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Conductor  作者: 槇 慎一
2/21

2 母の顔、妻の顔


 平山と妻と僕は、大学主催の演奏会でピアノコンチェルトを弾くことになった。


 今日は金曜日。

 僕はホテルのフレンチレストランでピアノの生演奏の仕事をしている。今週のシフトは土曜の夜と日曜の夜だ。夜はゆったりしたクラシック曲を弾くことが多い。明日はゆっくり起きればいいし、今夜はコンチェルトの練習を本腰入れてさらうとしよう。


 妻にチャイコフスキーのコンチェルトのオーケストラパートを弾かせて、これから自分で練習が必要な場所をざっと確認した。部分練習にはオケパートは必要ない。妻にお礼を言って個人練習をしようとした時、玄関の鍵を開ける音がした。


「仁だ!」

 妻はいち早く玄関にパタパタと走って行った。僕が帰宅する時と同じだ。いつまでもかわいい妻を見て、自然に笑みがこぼれた。


「仁、おかえり!」

「あ、ママ。ただいま。今日はこっち、いい?」

「もちろんいいよ!今、チャイコンしてたの」

「ちょっと聴こえた。本番でもあるの?」

「うん、大学の創立記念演奏会で、慎一さんがチャイコフスキーで、私はシューマンなの」

「いいね、聴かせてよ」


 しばらく離れて暮らしていた仁には、小学四年生のコンクールの後から、ここと僕の実家とどちらで暮らしてもよいと伝えた。仁はそのまま品川にある僕の実家で暮らしているが、たまにこうしていきなり顔を見せるようになった。


 僕もリビングで出迎えた。

「仁、おかえり。せっかくのリクエストだけど、オケパート合わせの練習が終わったところ。しばらく個人練習するつもりだ。悪いな」

「いいよ。ママ、何か食べたい。明日はレッスンないから、集中してここで勉強する。終わるまで帰らない。明後日はレッスンあるから、明日は練習するし、なるべく早く終わらせるから」

 僕は感心した。

「偉いな。そういうところ、お前は小さい頃から変わらないな」

「パパもそうだったって、誠一が言ってたよ。ママも毎朝コツコツ勉強してたって聞いたし。普通だよ。僕は夜だけどね」

「仁は学校の成績も良いってお父さんが言ってた。みんな優秀な学校なのに、すごいね」

「まぁ上の方だけど……それでも、勉強しなくても出来る奴が何人もいる。僕は多少は勉強してるし、そんなにすごくない。パパ、数学見てよ」

 やれやれ、マイペースだな。

「仁、パパはこれから練習だから今は見られない。約束もできない。パパは練習が仕事だ。終わったら見せてくれ」

 僕はやんわり断った。

「わかった」

 仁は、リビングの大きなテーブルに、やるべき課題と思われる教科書やノートを広げた。まるで次はこれ、その次はこれと、ノートが並んで待っているようだ。

「あ、それ……私のやり方と同じだ!教科書に並んで待っててもらうの」

「真似すんなよ」

「仁が私の真似をしたんでしょ?」

「本気で怒るなよ……皺が増えるぞ」

 仁と妻のやりとりは兄妹みたいで面白かった。


 僕はチャイコフスキーのコンチェルトの部分練習をし、妻は夕食をつくり、仁は学校の課題をした。


 キッチンで何かが出来上がったらしい。妻はほとんど調味料を使わない。薄味どころではない。しかし、僕はだんだんそれに慣れていった。素材の味はシンプルで美味しいとさえ思う。


「仁、出来たよ。慎一さんも一緒に食べられる?後にする?」

「ありがとう、一緒に食べるよ」

 妻はテーブルに皿を運んだ。パンケーキにウインナーにレタス、サラダ、スクランブルエッグ。別の皿にはパンケーキにフルーツとホイップクリームが添えてあった。妻がこっちだな。今は夕食の時間帯だが、まるで休日のブランチだ。


 仁は話しかけられたことに気づいていないようで、ずっと同じペースでペンを動かしていた。すごい集中力だ。妻もそれを見て、それ以上話しかけるのをやめた。そう、妻もそういうところがある。僕はそれほどでもない。僕と妻は、ブランチみたいな夕食を取りながら息子の様子を眺めた。幸せな時間だった。


 僕は、終わったと思われる教科書とノートの束からノートを一冊抜き取った。数学だった。その内容は、中学一年の内容ではなかった。僕の母校である中学は個性的な先生が多い。一般的な内容とはかけ離れたことを教えてくれたりする。何だか懐かしい。よく理解しているみたいだ。僕は妻にそれを見せた。


 妻は幼稚部から高等部までの女子の一貫校に通った。成績も良く、系列の女子大学にもトップで入学した。妻に言わせれば、予習をして授業を受けて、復習をしてテストを受ければ満点が取れるらしい。皆、何かをちょっと間違えちゃうのかな、なんて言う。妻はおとなしくて、動作がゆっくりで、あまり論理的には話せないが、周りのお友達皆と仲良くできる妻の資質もなかなかだ。僕には好ましく映る。

 妻は今でも素直で謙虚で、わからないことは誰にでも教えてもらい、きちんと吸収する。まぁ、……少しゆっくりだけど、教え甲斐がある。


 結局、日付が変わる頃、仁はその集中力で、並べた課題を全て終わらせた。ぷつりと何かが切れたみたいだ。

「終わった。寝る。その前に食べる」


「仁、すごいね。これってなあに?」

「それ?そこに書いてあるとおりだけど……解説はこの本の……これ、ここに載ってる。フィボナッチ数列とかは、バッハにも使われてるでしょ?」

「ふうん……中学生でこんなのわかるんだ?」

「数学でも他の教科でも、判っていれば授業聞かないで他のこと勉強してていいんだ。今は高校数学にも興味がある。数学だけ、何かすごい好き。休み時間とか、僕よりもっとすごい奴に教えてもらえるんだ。あー、この……味のない食べ物、たまに食べると落ち着く。ごちそうさま。寝る」


 仁は、言いたいことだけ言って寝てしまった。背の高い仁は、もう妻の身長を超えて170センチ位になっただろうか。子供向けのベッドでは寝ていない。毛布などを床に敷いて横になっている。制服は一応ハンガーに掛けてあった。まだ一年生なのに、随分くたびれた制服だ。


 仁は……くたくたなら好都合。

 部屋をのぞきに来た妻を抱きしめて、僕達のベッドに乗せた。





 









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