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Conductor  作者: 槇 慎一
6/21

6 芸術家の証


 妻は大学の合唱団の伴奏をしながらピアノコンチェルトの演奏会に出演することになった。


 あと半年。平山も、妻の師と同じフランス人の教授に師事している。リストを弾いてグランプリを獲った平山は、演奏会ではラヴェルのコンチェルトを弾くという。


 考えていたのだ。妻はシューマンのコンチェルトの予定だったが、変えた方がいいだろうかと。かつての僕達の師は、これを聴きながら亡くなった。お別れも言えないまま……。曲目を変更するならば早い方がいい。


 二楽章を弾きながら辛そうにしている妻を、ソファに座るように言った。


 ソファに座った妻に温かいミルクティーを飲ませた。案の定、あまり飲まなかった。


「かおり、曲を変えてもいい。思い出が多くて辛いんじゃないか?」

 僕がそう言うと、涙をこぼした。やはりそうか。

「メンデルスゾーンもあの期間であれだけできた訳だし……グリーグはどう?」

「はい」


「よし!今から一緒にグリーグを弾こう。初見で構わない」

「はい」


 素直でかわいい妻は、ずっと変わらない。少し強くなったが、まだまだ脆いところもある。もともとおとなしい。自分から言えなかったのだろう。曲目の変更なんて、自分では思いつかなかったのかもしれない。


 僕達はすぐにグリーグのコンチェルトに取り掛かった。僕程の音楽経験はなくても、妻にはそれだけの力がある。ざっと三回通した。一回目よりも二回目、二回目よりも三回目と、溢れるように音楽が広がっていった。


「細かいことはレッスンで。いつものように少しずつ細部に渡って丁寧に練習するのではなく、たまには方法を変えてごらん」

「はい」


 妻はグリーグを、僕はラフマニノフをそれぞれで練習し、日付が変わる頃まで練習し、くたくたになって眠りについた。


 翌日、大学事務と演奏部門、妻の師であるA氏に相談し、曲目の変更を願い出た。大学管弦楽団はラヴェルを練習していたところだったし、全く問題ないと言われた。よかった。僕は大学で、妻の副指導者的な立場でもある。第一指導者であるA氏に、今の妻の状態……シューマンを弾いていた時の心の葛藤や、グリーグの現状を伝えた。


「私もシューマンのコンチェルトに関して心配していた。カオリは元気がなかった。それくらい神経が細やかでなければ芸術家ではない。グリーグは彼女にとって良い選択だ。時間は多くないが、彼女の実力があれば大丈夫。シンイチのラフマニノフも楽しみにしている」

と話してくれた。よかった。僕は妻に曲目が変更されたこと、A氏も了解してくれたことを連絡した。


 練習中なのだろう。返信はなかった。


 夕方に帰宅すると、練習している音が玄関まで聴こえた。普段なら、僕が帰宅する時間に合わせて仕上げたり、復習やまとめをしていて音がまろやかなのだが、まるでそうではなかった。おそらく時計を見ていないだろう。


 防音室のドアを開けても弾いていた。見たことがないくらい真剣に練習していた。昨日から練習を始めたとは思えないくらい進んでいた。腕と背中、肩に余計な力が入りすぎている。音を聴けばわかるが、これではまずい。僕はピアノのところに行って妻を止めた。


「かおり!かおり。一旦止めて。休憩はしたのか?食事は摂ったか?」

 妻は止められたことにびっくりして訳がわからないといった感じだ。


 無理やりソファに座らせてリビングを見ると、僕が用意した朝食がそのまま置かれていた。

「そのまま、座って待っていなさい」


 冷蔵庫からアイスティーを持ってきて飲ませた。


 バスタブにお湯を溜めた。シャワーだけじゃだめだ。ゆっくり浸かるように妻に勧めた。


 きっと、あまり食べないだろう。カロリーの摂れる温かいスープを作った。


 妻は意識がはっきりしてきたらしく、僕の言うことに素直に従った。スープも飲んだ。

 ベッドにうつ伏せにして寝かせた。僕は、無理にピアノを弾いて固くなってしまった背中、肩、腕、首、頭をマッサージした。相当痛いらしく、身を捩った。小さく悲鳴をあげたりもしていた。

「こんなに固くなって……解さないとダメだ。かおり、……無理するな……」


 おとなしくてあまり動かず、体力もないのに頑張る妻を見て、自分が辛くなるような気持ちで複雑だった。早く進めて、レッスンで見てもらいたいのだろう。時間をかけて、できる限り入念に準備をしたいのだろう。それから、僕を安心させたいのだろう。妻がいじらしくて堪らなかった。


 マッサージはだんだん弱めていき、寝息が聞こえて僕はひとまず安心した。


 いつからだろうか……もう、何日も抱いていなかった。妻から誘うことはなくても、僕が優しくすると、必ず目を潤ませて僕のしたいことに応じてくれた。無理に求めることはできないが、寂しさを感じたのは事実だった。僕のことよりピアノのことを考えていることに……かもしれない。それでも、音楽を、ピアノを続けてほしい。


「かおり、愛してる。……愛してるよ」

 僕は髪を撫でながら耳許に囁いた。


 聞いていなくても構わない。

 僕が、妻に……何度でも伝えたいだけだ。











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