東の国
第2話 東の国
1
大陸南西に、イルリック独立都市連合という国がある。その南、アナポリの郊外に、デ・マルキ繁殖場はあった。西方歴3001年2月21日。デ・マルキ繁殖場で、1人の獣人の赤子が生まれた。世界の運命を変えた者の魂を宿して…。
イルリック国では、ドワーフ族以外の亜人に、権利能力を認めていない。すなわち、亜人であれば、人としての権利を享有できず、逆に権利の客体になる、換言すれば、誰かの所有物になるということである。獣人も当然、所有の対象であり、売り買いされる商品だった。デ・マルキ繁殖場は、そんな獣人を繁殖して、売ることで儲けを得る農場だ。
権利能力がない、というのは、想像以上に恐ろしいことである。自らの財産を築けないことは勿論、虐待され、陵辱されても、文句のひとつも言えない。奴隷以下の存在。イルリック国は、亜人にとっては、悪夢の様な国だった。
ところで、獣人とは、この世界に住む亜人の一種で、頭の上から三角の耳が、腰の後ろから、フサフサの尻尾が生えているのが特徴である。人間より高い運動能力に加え、爪や牙が鋭く、嗅覚や聴覚にも優れ、基本的には肉食で、狼に近い種族だと考えられている。人間より成長が早く、もともと群れで暮らしていたことから、上下関係に従順で、飼い慣らし易いという理由で、イルリック国ではよく取引対象とされていた。
ベッペは、デ・マルキ繁殖場で生まれ育った獣人で、西方歴3006年新春現在、4歳である。繁殖場では、獣人は1歳くらいになると、母親から引き離されるので、家族の記憶はほとんどない。1歳くらいで乳歯が生え揃い、自分で食事ができるようになるからだ。そして5歳にもなれば、獣人は、人間の大人と遜色ない働きができるようになるので、売りに出されてしまう。それまでは、繁殖場内の訓練所で、売り物の獣人に相応しくなるよう、餌を与えられながら、躾をされる。繁殖場の環境は衛生的とは言い難く、獣人が着る麻の貫頭衣は、洗濯されず、水浴びができるのも、買い手が商品を検分する時と、納品される時の2回だけだ。
ところで、ベッペは本名ジョセフィーナという女の子であったが、男と偽っていた。女の獣人が性別を偽ることは、実はよくある。獣人は、労働力としての価値しかない男より、別の使い道がある女の方が、成長して売られていった先で、酷い目に遭う。自分を男と偽ってくれたことが、ベッペの中に残る、母の唯一の記憶だ。ちなみに、獣人は、産まれた時から陰部に毛が生えていて、一見しただけでは雌雄が分かりにくい。
繁殖場の、農場主は、ベッペが女であることに気付いていたようだったが、男という偽りを受け入れた。イルリック国は、帝国と15年以上にもわたる戦争を戦っており、人間より成長が早く、簡単に使い捨てられる、男の獣人の需要が、うなぎ登りだった。どこの騎士団も、男の獣人を欲していたのである。デ・マルキ繁殖場は、帝国との戦場から離れた南部に位置するが、それでも、男の獣人を買い求める客は、ひっきりなしに訪れた。農場主は、女であるベッペを、高く売れる男の獣人として育てたのであった。
性別意外に、ベッペにはもう1つ、無視できない秘密があった。ベッペは、朧気ながら、前世の記憶があったのである。ただ、繁殖場の仲間に、前世の記憶のことを、
「僕の前世は、山脈より東の国で騎士団長をやっていたのです。」
と話しても相手にはされなかった。繁殖場の仲間たちはまともな教育を受けていなかったし、そもそも巨壁山脈の西方の人にとって、山脈とは世界の東の果てで、その向こうに国があることを知る人の方が珍しかったのである。
ベッペは、前世の記憶があることの証明として、初歩的な魔法(イルリック国では、獣人には魔法は使えないと考えられている)を使って見せても、少々意外な顔をされるだけで、前世の話を信じてはもらえなかった。
ベッペは、5歳になったらどこぞの騎士団(イルリック国のそれは、実態として傭兵団と呼ぶべきものである)に買われる予定だった。だから、毎日行われる躾も、必然、帝国との戦争を意識したものになる。ただ普通、騎士団では、獣人には武器は与えられないので、徒手での格闘訓練に、日中の大半の時間が費やされたのだった。
西方歴3006年2月半ば。雑魚寝の寝床で、仲間たちが寝静まった後、ベッペは、ひとり眠らずにいた。
「何とかして、また魔導従士に乗りたい。ああ、僕の相棒。記憶が朧気で、名前が思い出せませんが、君はきっと、僕のことを待っているのでしょう。そのためには巨壁山脈を越えて、東の国へ向かわねばなりません。」
仲間たちを起こさないよう、小さな声で、これからやるべき事を、声に出して確認する。
