのも、王宮を包囲しているのも、陛下の民ですよ。」
宰相は自棄を起こした国王を諫めるが、
「僕に刃向かう者など、必要ない。殺してしまえ。」
と、国王の癇癪は治まらない。するとそこへ1人の騎士が入って来た。
「お話中失礼します。近衛騎士団長から、市民を傷つけるために騎士団を動かすのは不可能である故、陛下の裁可を頂きたいと、伝令がありました。」
それを聞いた国王は、
「何で僕のいないところで勝手に決めるんだ。」
と、更に怒りの温度を高めたようだったが、宰相が横から、
「いつも我々に丸投げしてきたのは、陛下でしょう。」
と、思わず突っ込んだ。
「ともかくです、陛下。外の市民たちとのネゴは、不可欠です。怒っている暇があったら、方針を決めて下さい。」
「あー、もう。それならド・モリガン、お前が決めろ。僕は部屋に戻る。」
結局、今回も部下に丸投げして、国王は私室に下がってしまった。
「ふう。陛下が仰るなら、本当にこちらで決めさせてもらいますよ。」
ド・モリガンは、国王がいなくなってから、つぶやいたのだった。
近衛騎士2人を護衛に引き連れ、宰相のド・モリガンが、東棟の財務長官執務室の窓を見上げる場所に姿を現したのは、そのすぐ後だった。
「交渉がしたい。その部屋に、そちらのリーダーはいるか?」
2階にいる者に聞こえるように、ド・モリガンは、大音声で叫んだ。すると、部屋の中で、ひそひそと話し合う気配があって、
「リーダーではないが、俺が交渉の窓口だ。」
と、1人の男が叫んだ。
「それならそれでいい。そちらの要求は?」
「勿論増税の撤回だ。それと、今後こんなことが起きないように、市民の意見を政治に取り入れる場が必要だ。民選議会の設置を要求する。」
「民選議会だと⁉」
ド・モリガンは、予想以上の要求に、思わず鸚鵡返しをしてしまった。
「そうだ。今の増税問題も、ロターリア戦役のことも、王家の無駄遣いも、今の王家が統治者として相応しくない証だ。だから、人民の意思を反映するための、議会が必要だ。これは我々の譲れない一線であり、こちらの要求を貫徹するまで、行動をつづけるものと考えろ。」
交渉役を名乗った男の声がそう告げた。財務長官執務室の中からは「聞いてないぞ。」「しかしこれはチャンスだ。」「分かった。」と小声で言い合う声が聞こえる。今の発言には交渉役のアドリブも含まれてはいるようだから、一部ははったりかも知れないが、放たれた言葉は思い。ド・モリガンは、
「私の一存では、決められない。本日中に回答する故、しばし待たれよ。」
と言って、王宮本棟に引っ込んだ。
宰相執務室に戻ったド・モリガンは、
「増税撤回だけでなく、議会の設置とは。ただの民草を政治に関わらせたところで、ろくなことは起こるまいに。」
と、悩んでいた。
「しかし、議会の設置の方を無視すれば、今の市民たちを引き下がらせることはできんだろう。」
実際に交渉に当たったド・モリガン自身の手応えである。
「議会の設置は受け入れがたい。しかし受け入れねば事態は収束しない。どうしたものか?」
ド・モリガンが悩んでいると、ふと剣を交差させる1対の騎士の置物が目に入った。
「対立する騎士と騎士か。…。そうか。民選議会に対立する存在を作って、議会設置の要求を骨抜きにすればいい。」
ド・モリガンに奸計が浮かんだ。
夕刻。ド・モリガンは、再び市民たちの交渉役と対峙していた。
「そちらの要求は受け入れる。陛下も私に任せると仰せだ。議会の詳細は後日発表とするが構わないか?」
すると、
「それでいい。人質は解放する。ただし、議会の詳細を聞くまで、ここから退去はしない。それと、外の連中にも、同じことを伝えてくれ。きっと解散するはずだ。」
「人質が解放されるなら、致し方あるまい。将軍。外の市民に今の決定を伝えよ。」
「は。」
しばらくして、約束通り、ド・ローヌ以下、人質になっていた官僚たちが解放された。また、城門を守っていた近衛騎士から、宰相の決定が伝えられると、
「やった。」
「俺たちの勝利だ。」
「正義は勝つ。」
と、王宮を包囲していた市民は口々に喜びの言葉を口にし、解散して、西の橋を渡って帰って行った。
8
市民たちが散っていくころ。喫茶店ジャコバ=アンに、マーラーが現れた。珍しく窓際の席に座っていたラピエールの隣に座る。
「マーラーか。仕事は終わったのか?」
「宰相のド・モリガンが、民選議会の設置を約束した。一応今日の暴動は、成果があったな。」
マーラーがニュースを持ってきた時には、ジャコバ=アンには、ほとんどのラピエールだけでなく「人民の中へ」のメンバーほとんどが詰めかけていた。彼らは王宮の包囲には参加していなかったのだ。
