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烏はいつも見ていた

作者: 吾妻栄子

――カティ、行っては駄目だ!


 まだ青年というより少年のように若いマチョークが臥せっている私の手を握った。


 彼の纏っている服は華麗なのに、小さな私の手を掴む両の手は節くれだっている。


 これは、自ら剣を取り馬の手綱を引く手だ。


――約束しただろう?


 問い掛ける潤んだ瞳は悲しみよりも恐怖を示していた。


“カァ、カァ……”


 日暮れの窓からカラスの鳴く声が遠く響いてくる。


 まだ雪融けのしていない城と街を見下ろして鳴いているのだ。


――陛下、私は……。


 唇が勝手に動いて、今の私より遥かに幼い、まだほんの少女の声で語る。


 マチョークの涙を湛えた瞳がいっぱいに迫った。


――先に行って、空からヨーロッパ中のお城が烏の紋章に変わるのを見守っております。


“カァ、カァ……”


 黒く沈んでいく意識の中で、飛び去っていく鳥の鳴き声と乾いた羽ばたきの音が尾を引くように響いた。


*****

「着いたよ」


 隣からのマチョークの声で目を覚ます。


「ああ」


 バスの座席でつい眠り込んでしまったらしい。


 周りでは次々とカメラを手にした客が降りていく。


*****

“カァ、カァ……”


 白い雲が緩やかに流れていく六月の青々とした空を二つの黒い影が遠ざかっていく。


 さっき夢で耳にしたのはあの二羽の鳴き声だったのだろうか。


 烏たちの目指していく先には灰白の石造りの古城が、正確には城だった廃墟が聳え立っていた。


 緑深い丘の上に残された廃墟はかつては外敵に備えた城塞だったとのことだが、生い茂った緑と湿った土の匂いを含んだ風に吹かれながら見上げると巨大な墓標じみて映る。


 カシャリ。


 私のすぐ脇でマチョークがシャッターを切る。


「行こう」


 笑いかける彼の目尻には微かな皺が刻まれ、こちらの手を取るその手は男性にしては指も細く滑らかだ。


 私より三つ上のマチョークは三十一歳。夫婦になってまだ三日だが、彼のたっての希望で新婚旅行ではこの古城の廃墟を訪れることにした。


「ここにはずっと来たかったけど、大事な人が出来てからの為に取っておいたんだ」


 スロヴァキアのスピシュスキー城。都市から離れた緑の中に佇む「天空の城」だ。


 温かな手に引かれて近付くと、湿った土と生い茂った緑の香りに混じって、雨風と陽射しに繰り返し晒された石の匂いがする。


「プラハ城やブダ城みたいに今も首都の街中で隅々まで整備された華麗な建築じゃないし、ポジェブラディ城みたいにあかい屋根の可愛らしいお城でもないけれど」


 ハンガリー人の彼とは私の住んでいたポジェブラディに旅行に来たのがきっかけで知り合った。


 正確には去年の今頃、旅行でポジェブラディ城を見た帰りに交通事故に遭い、私の勤める病院に搬送されてきたのだ。


 主治医だった私と異国で思わぬ重傷を負った彼が惹かれ合うのに時間は懸からなかった。


「私も一緒に観に来られて良かった」


 EU職員の彼はそれまでも休暇を利用してはヨーロッパ各国の城を観に一人旅していたという。


「ここはちょうどハンガリーとチェコの間にあるお城だしね」


 マチョークは白い雲の浮遊する青空を見上げて呟くと、彫り深い大きな黒い瞳を細めた。


 彼はブダペスト出身のハンガリー人、私はポジェブラディ出身のチェコ人。


 この新婚旅行が終わったら、ベルギーのブリュッセルに住むことになっている。そこに彼の勤めるEUの本部があるからだ。


 私は目下、フランス語の勉強中だ。ベルギーの公用語はフランス語、オランダ語、ドイツ語だが、ブリュッセルでは八割がフランス語話者だからだ。新たに仕事を見つけるのはもちろん、単純に暮らしていくためにも身に付けなくてはいけない。


「ヨーロッパ連合」などといった所で全ては西側がスタンダードであり、ハンガリーもチェコも加盟国では新参者、マジャル語もチェコ語もブリュッセルでは公用語の列に加えられていないのだ。


 ちなみに、マチョークはフランス語、オランダ語、ドイツ語はもちろんチェコ語も話せるので最初からコミュニケーションには苦労しなかった。


 これにはEU職員という仕事も関係しているが、城巡りで旅する内にヨーロッパの大体の言語は覚えたのだという。


「というより、昔はここもハンガリーだったんだよな」


 碧空を仰ぐ彼の目線の先を小さな黒い影が横切っていく。


 あれもまた別な烏だろうか。


 今度はたった一羽で鳴きもせずに遠ざかっていく。


「それ、マーチャーシュ一世辺りの時代じゃない?」


 私は苦笑いする。


 マーチャーシュ一世は十五世紀後半、時代としては近世のハンガリーの国王だ。


 ドラキュラのモデルになった同時代のルーマニアの「串刺し公」ヴラドに対し、こちらは「正義王」と称えられ、ハンガリーの首都ブダペストには今も彼の銅像が立ち、お札にはその肖像が刷られている。


