その愛しさは恋情未満
【その愛しさは恋情未満】
二月の十四日。バレンタインデー。
この日の朝にわたくしが訪ねるお相手は、いつも決まっております。
「おはよう、ロジェ」
学生寮の食堂で、本を片手にパンを食べている彼。公爵家の三男坊でわたくしの幼馴染。ミルクティー色の髪に青色の瞳をした、勉強ばかりの無愛想な男の子です。
「うん。おはよう、レティシア。朝からなんだ?」
「ふふふっ。貴方、今日が何日かご存知?」
「今日は……二月の十四日だな」
「つまりバレンタインデーね! はい、お友だちのいない哀れな貴方にチョコレートをあげるわ」
青色のラッピングをしたチョコレートを、彼に差し上げます。
彼には人間のお友だちがいません。彼のお友だちは、きっと教科書や本でしょう。顔はそれなりに良いのに、愛想がないのがいけないのです。
毎年毎年彼にチョコレートを渡そうと計画まではしても、いざ間近でその冷たい表情を見ると恐れをなして渡せない――なんて女の子が何人いることやら。
「毎年そうやって友人がいないことを悪く言うよな。まあいいが。ありがとう」
「いえいえ、お勉強頑張ってね。今度はわたくしに勝てると良いわね」
「……ああ、そうだな」
わたくしたちは現在中等部三年生。来週末が高等部の入学試験です。
そのせいか今年のバレンタインは、なんだか皆さんピリピリしていらっしゃいます。
「アルノーっ! こんにちはっ」
お昼に訪ねるのはアルノー。彼も幼馴染で、侯爵家の次男坊です。赤毛にヘーゼル色の瞳の、武道が得意な男の子。
「お、レティシア。やっほ」
「はい、バレンタインのチョコレート! 貴方のお父様にも送ってあるわ」
彼に差し上げるのは、臙脂色のラッピングをしたチョコレートです。
わたくしの父が第一騎士団の団長を、彼のお父上が第二騎士団の団長をしている縁もあり、父子ともども仲良くさせていただいています。
「ありがと。また親父にも送ったんだな。どうせあれだろ? 俺のより親父のの方が豪華なんだ」
「ええ、当然よ。だって貴方のお父様の方が貴方よりかっこいいもの。でも一番かっこいいのはわたくしのお父様だわ」
「はいはい。で、そうすると殿下は何番目にかっこいいんだ?」
「あら、殿下は特別枠よ。だから順番はつけないの。じゃあね、アルノー。少しは勉強もしなさいよ」
「ああ、レティシアも頑張れよ」
彼は勉強はあまりしませんが、それでもそこそこの成績は取れてしまう要領のいい子です。女の子からもそれなりにもてます。彼は入試前でも余裕そうなので、比較的お話ししやすいです。
そして、最後にお渡しするのは。
「……サイード殿下」
「ああ、レティシア。どうした?」
夕方から食堂で待ち伏せして、人が少なくなりはじめた夜頃。ようやくサイード殿下はいらっしゃいました。食事をしている彼に声をお掛けし、そのお隣に座ります。
殿下はこの国の王太子で、わたくしの婚約者です。シルバーグレーの髪とオレンジ色の瞳を持つ、眉目秀麗の、女性の憧れの的のお方です。
「殿下、今日が何日だかご存知ですか?」
「今日は……試験が次の週末だから……ああ、十四日だな」
「バレンタインデーです。殿下はおもてになりますから、他の方からも、きっと贈られたのでしょうね」
「そういえば、贈られてきていたかもな」
笑う殿下の目元には、隈がありました。きっとたくさん勉強されていたのでしょう。
それでもそのことを口にはできません。殿下は強がりで、ひとに弱いところを見せたがらないのです。
勉強なんて頑張らなくてもできると、そういうふりをしているのです。
「チョコレートです。どうぞ」
「ありがとう、レティシア」
殿下に差し上げるチョコレートのラッピングはピンク色。彼が女子生徒から贈られるチョコレートは、ピンク色のラッピングばかりです。
さすがにハート形なんて恥ずかしくて渡せませんが、ピンク色くらいなら婚約者ですし良いですよね。
