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Conductor  作者: 槇 慎一
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5 妻と息子に真面目な話


 夜。

 レストランでのBGMを演奏する時間になった。


 ピアノの位置についてから、僕が予約した席を見ると、ちょうど妻が到着したところで、支配人に案内されていた。


 お客様に聴いていただけるのも嬉しいが、この中に妻がいるのは特別嬉しかった。僕はこのレストランの支配人に懇意にしてもらっている。学生の頃とは異なり固定給で、他のピアニストよりもシフトが多めに組まれている。


 本当は、僕が演奏する日は妻に毎回来てほしい位だが、ホテル内の高級フレンチなので、そんなに気軽に呼ぶことはできない。


 弾きながら妻が視界に入っていることは、空気に暖かくて仄かな色が付いたようで、緊張感が和らぐような、不思議な心地よさだった。そこへ、妻の向かいに男が座った。僕に対して妻の手前に座ったから、妻は見えなくなった。清潔そうなスーツを着た男は……息子だった。身長は、170センチくらいなので大人っぽく見えるが、線が細いのでまだまだ少年だ。ここで妻と食事をしてくれるのは嬉しかった。


 僕は、妻のために選曲したショパンのノクターンやワルツ、ラフマニノフの小品の他、息子のためにクライスラーやルクレールの作品、弦楽器の曲をアレンジして演奏した。

 

 全てのステージが終わった後で、二人の席に行った。

「かおり、仁、来てくれてありがとう」

「慎一さん、素敵だった」

 仁は何も言わなかったが、口角は上がっていた。


「仁、かおりのレッスン聴講したんだって?良かったか?」

「うん。……合唱も見に行きたい」

「付いていって、自分でお願いしなさい。指揮を学びたいのか?」



 仁は驚いていた。






「……そうだね。興味がある」


 仁はお世話になった弦楽アンサンブルで弾き振りをしたことがある。指揮棒は振らないが、中央に立ち、ヴァイオリンを演奏しながら体全体で他の演奏者に指示をして音楽をまとめる。系統立ててきちんと習ったわけではないが、アンサンブルの先生方からご指導いただいたらしい。音楽が好きなんだな。音楽を生業とする親としても嬉しかった。合唱の指揮も勉強になるだろう。


「僕が音楽の道に進むと決めたのは、ちょうどそのくらいの時だった。」

 仁に言った。


 僕は続けた。妻には話したことはない。いい機会だ。二人に聞いてもらおう。


 かおりが小学生になった時。僕は小学5年生から教授のレッスンを受けていたが、それなりに反抗期もあった。僕は何故か、親ではなく教授にぶつけていた。ピアノが上手くいかない苛立ちも大きかった。教授には、

「そんなシンイチは良いピアニストにもなれないし、良い教師にもなれない!」

と言われた。僕はここぞとばかりに

「僕にも生徒がいます!」

と言ったら、戯言だと思ったのか、

「今すぐ連れてこい!」

と言われた。教授の家を飛び出し、僕の家で一人で練習していたかおりを電車に乗せて、教授のところに連れて行った。


 教授はまさか本当に連れてくるとは思わなかったのだろう、しかも小さくて可愛い女の子で驚いていた。かおりに、僕が教えた『愛の夢』を弾かせた。


 初めてのコンクールが間近で、僕がもう何も言うことがないくらいに綺麗に仕上がっていた曲だった。教授はその場ですぐにかおりにレッスンした。


 そのレッスンの数日後に行われたコンクールでは、かおりの音色の豊かさが誰よりも素晴らしかったと、学年別での一位と、審査員特別賞をもらった。かおりが小学5年生のことだった。


 その時、かおりのそれは僕の指導力の結果ではないことに気づいた。そして、僕自身がより一層ピアノに真剣に取り組むようになった。教授の言うことを素直に聞き、かおりにも今まで以上に真剣に教えるようになった。かおりも僕と同じペースでついてきた。

 かおりとは、片想いとか両想いとか、つき合うとは違う、そんな真剣な相手だった。


「今も同じ気持ちでかおりを見てるよ」

 妻は、僕の口から出てきた言葉を黙って聞いていた。


「私も、先生のことは、『好き』……っていう言葉だけでは、表せなかった」


「先生?」

 仁が聞いた。

「慎一さんのこと、結婚するまで『先生』って呼んでたの。結婚する時に『慎一さん』って無理やり直された」

「『先生』なんて、他の大勢の生徒や同業者から呼ばれるのと同じだ。かおりは僕の特別だ」

 僕は答えた。

「あの頃は、……私だけの『先生』だったのにな」

 

 僕は笑った。

「かおりがそんな風に言ってくれるなんてね。確かに、生徒はかおりだけだった」


 僕は仁の方を向いて言った。

「指揮を学びたいなら、平山が勉強しているから、平山について学ぶといい。お願いしに行きなさい。ピアノ科の学生が学ぶ程度の内容なら、品川の実家に教科書が何冊かある筈だ。本棚を探していいよ」

「はい、ありがとうございます」


「英語はもちろん、外国語は内緒話ができるくらいまでやりなさい。僕と平山はロシア語、フランス語はかおりと松本と……平山は少しかな。松本はドイツ語とイタリア語もできる筈だ」


「わかった。じゃママ、パパに内緒のことをフランス語で僕に教えてよ」

 仁は妻に言った。

「je l'aime depuis que je suis né」

 妻はにこっとして答えた。

 

 僕も少しはわかる。

 産まれた時から好き……か。

 知ってたけどな。


 僕は静かに笑った。












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