「まず、どうにかしてこの農場を抜け出さないといけません。その後、国境を越えて、イルリック国を出ます。それから東を目指して、山越え。難関は多いですが、諦めませんよ。何と言っても、このままここにいても、捨て駒として死ぬのは目に見えていますからね。」
ベッペは、朧気な前世の記憶も駆使して、東の国へと至る道筋を、練るのだった。
ベッペが考えた、東の国への密航計画は、こうだ。
まず、最初の関門は、繁殖場を脱出するところ。獣人は、躾の中で矯正されてしまうが、本来は夜行性で、人間より夜目が利く。決行は、誕生日の前日、2月20日の夜にする。勿論、農場側も、夜逃げ出そうとする獣人対策に、見回りを配置しているが、ベッペは、魔法が使える。この日のために魔力の訓練も密かにやって来た。もし見つかったら、攻撃魔法を使うつもりだった。今まで自分たちを、散々動物扱いした連中が相手である。多少相手を傷つけることになっても、躊躇はなかった。
農場を出てからも、できるだけ夜間に移動し、昼は隠れながら休憩する。野生の獣を狩れば、食料調達もできるだろう。次の関門は、国境越えである。ベッペの朧気な記憶では、東の国とイルリック国の間に、西方世界一の超大国があったはずだ。今は戦争中だから、国境の警備は厳重なはずである。少し行き当たりばったりだが、どのように国境を越えるかは、警備の実情を見て決めようと、ベッペは考えた。
隣国に入ってしまえば、追っ手は来るまい。後は、山越えを残すのみである。巨壁山脈は、その名の通り、巨大な壁のようにそそり立っていて、普通の手段では超えられない。大陸南西部から、山脈を越える1番現実的なルートは、海沿いを行くルートである。獣人の運動能力に加え、産まれてこの方、戦場に立つための訓練をさせられてきた、ベッペの運動能力なら、険しい岸壁の海岸線も、超えられるはずだ。必要な物資は、道中で調達する。必要なら盗みにも入る覚悟だ。
2
2月20日。いよいよ決行の日だ。ベッペは、何食わぬ顔で、その日の日中の訓練を終えた。夕食を取って、寝床に入ると、夜が更けるのを待った。周りから少しずつ、人の気配が減っていく。恐らく夜番の見張り以外、人間は全員寝てしまっただろうというタイミングで、ベッペは行動を開始した。
寝床を出ると、目の前は訓練所である。訓練所は高い周壁に囲まれていて、周壁の上には、有刺鉄線まで張り巡らされている。ベッペの下調べ通りなら、南側の壁の向こうには、農場の施設はなく、外に出られる。訓練所を全速力で、寝床のある北側から、南側まで走り抜けた。ここまで、見張りに見咎められた気配はない。
目の前の壁を越えれば自由が待っている。そう思うと、壁の高さも、障害となる有刺鉄線も、大した問題ではない様に思えた。
「油断大敵ですね。」
ベッペは小さく声に出して、自分を戒める。目の前の壁は木製。枚数や厚さは分からないが、今のところ周囲に見張りの気配はない。
「壁を越えて、有刺鉄線をかいくぐるのは、時間が惜しいですからね。強引に行きます。」
ベッペは、目の前の壁目がけて「炎の矢」の魔法を放った。壁が炎上して穴が空き、炎の向こうから、チラチラと、外の景色が見える。ベッペの期待通り、壁はそれほど厚くなく、1枚だった。
壁が炎上すれば、当然ながら見張りたちもベッペがしでかしていることに気付く。
「貴様、何をしている。」
見張りの1人が叫んだ。ベッペの方に駆け寄ってくる見張りは全部で3人。
「見ての通り、ここから出るんですよ。」
ベッペは律儀に見張りの問いに答えたが、これも作戦のうち。見張りたちは、ベッペを取り押さえようと、3方を囲んだ。後ろは炎上する壁。一見窮地のようだが、ベッペは切り札を切った。
「閃光弾。」
「閃光弾」は、強烈な光を投射して、周囲の敵を気絶させる、光属性の中級魔法である。魔法がそれほど普及していないイルリック国に、このレベルの魔法を使える使い手は、ほとんどいないだろう。ベッペは、駆け寄ってきた見張り全員が気絶したのを確認した。それから、壁が炎上して空いた穴を見ると、小柄なベッペなら、何とか通り抜けられそうな大きさに広がっていた。
「行きますよ。せーの。」
ベッペは、まだ炎を上げる壁に飛び込み、空いた穴をくぐり抜けた。それから跳躍前転の要領で、綺麗に着地。間違いなく周囲に広がる景色は、農場の外だ。
「こんな危険な火の輪くぐりは2度とは御免ですが、これで第一関門突破です。」
ベッペは、左手に出来た小さな火傷を「傷治療」の魔法で応急処置をして、すぐに走り出した。
「獣人が逃げたぞ。追え。」
