(41)招かれざる人
変化は突然だった。
私の頭の上の光球が粉々に弾け飛んだ。手足も軽くなった。
でも真っ暗になる前に別の光が出現して、室内を照らしていた。今度の光はさっきより格段に明るい。私は思わず目を閉じてしまった。
私が察知できた変化は、それだけだ。
でも空気というか、目に見えない何かが急変した。
まるで硬い箱が粉々に崩れたかのような、そんな背筋が寒くなるような圧力があった。
でも、不思議と不快な感じはしない。
恐る恐る目を開けると、黒い犬が見えた。
びくりと震えそうになって、目の前の犬がさっきの犬もどきの蛇ではないことに気がついた。
さっきの蛇犬は緩やかに波打つ毛を持っていた。でも、この黒い犬の毛は真っ直ぐで絹糸の滝のようだ。
それに口から見えている牙も、普通の動物の範囲に収まっている。
違う犬だ。
それも、お兄さんと一緒にいた犬!
はっと顔を上げると、水色の冷たい目が私を見下ろしていた。
魔力がないせいで風呂にためた水を温められなくて、うっかり冷たい水風呂に入ってしまった時のような、そんな冷気。
でも、お兄さんだ。体の周りに青い炎のようなものをまとわりつかせているけど、少しずつ消えていってるから、気にしないようにしよう。
だってこの人は、どんなに恐ろしく見えてもセレイス様とは違う。常識的で大人なお兄さんだ。
「……思考封鎖に成功しているじゃないか。お前にしてはよくやった」
いつも通りの素っ気ない声は、どちらかといえば冷たい。
でも褒められた。私を褒めてくれた。なぜかわからないけど、ここに来てくれた。
そう思ったら、全身から力が抜けていた。ただペタンと座り込んだまま、お兄さんを見上げてしまう。
そんな私の目の前に、お兄さんの手が差し出された。
……なんてきれいな手だろう。男の人の手だから大きくてゴツゴツしているんだけど、とてもきれいな手だった。
思わず見惚れていると、突然頭の中でパリンと何かが割れるような音がした気がして、思わず頭を抱えた。でも別に頭が痛くなったわけではないし、耳鳴りでもない。恐る恐る頭から手を下ろすと、お兄さんが眉をひそめた。
「思考封鎖が切れたな。まあ、初めてにしてはよくもったほうだろう。……立てるか?」
……えっと。
もしかして、立ち上がる手助けをしてくれるんだろうか。
そっと手を出してみたけど、王族公爵様であるお兄さんの手をつかんでいいものかと悩んでしまった。でもお兄さんはさらに眉を動かしたかと思うと、私の手を容赦なくつかんで引っ張った。
軽い私の体は、それだけで浮かび上がる。足が一瞬ふらついたけど、お兄さんが支えてくれた。
や、優しい。お兄さんがとても優しい……。
面倒くさそうな顔も、顔に張り付いていた白い髪を素気ない手つきで外してくれるのも、なんだか嬉しかった。
——ああ、助かったんだ。
魔力富豪で大金持ちで高貴な王族のノルワーズ公爵閣下が、わざわざ私を助けに来てくれた。……もう私の頭の中を覗かれることはない。お姉様に、アズトール家に迷惑をかけずにすむ。
そう思った途端に、目に涙が浮かびそうになった。
だめだ。気を引き締めろ。
私は慌てて瞬きをする。何か喋らないと、お兄さんの前で醜態を晒してしまいそうだった。
「えっと……そ、そうだ、どうしてここがわかったんですか!」
「お前が思考封鎖の魔術を使ったからだ」
「……え?」
「正確に言えば、お前の魔術の発動と、お前につけたお守りはリンクしている。微弱なお前の魔力だけでは検知に時間がかかっただろうが、自分の魔力ならどんなにわずかでも探索できる」
そうか。
やっぱりお兄さんのおかげなんだ。私には見えない古代魔導文字があるはずの腕を見てしみじみとしていると、硬く閉じていた扉の向こうに強烈な気配を感じた。
はっと顔を向けると、扉が大きくたわむ。次の瞬間には、弾けるように砕けていた。大小さまざまな破片が飛んできたけど、お兄さんが目を向けると薄い青色の炎がゆらりと出現して、弾き返していく。
……お兄さん、さり気なくすごい。
というか、誰だか知らないけど、いきなり扉を吹き飛ばすなんて乱暴すぎる!
思わず睨んだら、扉があった場所の向こうにセレイス様がいた。
その端整な顔に、さっきの余裕はどこにも残っていない。まだ目から血が流れているみたいだけど、それを拭うこともしなかった。
「……私は、あなたはお招きした覚えはありませんよ。ノルワーズ公爵閣下」
「それは残念だ。だが、私の保護下にあるものを連れていくのは感心しない。それに……」
お兄さんの水色の目が、セレイス様の足元に向く。
感情が希薄まま、牙を剥き出しにした黒い蛇犬を見つめている。やがて、口元だけで薄く微笑んだ。
「そんな紛い物に力を借りたのか? お前の領地で好き勝手する分には構わないが、この地ではそういう行為は禁止されているのだよ」
「あなたも連れているではないか!」
「ああ、これか? これは例外だからいいのだ。……そういう契約だ」
「……な?!」
セレイス様は、さらに青ざめた。
思い詰めたような顔で、私のそばでのんびりと座っている黒い犬を見つめ、なぜか私をまた見た。食いいるような目に身を固くしていると、セレイス様は真っ白な顔のまま笑い始めた。
「……はは……そうか、王都にもそう言う至高の方がいたのか! ははは! 素晴らしい。なんと美しいお方だ!」
歪な響きの笑い声が、地下室に響いた。
黒い目がギラギラと輝いている。私はなぜかぞっといて、必死で遠ざかろうと足を動かしてしまった。でもそこにはお兄さんが立っている。すぐに背中にお兄さんの体が当たって、なぜか私はそれに安心した。
「はははっ! 異界の美しく尊きお方よ! どうか、私に本当のお姿をお見せくださいっ!」
「……うるさい男だ」
お兄さんは小さく舌打ちをした。
冷ややかな声が聞こえたけど、次の瞬間、金色の光がセレイス様の周りをくるりと取り囲む。途端にセレイス様は喉を押さえながら、がくりと膝をついた。
光はすぐに消えた。
でも急に静かになっている。よく見るとセレイス様が口をパクパクと動かしているのに、声が聞こえなくなっている。まるで、あの廃屋の井戸が目の前に出現したようだ。
そんなことを思い、ふと私は部屋を見回した。
いつの間にか、セレイス様の足元にいた黒い犬がいなくなっていた。いつの間に姿が消えていたのだろう。魔物だか上位の魔獣だかわからないけど、あの蛇犬には逃げられてしまったようだ。
でも、セレイス様は目の前にいる。仲間割れで取り残されたのか、あの蛇犬が単独で逃げるのがやっとだったのか、私には見当もつかなかった。




