触れないあなたと、指ふたつのキスをする
誰もいない砂浜。
さとうきび畑を背に、ひらけた夜空に浮かぶ月を見る。
細波の音が耳に心地いい。
吹き抜ける風が私の髪を舞い上げて、誰かの話し声を届けてくれる。
あぁ、今日もいる。
腰を下ろした隣にラジオを置く金髪の青年は、この辺りではめずらしい外人さんだった。
月明かりを受けて海を眺め、ラジオに耳を傾けているのかぼんやりと夜を過ごす。
そんな彼の隣に、私は今日も静かに腰を下ろした。
「こんばんは」
通じているのかいないのか、彼は言葉を返してくることはない。
ただ私が横に座ったのを知り、にこりと微笑んでくれる。
夏空を淡くした色合いの瞳がいつも変わらずに優しかった。
「そろそろ夏休みが終わっちゃうの」
彼から返ってくる言葉はないけれど、私はいつも通りにひとり喋りだす。
彼はまた海を見る。たまに私を振り返って、私の話に微笑んで。
そんないつもを、私は夏休みの間、彼と過ごしていた。
「帰りたくないなぁ。まだ、ここにいたい」
大学のある上京先に海はなくて、だから心が荒むのではないけれど、何もかもが上手くいっていなくて。
人間関係、就活、見えない将来のこと、進まない論文。
きっと通じないからと、隣にいることを許してくれる彼の優しさに甘えていた。
「まだ、こうしていたい」
ラジオからは流暢な英語が流れてくる。
どこの周波数に合わせているのか、そのラジオはいつも海を越えた向こうの言葉を話していた。
彼の耳に馴染む言葉はきっと、私の言葉なんかよりもすんなりと彼に届くことだろう。
海を見つめる彼に、私は嫉妬して手を伸ばす。
「ねぇ、聞いてる?」
いつもならしないことに、彼は目を丸くする。
私の伸ばした手に対してやんわりと首を振り、触れる前に距離を取られた。
ラジオは英語でしゃべり続けていた。
「触っちゃだめなの?」
彼はまた首を振る。
穏やかに微笑んだままで、それが私をやきもきとさせているなんて知るはずもない。
ラジオの英語は、彼の雰囲気に合わせて穏やかに言葉を流す。
「あなたに触りたい」
困り顔の彼は、それでも変わらず微笑んだまま。
彼が私に触れない理由を私は知っているけれど、海の向こうに想いを馳せる彼に意地悪をしたくなってしまった。
たぶん、これが最後になってしまうから、彼にこっちを見てほしかった。
「あなたのことが好きなの」
言葉にして、恥ずかしさよりも切なさが募る。
あぁ言ってしまった。これでもう、本当に最後なのにと。
けれどたぶん、言わない方が後悔するのは当たり前だから、私にそれ以外の選択肢はなかった。
彼の微笑みもまた、切なさを含んだ。
「キス、できる?」
これはもう諦め半分の質問だった。
彼は私に手を伸ばそうとして、やっぱり無理だと首を振った。
そうだよね、と声を小さくする私に、彼は自身の手でピースサインを作ってみせた。
「なに?」
私の手を指さし、またピースサイン。
私にもやれということ? とピースサインをして見せると、今度はその指を唇へ持っていった。
私も真似ると、彼は嬉しげに頷いた。
ふわりと、彼が近づく。
彼が重なる。
感触は私のものなのに、一瞬の出来事が私の唇を勘違いさせる。
間近で見る淡い夏空の瞳は、その中に私を写し取って満足気に細められた。
ラジオがノイズ混じりに何かを伝える。
たったひとつ理解できた単語を、私は頭の中で自分の言葉に置き換えた。
「私、あなたの希望なの?」
姿を消してしまった彼はもう、微笑んでくれることはない。
流暢な英語を流し続けたラジオは、時の経過相応に朽ちて壊れていた。
もう喋らない。彼の言葉を、流さない。
ラジオを通して返事をしてくれていたのだと、今になってようやく気づいた。
「……優しい人」
ラジオを拾い上げる。
ずっと砂浜に放置されていたラジオからはさらさらと砂が流れ落ちる。
流れた年月の分だけ、彼がここに眠っていた分だけ。
「私、忘れないよ」
遠い過去になりつつある悲劇は、いまだこの砂浜に戦没者を眠らせている。
いつまでも忘れない。いつまでも、忘れてはいけない。
多くの犠牲の上に今を生きている私は、たしかに彼らの『希望』となっているのかもしれない。
「ずっと、大好きだよ」
もう二度と会えない彼の遺品を、それ以上壊れないようにそっと胸に抱きしめて。
触れることのできなかった彼との、指ふたつを重ねたキスを、見つめる淡い夏空の瞳を、心の中でぎゅっと抱きしめて。
涙を拭った私は、希望に満ちた未来を彼の思い出と共に歩いていく。