農場から異変に気付いた人間の怒号が聞こえる。
「あまりゆっくりもしていられませんか。今晩中にできるだけ距離を稼ぎましょう。」
ベッペは「加速」の魔法を使って、魔力切れになるまで走った。
デ・マルキ繁殖場から目指す超大国との国境は、北東方面にある。ベッペは、繁殖場から距離を取りつつ、大回りをして、北東へと進んだ。道中、野兎を狩って食べたが、何故か既視感があった。
「僕の前世は、兎を狩って食べるような事をしたのでしょうか?記憶が朧気で、何故そんなことをしたのか、思い出せません。」
それから、日中は森に隠れて休み、夜は移動することを2日繰り返して、目指す国境にたどり着いた。繁殖場が意外と国境に近くて、幸運だった。そればかりではない。国境には、イルリック国と超大国、どちらの監視も見当たらなかった。
「どういう偶然か分かりませんが、ついていました。これであの国ともおさらばです。」
超大国に入ってからも、ベッペは、昼は休み、夜は進みを繰り返した。腹が減れば、獣を狩って食料にし、夜露で乾きを凌いだ。やはり、既視感がある。
「騎士団長なら、こんな強行軍をする必要はなさそうですけど、僕の前世には何があったのでしょう?」
勿論ひとりきりの旅だから、その問いに答える者はいない。
ベッペが超大国に入ってから、1週間が過ぎたころ。その日、ベッペは周囲に身を隠せる森や藪が見つからなかったので、平原の中で周囲を警戒しながら、休んでいた。すると、
「あ、ワンちゃんだ。」
と、幼い人間の声が聞こえた。ベッペは、周囲に気を配るが、犬らしき気配は感じない。もしや見つかった、とベッペが考えている矢先、幼い人間の少女が近づいてきて、
「ワンちゃんの人、何でかくれんぼしてるの?」
と尋ねてきた。ベッペがどう答えたものかと悩んでいると、別の足音が近づいてくる。今度は大人だ。
「ママ、ワンちゃんの人見つけたよ。」
ベッペが逡巡している間にも、事態はどんどん進んでいく。
「あらあら、獣人さん。こんなところで珍しい。どうなさったの?」
ついに、少女の母親にも見つかってしまった。
「ここは、なるようになれ、です。」
ベッペは、2人に聞こえないよう小さくつぶやくと、自分の幸運がまだ続いていることを信じ、事態に身を委ねることにした。
3
少し時を戻そう。西方歴3006年初春。オストニア王国、巨壁山脈東麓地方南部にある、工房都市カメンスク。年末年始の休暇中のアウレリウス本家での出来事である。
その日、リルは、いつも通り家事や子守をしたり、学園の休暇中で帰省していたウェルギリウスに剣の稽古を付けたり、大忙しだった。そんな中、夕食の後片付けをしていたリルに、一家の主であり、今はアウレリウス家のメイドをしているリルの雇い主でもあるァレンニッサから、声が掛かった。
「リル様、お片付けが済んだら、少し来て下さい。」
片付けを済ませたリルとアテラ(いつも通り手伝わずにくっついていただけだが)が、台所からダイニングに上がると、レニは、ダイニングテーブルに、何通かの書類を広げていた。そのうち1枚が、リルたちの方へ向けられている。
「どうぞ、お掛けになって下さい。それから、その書類に署名を。」
リルは、なんだろう、と思って、書類に目を通すと、そこには、
「承諾書
西方歴3006年1月4日
株式会社サヴォル御中
貴社の取締役に選任されたことに伴い、ここにその就任を承諾いたします。」
と、書かれていた。書類の下には「ドラクロゥス・オストニウス」と「ァレンニッサ・アウレリウス」の署名がすでにされている。院(前国王)とレニだ。リルは、
「・・・これなに?」
とレニに聞いた。
「あら、リル様にはお伝えしていませんでしたか?」
「・・・きいてない。」
レニは、しっかりしてそうで抜けていることがある。今回もそれだろう。
「サヴォルを会社化することになりまして、その取締役にリル様を選任したのです。こちらが、設立時取締役の選任決議ですわ。」
レニが別の書類を見せてきた。確かに、発起人総代ァレンニッサ・アウレリウス名義で、院、レニ、リルの3人を設立時取締役に選任する旨の記載がある。
「・・・なんで?」
「取締役がどうしても3人以上必要で、それならリル様にお願いするのが適任と考えたのですけれど、いけませんでしたか?」
「お姉ちゃんは、何でサヴォルを会社にするのか聞いてるの。」
話がすれ違いかけたが、アテラが軌道修正してくれた。
「そういうことでしたか。それでしたら、私がオーナーの個人商店のままですと、従業員の雇用その他、いろいろ差し障りがありますので。なにせ、今の私は自由に工房都市から出られませんし。」