「ここにいるとそんな遠い昔でもない気がするよ」


 プラチナの指輪を嵌めた手と手を繋ぐ私たちの間を生い茂る緑の匂いのする風が音もなく吹き抜ける。


 確かに現役の城塞として機能していた時代でも、この辺りには同じ草の香りのする風が吹いていたのかもしれない。


「私が生まれた頃は、まだチェコと一つの国だったしね」


 緑豊かな山岳国、スロヴァキア。


「空から見れば、国境線なんて無いしね」


 マチョークの横顔が空を仰いで笑ったところで、後ろから


「おお!」


 と驚きの声が上がる。


「ああ」


 振り向いた私も思わず声を漏らした。


 真っ赤に膨らんだキャノピーのパラグライダーがたちまち私たちを追い越して天空の城を目指して飛んでいく。


 水色の空と白い雲に、輝く陽を浴びて透けた翼の赤が一瞬、焼け付くように照り映えた。


 カシャ! カシャ!


 後ろを歩いているアジア人の一行が一眼レフやスマートフォンをこちらに向けている。


 日本人か、中国人か。


 むろん、彼らが撮影しているのは同じ旅行者である私たち夫婦ではなく「天空の城とパラグライダー」という観光地を観光地たらしめている光景だ。


 だが、私とマチョークが前景に写り込んだスピシュスキー城の写真を彼らの誰かがSNSに投稿してそれが全世界の人に見られるのかもしれないと思うと、少し怖いような、どこか誇らしいような気持ちになる。


 赤い翼の人影は碧空に吸い込まれていくように遠ざかっていく。


*****

「やっぱり、ここの眺めは別格だ」


 緑の大地を吹き抜けてきた風に積み重ねた石の匂いが混ざる古城の屋上。


 マチョークは私の肩を抱いて遠くに広がる景色を示した。


「ええ」


 若草の絨毯の向こうに見えるのは、朱色の屋根が連なる素朴な町並み。


 ブリュッセルはもちろん、ブダペストやプラハと比べても、古びた面影の残る眺めだ。


「初めて見るのに何だか懐かしい」


 完全には重ならないものの、この近世で時の止まったような風景にも、肩を抱くこの手の温かさにも、夢で一度体験した覚えがあった。


 カシャ! カシャ!


「……十年あれば、ここも同じ国だったのに」


 向こうで新たにアジア人たちが写真を撮り始めた、そのシャッターの音に混じってマチョークのマジャル語で呟く声がした。


「え?」


 マジャル語は私にはゆっくり話してもらってやっと意味が取れるレベルなので、普段はチェコ語で会話しているし、マチョークもマジャル語を使うことは殆どない。


「あと十年、マーチャーシュ王が生きていれば、ここも大きな一つの国だったかもしれないなって」


 彼は今度はチェコ語で告げると、穏やかに微笑んだ。


 バサバサッ!