マーラーが持ってきたニュースに「人民の中へ」の若者たちが沸き立つ中、ラピエールだけは、無言で外を見ていた。ジャコバ=アンは、ヌーセ川沿いの通りに面していて、東の橋の様子がよく見えるのだ。
「お前は、喜ばないんだな。」
「ああ。」
「確かに、民選議会の設置は最初の1歩としては上出来だが、まだ始まりに過ぎんからな。」
「ああ。」
マーラーはラピエールに話しかけるが、ラピエールの興味は外の様子にある様だ。
「何が見えてる?」
マーラーの問いかけに、ラピエールが、
「人だ。動かない。」
と、要点だけ答えた。
「割り切ったんじゃなかったのか?」
「割り切ったさ。だからこそ、この光景を忘れちゃならんと、私は思う。」
「そうだな。」
「人民の中へ」の他のメンバーたちは、勝利の美酒(と言っても、ここは喫茶店なので、紅茶である)に酔いしれているが、リーダー格の2人は、もっと先を見ていた。2人の間にしばしの沈黙が流れる。喧噪の中で、
「コリーヌちゃん、お休みって、急に。」
「済みません、奥様。田舎の親類から、急用で戻ってくるように言われまして。用事を済ませたらすぐ戻ります。」
と、店の女将と若い女性店員が話すのが聞こえた。コリーヌというのは「人民の中へ」のメンバーたちが座る席を担当しているホールスタッフの名前である。
「しかし、あいつは期待以上に上手くやったな。」
マーラーが強引に話題を変えた。
「確かに、1回目の蜂起で民選議会の設置の約束を取り付けたなら、大戦果だ。」
「あいつ」というのは、ここにいない「人民の中へ」のメンバーである。実は、1人だけ王宮の東棟を占拠したグループに参加していて、ド・モリガンとの交渉役を買って出たのが、件の人物だったのだ。これもマーラーの策である。
「もう暫く王宮包囲が続く予定だったが、思いの外早く折れたな。」
「ああ。」
ラピエールは、やはり東の橋の方を見ていた。
「相手は保守派のド・モリガンだ。何か策があるのだろう。これからも気が抜けない戦いが続くぞ。」
「ああ。」
再び沈黙。その後、徐にラピエールが立ち上がった。
「ちょっと東の橋まで行ってくる。」
「できることはないぞ。」
「分かってる。見るだけだ。」
ラピエールは、喜びに沸くジャコバ=アンを、1人出て行った。
ラピエールが東の橋に着くと、近衛騎士たちが、動かない者を検分していた。手当をしている様子がないので、もう死んでいるのかも知れない。橋の上で騎士たちの指揮を執る将軍に、ラピエールは見覚えがあった。
「ド・ラファイエ将軍…。」
思わずつぶやくと、ド・ラファイエがラピエールの所にやって来た。
「私の名を知っているとは、どこかでお会いしたかな?」
ド・ラファイエの問いに、ラピエールは、
「この王都で暮らしていて、あなたのことを知らない者はおりません。王都の治安担当で、自らも現場に出る将軍だ、と。」
と答えた。
「私はそんなに有名になっていたのか。それで君はここに何をしに来た?他の市民たちはもう帰った後だぞ。」
「24人。」
「ん?」
「倒れている人の数です。それを見に来ました。」
その場に倒れているのは、ラピエールの言葉通り、24人。ほとんどは目立った外相がないから、圧死だったのだろう。1人だけ、出血と手当の痕があった。彼は、ド・ラファイエの部下が切った人物だ。手当の甲斐なく、亡くなったらしい。
「死体を見に来るとは、あまりいい趣味とは言えないな。」
「分かっています。分かっていますが、私には…。いえ、あなたには関係ない事でした。」
「そうか。仕事の邪魔はしてくれるなよ。」
その後も、ラピエールは、東の橋の死体を片付ける騎士たちを、ただ黙って見ていた。
王宮の謁見の間では、ド・モリガンが事態を国王に報告していた。
「民選議会の設置だって!僕はお前にそこまでの権限を与えた覚えはないぞ。」
国王は、ド・モリガンの報告を聞いて、顔を赤くして怒った。
「陛下、最後までお聞き下さい。」
ド・モリガンは、冷静である。徐に、玉座の脇まで進み出た。
「まだ、他に聞かれたくないことです。少々お耳を拝借。」
「何だ。まだあるのか?仕方ない。」
国王の許可を得て、ド・モリガンは、誰にも聞こえない声でひそひそと何事か国王に囁いた。
それを聞くと、怒りに染まっていた国王の表情が見る見る変化し、悪い笑みに変わる。
「お前に任せて正解だった。よくやってくれた。」
国王は、さっきまでの怒りはどこえやら、簡単に掌を返した。
「お褒めに与り光栄です。では、議会の制度設計をせねばなりませんので、私めはこれにて。」
そう言って、ド・モリガンは謁見の間を辞去した。