リルは、ほうじんかするりゆうはりかいした、とりしまりやくがさんにんいるのもしってる、でもなんでわたし?と思った。
「お姉ちゃんは、何で私?って言ってるよ。」
「それは、もともとサヴォルがリルさんのお店だからですわ。」
リルは、そういうことならしかたない、なまえはかす、と思って、承諾書に署名した。
「引き受けて頂いてありがとうございます。それで、まだ見て頂きたい書類がございます。こちらが、私がリル様から営業譲渡を受けた時の、サヴォルの臨時貸借対照表、こちらが、会社化する時の設立時貸借対照表、そしてこれが、その間の臨時損益計算書です。」
そう言って、レニは決算書の束を渡してきた。
「お恥ずかしながら、産まれてこの方、騎士の中の騎士を務めるために精一杯でしたので、会計書類などと言われましても、どこをどう読めばいいか、サッパリでして。リル様は、一時とは言えお店を経営していらしたので、会計書類についてもお詳しいのではと思い、甘えさせて頂いた次第です。」
リルは、しかたない、さう゛ぉるのことだし、と思って、レニから渡された、臨時決算書を読んだ。リルは、サヴォルの経営の仕事をしていたし、納税もしていたから、決算書も大体読めるのだ。営業譲渡時の臨時貸借対照表と、設立時貸借対照表を比べると、純資産が増えている。その差額と、損益計算書の純利益は一致している。少なくとも計算ミスはなさそうだ。個別の内容をチェックしていると、少し気になることがあった。うりあげはふえているけど、うりあげげんかはもっとふえてる、げんかりつが、わたしがやってたころよりあがってる、とリルは思った。
「お姉ちゃんが、原価率が上がってるって。」
アテラの通訳に、レニは、
「それでしたら、お店の経営を任せているテオ・トゥリテムスさんは、ウィスキーの銘柄をトリイから角瓶にしたからだと、仰っていました。」
リルは、ウィスキーの味の違いが分からないので、まああかじじゃないならいいか、と思った。
「お姉ちゃん、赤字じゃないならいいって。」
「ありがとうございます。それでは、設立登記が出来ましたら、ご報告いたします。」
その日はそれで解放された。
数日後の1月4日。この日は役所の仕事始めの日でもある。リルが夕食の片付けをしていたら、レニから、
「リル様、お片付けが終わりましたら、私の部屋においで下さい。」
と声が掛かった。食器を食器棚にしまったら、リルとアテラは居間の奥にある、レニの書斎に行った。
書斎では、レニが座って待っていた。ちゃんとリルとアテラが座る椅子も用意してある。レニは、普段の装いと違い、ネグリジェを着ていた。ただ、レニも、リルとほとんど同じ小さい大人なので、セクシーという感じでもない。リルは、むねもわたしとおなじくらい、と思った。レニは、琥珀色の液体が注がれたロックグラスを傾けていた。机の上には、「シラス30年」と書かれた瓶がある。グラスの中身だろう。
「リル様もいかがかしら?」
リルは無言で首を横に振った。リルにはいまいちウィスキーの美味しさが分からない。ただ、片付けをするのはいつもリルなので、レニがこうして寝る前に一人でお酒を飲んでいることは知っていた。
「そうですか。それは残念です。」
リルは、なんでざんねんなんだろう?と思った。
「お姉ちゃん、何で残念なの?って。」
「みんなで飲んだ方が美味しいからです。」
そう言えば、サヴォルの客も、グループの方が楽しそうに飲んでいた。それより気になったことがあったので、リルは、レニに、
「・・・いつから?」
と尋ねた。
「チェストに騎士の中の騎士を譲ってからですから、4年ちょっとになります。それまでは、いつお呼び出しがかかるか分からない身分でしたから、お酒は控えていました。」
「・・・よっぱらうの、たのしい?」
「酔いたくて飲んでいる訳ではありません。ただ、美味しいと思うから飲んでいるんです。このボトルも、元々はお兄様への献上品で、お兄様が飲みきれないからと、譲って下さったもので、貴重な品だそうです。」
レニの話を聞いて、リルも少し興味が出てきたので、瓶の製造年を見た。普通、製造年には瓶詰めをした年が書かれるが、それが30年以上も前だった。このウィスキーは、樽の中で30年、瓶詰めされてから30年以上熟成されたことになる。リルは、
「・・・じゃあ、ちょっとだけ。」
と言って、レニから、お酒を注いでもらった。舌の上でビリビリする感じが、今まで飲んだウィスキーよりいくぶんまろやかになっていたが、美味しいとは思わなかった。
「お姉ちゃん、美味しくないって。」