 陽射しを受けて漆黒の羽を淡い虹色に煌めかせた烏が一羽、少し離れた石垣の上に止まる。


 古い石造りの廃墟を吹き抜ける風が一瞬、止まった気がした。


「随分、マーチャーシュ王に拘るのね」


 私は苦笑いする。


 近くに止まった一羽だけの烏は物怖じする気配もなく緑の平原とその向こうに広がる古びた町並みに鋭い眼差しと嘴を向けている。


 この辺りの鳥類は人に危害を加えられることが少ないのだろう。


 むしろ、切り裂いた闇のような動かない横顔を眺めていると、この漆黒の鳥こそがこの一帯の正統な住民であるかのように思えてくる。


「彼は、ヨーロッパを一つにしようとしたからね。もちろん、今みたいな形ではないけど」


 マチョークは穏やかだが揺るぎない声で語る。


 彼の背後の青空を今度は黄色い翼のパラグライダーが遠く飛んでいく。


 パラグライダーを目にすれば凄いと感じるし、自ら飛びながら眺める景色は素晴らしいだろうとは察せられるけれど、何故か自分も飛びたいとは思えない。


 むしろ、色鮮やかなパラグライダーが青空に飛び去っていくのを見守っていたいと感じる。


「確かにあと十年、マーチャーシュ王が長生きしていれば国境も今とは違ったかもね」


 同時代を生きた「串刺し公」ヴラド・ツェペシュに対して、「正義王」と称えられたマーチャーシュ一世。


 しかし、史実を追う限り、マーチャーシュはむしろヴラドを凌ぐ野心家であった。


 そもそも、「串刺し公」という悪名自体、一回り年上のヴラドを捕らえ幽閉したこの「正義王」が内外に流した「ヴラドは残虐無道」というプロパガンダに端を発したものだ。


 自らの妹をヴラドに嫁がせ、彼と義兄弟の契りを結んだマーチャーシュはオスマン帝国との攻防に彼の軍勢を利用する一方で、自らの領土拡大を進めた。


 ウィーンを陥落させ、ハプスブルク家を追放し、最終的には神聖ローマ皇帝の座を狙ったと言われるが、一四九〇年、四十七歳で急死した。


「正義王」の死により、最大版図を誇ったハンガリーは転落と縮小を余儀なくされた。


 クルジュ=ナポカに生まれ、ブダの都を栄えさせ、ウィーンで死ぬ。


 マーチャーシュ一世は正に中欧が産み出した一代の風雲児であった。


 嫡子亡くして没したマーチャーシュだが、生涯に二度結婚している。


 最初の妻であるボヘミア王女カテジナは十一歳で二十歳のマーチャーシュに嫁ぎ、十四歳で産み落とした子供共々息を引き取った。


 この幼妻が「正義王」に与えた影響は殆ど無いというのが一般的な見方だ。


「国境は、まだ、変わるさ」


 いつもよりどこか硬い分、重々しく響くチェコ語でマチョークは告げた。


 白銀の指輪を嵌めた手が傍らの漆黒の鳥をそっと撫でる。


 一見すると、女性のように優しいが、丁寧な所作ゆえに骨太さが浮かび上がる手指だ。


「君と僕が生きているこの時代にもね」


 野生の烏はまるで従順なしもべさながらマチョークに毛並みを撫でられながらも城下の風景を見据えている。


 と、マチョークの両手が闇色の翼全体を包み込んだ。


「行け!」


 低い号令と共に乾いた羽ばたきの音が響き渡る。


“カァ! カァ!”


 黒い翼いっぱいに眩しい陽射しを浴びながら、マチョークの手から飛び立った一羽は緑の平原の向こうに羽ばたいていく。


 私は茫然とすぐ近くの彼と遠退いていく一羽を見詰めた。


 この人は一体、何者なのだろう。


 乾いた砂と石の匂いのする風がまた音もなく辺りを漂い始め、そのひやりとした感触に肌が粟立った。


 廃墟の城壁に佇む後ろ姿を眺めていると、私の知るマチョークはまだ彼のほんの一部でしかない気がしてくる。


 “カッ!”


 青空高く飛んだ黒い影が鋭い鳴き声の尾を引かせる。


 あの烏はどこへ行くのだろう。


 あの古びた町並みのどこか?


 それとも、もっと遠い場所?


 傍らのマチョークには問い質せないまま、謎だけが胸の奥で渦を巻く。


 “Wow”


 “Great view!”


 不意に後ろから声が上がった。


 振り向くと、揃ってやや太り気味の中年の白人夫婦がカメラを手に新たに屋上に登ってきた所だった。


「ハーイ」


 私と目が合うと、二人はこれも似通った丸い太り気味の顔に人懐こい笑いを浮かべた。


 多分、この夫婦はアメリカ人だ。英語のイントネーションや雰囲気から直感で察した。


 ヨーロッパの有名どころの観光地には様々な国籍、人種の客が行き交うが、アメリカ人はほぼ必ず見掛けるし、やや過剰なほどリラックスした雰囲気ですぐそれと見分けられる。


「ハーイ」


 私たち新婚夫婦も笑顔で返す。国際的な観光地ではお決まりの光景だ。


 それが済むと、異邦人の夫婦は屋上の別な一角に進んでいく。


 先程シャッターを盛んに切っていたアジア人の一団はいつの間にか屋上を降りていたらしく、もうどこにも姿が見えない。


 どうやらアメリカ人のご夫婦が来るまでのほんの一時、この廃墟の屋上には私とマチョークと烏しか居なかったようだ。


「そろそろ降りて、お昼にしましょうか」


 そこまで空腹でもないが、出来るだけ早くいつもの二人に戻りたい気分で切り出した。


「ああ」


 目尻に微かな皺を刻んだ、いつもの穏やかなマチョークの笑顔にホッとしつつ、彼の手を取って私から歩き出す。


「疲れたのかい?」


 案じる響きの彼の問いに自分でも大げさに感じるほど首を横に振った。


「そんなことないよ」


 バサバサッ。


 また黒い影が一羽飛んできて止まった城壁の前を足を速めて通り過ぎる。


 つと、夫婦の指輪を嵌めた彼の手が固く私の手を握り締めた。


「旅はまだ、始まったばかりだからね」(了)

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