「レティシアは入試前でもこういうイベントを楽しむんだな」
「はい。それに入試前こそチョコレートは良いですよ。糖分を補給できるので頭がよく働きます。……あの、殿下」
「うん、なんだ?」
殿下は微笑んでいらっしゃいました。いつも通りに、弱いところを隠して。
「あまり……ご無理はなさらないでくださいね」
「大丈夫。無理なんてしていない。普通にいつも通り、入試でも一位を取るだけさ」
「……応援しています」
彼は「つらい」とかいう言葉をおっしゃりません。彼はいつも、わたくしの前では笑顔をお見せになります。
いつからでしょう。いつからこんなに、完璧であることばかりを追い求めるようになったのでしょう。
貴方はいつからか、何かを諦めてしまったようでした。
「殿下」
「なんだ、レティシア」
「殿下には、好きなひとはいらっしゃいますか?」
「王になる男に、恋なんていらないだろう? 大丈夫、僕は女遊びなんかしないから」
貴方の瞳を見れば分かります。貴方はわたくしに恋はしていません。わたくしのことは、婚約者としか思っていないはずです。
貴方も、わたくしも、恋をまだ知りませんでした。
「あと一年と少しで、婚約式ですね」
「そうだな」
「……良いのですか?」
「君のことは、良い婚約者だと思っている」
今の婚約は、親同士の決めたもの。一年後の婚約式は、神の御前で将来の結婚を誓う儀式です。婚約式を終えたら、よほどのことがない限り別れることはできなくなります。
「殿下と出会った日のこと、今でもよく覚えております」
「僕も、覚えている。……レティシア」
「はい」
「ごめんな」
この「ごめんな」はきっと。
君を愛せなくて、ごめんな。なのでしょう。
「……わたくしは、殿下のお幸せを願っております」
「ありがとう」
貴方が恋をしなければ、わたくしは予定通り貴方の妻となりましょう。
けれど、貴方が恋をしたなら。貴方が取り繕わずに素顔を見せられる、「つらい」と明かせる相手に出会えたなら。
そのときには、きっと、この座を譲りましょう。
わたくしは、まだ恋を知りません。
貴方はわたくしにとって兄のようなひとであり、そして同時に弟のようなひとでもありました。
貴方のことが愛おしい。そう思うこの感情はきっと、恋ではありません。
サイード殿下。
貴方は、わたくしの大切なひと。
幸せになって欲しいひと。
「サイード殿下」
「なんだ」
「……好きなひとができたら、教えてくださいね」
「……ああ」
今、こうして「サイード殿下」と。貴方の名前を呼ぶことを許されている女の子は、わたくしだけ。
「レティシア嬢」とかではなく。呼び捨てで呼んでいただけるのも、わたくしだけ。
貴方に恋愛対象として見られていないことは、自覚しているのです。
それでも、少しだけ、この呼び名たちに優越感を覚えてしまうのです。
来年も、こうしてチョコレートをお渡ししたいと。
来年も一緒にいたいと。隣にいたいと。
そう思うのは、わたくしが貴方の隣しか知らないからでしょう。「王太子殿下の婚約者」としてのわたくししか、わたくしは知らないから。
外の世界の色鮮やかさに気づいたときには、もう貴方が隣にいるのが当たり前になっていました。
どの努力もいつの間にか、貴方の隣にいるための努力になりました。
「高等部でも、同じクラスになりたいです」
「たぶん同じクラスだと思うが」
「一緒に寮まで戻らせていただいても良いですか?」
「別に良いが、夕食が終わるまで少し待たせるぞ」
「はい、お待ちします」
少しでも長く一緒にいたい。少しでも長く隣を歩きたい。
けれど、なんとなく分かっていたのです。
貴方が誰かに恋をしてしまうことは。
……いいえ、こんな言い方ではいけませんね。
貴方がひとを愛せるようになることを、わたくしも望んでいたのですから。
愛されるのがきっとわたくしではないことが、少し悔しいけれど。
今だけは、貴方の隣はわたくしのもの。
わたくしの、愛おしい、婚約者様。