「あら、お口に合わなくて残念。それはそうと、本題にそろそろ入りましょう。」
レニは、1通の書類を取り出した。
「リル様、サヴォルの会社設立ができました。それで、お兄様が言うには、取締役の中から、指名委員会、監査委員会、報酬委員会というのを作らないと、いけないそうです。」
それを聞いてリルは、まさかのさんいいんかいせっちがいしゃ!と思った。
「お姉ちゃんが!だって。」
「はい。私も驚きました。それで、お兄様は、指名委員はお兄様、報酬委員が私、監査委員がリル様というのが良いのではと仰っているようでして。」
リルは、まあてきざいてきしょ、と思った。院が何故三委員会設置会社にしたかは、意味不明だったが。
「お姉ちゃん、適材適所だって。」
「左様ですか。リル様の言葉で安心しました。あ、忘れるところでした。先月分のお給金代わりに、サヴォルの株を現物支給させて頂きます。」
レニは、リルに小さな紙を2枚渡した。紙には「株券 株式会社サヴォル発行 5オース」と書かれていた。
「お兄様が仰るには、この量で、毎月のお給金とだいたい同じ価値だそうです。」
リルは、工房都市にはあまりお金を使う場所がないので現物支給は特に問題ないが、券面額の5オースを2倍しても、普段の給料に届かないのが気になった。りるは、かぶけんのけんめんがくってけっきょくなんなんだろう?と思った。
翌日、テオ・トゥリテムスが、院の指名に基づいて、サヴォルの執行役に選任され、臨時株主総会で承認された(書面議決である)。
4
「その格好では寒いでしょう。この毛布をお使いなさい。」
ベッペの幸運は、まだ続いていたようだ。超大国でベッペを保護してくれた家族は、みな善人だった。
平原で隠れているのを見つかった後、ベッペは、母親の方に、自分の身の上をかいつまんで話した。イルリック国の繁殖場で産まれたこと。そこから逃げ出したこと。そして、山脈の東を目指して旅をしていることなどである。
「あらあら、随分遠い所から。大変だったでしょう。」
一家は、ベッペの境遇に同情してくれて、家に招いてくれた。それから井戸水で、水浴びをさせてくれたのである。まだ寒い季節だが、井戸水は、水浴びに適した温度だった。それだけではない。ベッペの薄汚れた粗末な貫頭衣を洗濯までしてくれた。
今ベッペは、借りた毛布にくるまりながら、火に当たって体を温めている。
「どうぞ、ただのお白湯だけど。」
「ありがとうございます。でもどうしてここまで親切にして下さるんですか?」
「さっきから思っていたけど、小さいのに、綺麗な言葉で喋るのね。まあそれはともかく、困った時はお互い様だって、亡くなった母さんからよく聞かされてたの。あなたは、とっても困っているようだったから。」
「あ、ありがとうございます。」
「それに、洗濯をして水浴びさせてあげただけだから、お礼を言われるほどのことはしていないわ。」
「そんな。農場では、水浴びも洗濯もさせてもらえませんでしたから、いま、とっても気持ちがいいです。」
「ふふ。そう。洗濯物が乾くまで、ここでゆっくりしていったらいいわ。」
「すみません。よくして頂いているのに、何のお礼もできず。」
「さっきも言ったけど、大したことしてないわ。それにこんな辺鄙な場所にお客さんが来るなんて珍しいし。」
確かに、一家の住む家は、見渡す限りの大平原の中にポツンとある一軒家だった。見える範囲に、集落はない。
「あの、つかぬ事をお聞きしますが、どうしてこのような場所に?」
「うーん。うちは農奴の家系だから、引っ越したくても引っ越せないのよ。周りの畑は、領主様の物だし。耕さないで荒らしてしまったら、住む場所を取り上げられて追放されてしまうわ。」
「そんな大変な境遇だったんですね。」
「そうかしら?どこも似たようなものだと思うけど。さっき聞かせてもらったあなたの境遇の方が、私にはよっぽど大変に思えるわ。」
ベッペは、農奴という生き方がよく分からなくなってきた。もっと悲惨な人たちだと思っていたが、当の本人は(少なくとも目の前の女性は)あっけらかんとしている。
ベッペの髪が乾いたので、女性から櫛をかりて、髪と尻尾の毛を解かした。そうすると、水浴び前のボサボサだった毛が嘘のように、癖のないサラサラな髪になり、尻尾も、別人のものかと見違えるほど、綺麗になった。ベッペは、姿見の前に立つと、
「これが今の僕…。」
と、思わず自分の鏡像に見蕩れてしまった。背中まで伸びたサラサラな髪の毛は、耳毛や尻尾と同じ、灰色をしていて、肌は白く透き通っていた。
「これは、なかなかの美少女ね。」
家主の女性も、ベッペの外見を褒めていた。
洗濯物が乾ききらなかったので、ベッペは、この家に1晩泊めてもらうことになった。夕方には、畑仕事に出ていた女性の夫も帰宅した。若い夫婦に、幼い女の子が一人。現在5歳だと言うから、ベッペと同い年だ。
「今はまだ寒くて農閑期だから、畑仕事は旦那に任せているの。農繁期になったら、一家総出で畑仕事ね。」
「あの、そうするとお子さんの教育は?」
「教育?」
不思議そうな顔をされてしまった。そう思って見渡すと、この家には時計もカレンダーもない。
「あの、読み書きとか、計算とかはしないんですか?」
「しないわね。近くの村でも、字が読める人はいないんじゃないかしら。」
ベッペが育った農場では、勿論まともな教育などされなかったが、外の世界でもそうなのだろうか。前世の記憶を持つベッペには、女性の発言がなんだかとても奇妙な気がした。
翌朝。
「本当にありがとうございました。洗濯をして頂いて、食事をご馳走になって、泊めてまで頂いて。」
「気にしなくていいのよ。それにあなたのおかげで、お肉にありつけたし。」
ベッペはせめてものお礼にと、保存食として持っていた干し肉を置いてきたのだ。
「それより、道中気をつけてね。」
「バイバーイ。ワンちゃんの人。」
「ありがとうございました。失礼します。」
ベッペはもう1度、一家に1礼して、東へ向けて出発したのだった。
それから、更に1週間ほど旅を続け、ベッペはついに巨壁山脈の麓にたどり着いた。ただ、右には海、正面には断崖絶壁、平坦なところはほぼない。海岸線をたどれば、山脈を迂回できるのではないかとベッペは考えていたのだが、甘かった。ついでにベッペは泳げない。
「何とかして、この断崖を進むしかない訳ですか。仕方ありません、他に道はないのです。覚悟を決めましょう。」
ベッペは、何とか足場に使えそうな岩を探しながら、海沿いに山脈越えに挑んだ。
とはいえ、ベッペにロッククライミングの経験などない。最初の1歩目をどこに踏み出すかでかなり悩んだ。
「あまり高いところに登るのは得策でない、というかできませんし、かといって、海岸線ギリギリだと波にさらわれる危険があります。どうすればいいんでしょう?」
そうやって悩んでいるうちに、ふと、海に頭を覗かせている岩があることに気がついた。筋力強化の魔法を併用すれば、何とか飛び移れそうな距離だ。
「案ずるより産むが易し。あれに飛び移ります。」
宣言して、ベッペは、助走を付けて大ジャンプをした。見事、狙った岩に着地。波しぶきが体にかかる。海水が冷たい。
「ここに長居はできません。次は…あそこです。」
ぐるりと振り向き、大陸側に、飛びつけそうな出っ張りを見つけるや、またジャンプ。着地。ここでも、波が容赦なく襲ってくる。ただ、少し前進できたことにより、目の前の断崖は、どうにか上れそうな角度になった。
「これならいけそうです。が、油断大敵。慎重に行きましょう。」
それから、足場を確認しながら、何とか指先がかかる位の崖に、へばりつく様に、登っていった。波がかからないところまで、高さを稼いだら、今度は、横方向への移動も考えながら、斜め右上を目指して進んだ。
そうやって登ること10分ほど。そろそろ指先も限界と思われたところで、ようやく、両足をつけるくらいの広さの足場にたどり着いた。
「大分登りましたね。見えている景色の限りでは、東方向にはまだそれほど進んでいませんか。おや?」
海の方へ振り返ると、斜め前に、蝋燭のように細く高い岩が、海から突きだしている。飛び移れないこともない距離だ。
「あそこからなら、この先の地形を確認できそうです。飛び移りましょう。」
蝋燭状の岩に飛び移り、その上から地形を確認すると、断崖はどこまでも続いていたが、意外なことに、崖の頂上まで、あと一息という所まで登っていった。
「西側から見た時より低い?いえ、東に向かって傾斜しているんですね。これなら、さっさと登り切って、崖の上を進んだ方が良さそうです。」
方針が決まれば、足取りも軽くなる。大陸側の足場へ戻ると、それまでの疲れが嘘のように、ベッペは、崖を登り始めた。それから10分ほど登って、いよいよ崖の頂上に手が掛かる、と言う時に、声が聞こえた。
「ゲオオォォン。」
「何の鳴き声でしょう?まあ、登ってしまえば正体は分かります。今は全身あるのみ。」
そして崖を登り終えたベッペの目の前に、それはいた。前足がなく代わりに蝙蝠のような翼が生えた蜥蜴。ただしその大きさは、体長10メートルくらいにはなろうか。魔獣だ。
「ま、魔獣です。そうでした。東の国には魔獣が棲んでいるのでした。どうして今まで思い出さなかったんでしょう。」
魔獣、亜竜という分類名が付いている、は、完全にベッペを、餌を見る目で見ている。
「ゲオオォォン。」
もう1度鳴くと、翼を広げ、軽々と舞い上がった。
「く、前世の僕にはできたかも知れませんが、今の僕では、飛行魔獣と戦うのは無理です。かと言って、食べられてあげる積もりもありません。逃げましょう。」
かくして、崖の上での、獣人と亜竜の追いかけっこが始まった。
5
ベッペが東へ向けてグランミュールの平原を旅していたころ。アウレリウス本家にいるリルは、いつも通り家事や子守をしたり、学園の休暇中で帰省していたウェルに剣の稽古を付けたり、大忙しだった。そんな中、夕食の後片付けをしていたリルに、レニから、声が掛かった。
「リル様、お片付けが終わりましたら、私の部屋においで下さい。」
食器を食器棚にしまったら、リルとアテラは居間の奥にある、レニの書斎に行った。
書斎では、レニが座って待っていた。ちゃんとリルとアテラが座る椅子も用意してある。レニは、ネグリジェを着ていた。レニは、琥珀色の液体が注がれたロックグラスを傾けていた。机の上には、「シラス30年」と書かれた瓶がある。リルは、きょうはなんのはなし?と思った。実は、こうしてレニから夜に呼び出されることが、この年に入ってから続いていたのだ。レニはお酒が入ると饒舌になるタイプらしく、話し相手が欲しいのだろう。
「いつもお呼び立てしてご迷惑ではありませんか?」
リルは、わたしもいいひまつぶしになってる、と思った。
「お姉ちゃん、いい暇潰しだって。」
「そうですか。それは良かったです。それで、今日来て頂いたのは、少し本の話がしたいと思いまして。」
リルは、ほんのはなし?と思った。
「リル様は本がお好きでいらっしゃるでしょう?この書斎にも、それなりの蔵書はありますが、ここにある本だけだと退屈されているのではないかと、心配で。」
リルは、めいどのしごともいそがしいし、いまのところだいじょうぶ、と思った。
「お姉ちゃん、今のところ大丈夫だって。」
「良かった。それでは、何か新しく欲しい本がありましたら、私にお申し付け下さい。」
リルは、あたらしいほんをかってくれるのはいいけど、あるじがめいどにおもうしつけくださいってどうなんだろう?と思った。
ところで、リルは本屋で背表紙を見ながら面白そうな本を探すタイプである。この本が欲しいといった指名買いはあまりしたことがない。工房都市にも書店はあるが、専門書が多く、リルの好みに合う本に出会えてはいなかった。リルは、できるなら、またふるほんやさんにほんをみにいきたい、と思った。
「お姉ちゃん、本を自分で探したいって。」
「あら、それでしたら、この街の書店でもいいのではないですか?」
リルは、このまちのほんや、なぜかぴんとこない、と思った。
「お姉ちゃん、この街の本屋さん、好みじゃないって。」
「そうですか。でしたら、リル様が読まれた本で、1番のお気に入りの本は何でしょう?」
リルは、ひとつにはきめられない、と思った。
「お姉ちゃん、1つに絞るのは無理だって。」
「そうですよね。私も同じ質問をされたら、困ってしまいます。そうですね、でしたらせめて好きなジャンルの本など教えて頂けませんか?」
リルは、なんだかんだで、れきししょうせつ、と思った。
「お姉ちゃん、断然歴史小説が好きだって。」
「歴史小説ですか。例えばどういった?」
「・・・じょけつれつでん。」
「『女傑列伝』とは、また古い本ですね。私、読んだことがありませんが、どのようなお話でしたか?」
「・・・さりーおばさんがあんやくするはなし。」
「お姉ちゃん、伯母さんが悪巧みする話だって言ってるよ。」
リルは、さっきからあてらのほんやくがびみょうにずれてる、それとちょくぜんのは、わたしちゃんとしゃべってた、と思った。
「リル様の伯母様というと、初代枢密院議長のサリッサ・シバリウス様のことでしょうか?」
「・・・ん。」
「お姉ちゃん、よくご存じって。」
「勿論、存じ上げております。オストニア絶対主義を安定させた影の立役者ですし、家系図をたどれば、アウレリウス本家のご先祖様に当たりますからね。」
リルは、そういえば、れにはぴっきーのしそんでもあるんだ、と思った。
「お姉ちゃん、レニがピッキーの子孫なのが意外って言ってるよ。」
リルは、こんどはよけいなもんごんをつけたした、と思った。
「ピルキッサ様の子孫なのが意外?ピルキッサ様のことはそこまでよく存じ上げませんので、意外と言われましても…。」
リルは、そのじしんなさげなところが、にてない、と思った。
「お姉ちゃん、ピッキーはいつも自信満々だったって。」
「自信…ですか。確かに、私にはない美点ですね。」
リルは、もしかしてれに、きずついた?と思った。
「レニ、傷ついた?」
「いえ。ただ、私は自信が持てるほどの結果を残せなかったというだけです。」
リルは、それはこれからつくればいい、と思った。
「レニ、ファイト!」
「はい。これからも精進します。」
リルは、あれ、さいごのほう、あてらとれにだけでしゃべってなかった?と思った。
レニとの夜の歓談を終え、リルとアテラは使用人部屋に戻った。ポフンと2人で音を合わせて、メイド服から寝間着に変身する。
「お姉ちゃん、お休みのチュー。」
これは、2人の母のエルマがいなくなってから毎日寝る前にやっている習慣だ。アテラによると、不死なる竜の一族はエルマの子どもしかいないので、姉妹で愛し合っても変ではないとのことだ。リルは、アテラにせがまれるままに、唇を重ねる。そうすると、アテラがリルの口の中に舌を入れてきて、2人の舌を絡ませるのだ。
「お姉ちゃんの魔力、美味しい。」
「・・・ん。」
不死なる竜の舌には、なめた物の魔力や活力を吸い取る魔法が掛けられている。2人は舌を絡めて魔力を交換し、絆を確かめ合う。そしてそのまま眠りにつくのだった。
巨壁山脈東麓地方中部、王城ウラジオ城3階の国王臨席専用会議室に、当代騎士の中の騎士チェストゥスが呼び出されていた。部屋にはチェストと国王、2人しかいない。
「計画の進捗具合はどうか?」
「はい。リルさんの持つ力は、僕の想像を遙かに超えていました。それを子どもたちの世代に伝授させているところです。ただ、不死なる竜の力を見せたことはまだありません。」
「つまりは、人間として培った力だけでも、其方の想像を超えていたと。」
「はい、その通りです。」
国王は、一瞬だけ瞑目して続けた。
「つまり其方らは、300年前の騎士が持っていた力すら持ち合わせぬと言うことか。」
「面目ありません。」
「何のための騎士の中の騎士か。其方自身もおもっと精進するのだ。それから、父上と其方の母の件、そちらで何か分かったことはあるか?」
「申し訳ありません。母様とリルさんがよく夜に密会していることは分かっているのですが、それと院との繋がりが見えません。」
「そうか。ともかく早急に不死なる竜の力を、我がオストニアのものとせよ。」
「御意。」
国王は、チェストの返事を背中で聞きながら、会議室を退席してしまった。
「僕自身も精進、ですか。耳の痛いお言葉です。」
6
亜竜から逃げるベッペは、窮地に陥っていた。場所は足場の悪い崖の上、相手は大型飛行魔獣、そもそも逃げ切ろうと考える方がどうかしているのだ。ベッペは、獣人特有の反射神経の良さを生かして、亜竜の尻尾や牙による攻撃を、何とか見切って避け続けているが、このまま走り続けてもじり貧だ。
「せめて相手の足を止めないと。今僕の使える魔法で、あの魔獣に有効なもの…。」
その時、ベッペは霞がかった前世の記憶から、ある呪紋を取り出すことに成功した。閃いた、のである。
「こうなったら、これに賭けるしかないですね。行きますよ。魔獣不来。」
魔獣不来は、嫌な臭いで魔獣を遠ざける毒属性の呪紋である。一定以上の大きさの物体が近づくと、臭いが出る仕組みである。魔法を使ったら、ベッペは脱兎の如く、東へ向けて走った。すぐに空を飛ぶ亜竜に追いつかれるが、亜竜がベッペに噛みつこうと口を開けた瞬間、
「臭い。何ですか、この臭い。」
魔獣不来が発動し、嫌な臭いが噴出した。亜竜も、嫌な臭いを前に悶絶しているが、一番被害が大きかったのは、嗅覚の鋭い獣人であるベッペ自身だった。ベッペは、臭さに耐えながら何とか意識をつなぎ止め、走り続けた。
「こんな魔法を考えた人間は頭がどうかしています。」
ベッペがこの魔法の真実を知ったらどう思うだろうか。
「それはともかく、この魔法が、あの魔獣に有効なのは分かりました。後は、僕の魔力が切れる前に、魔獣の縄張りから抜け出すだけです。」
その後も、嫌な臭いのダメージから回復した亜竜がベッペに近づき、食いつかれそうになる瞬間、嫌な臭いが噴出し、亜竜が悶絶、というのを何度も繰り返して、ベッペは、ようやく海岸沿いの岩場から、身を隠せそうな茂みのある場所まで走りきった。後ろを振り返ると、亜竜が追ってくる気配ももうない。
「ふう、九死に一生を得た気分ですね。それにしても臭かった。この魔法はもう2度と使いません。」
こうして、ベッペは念願だった東の国、オストニア王国への密入国を果たしたのだった。