オブザーバーの影を追って②
私の怒りを怪訝に思う者、疎ましく思う者。正気を疑われてあしらわれたり、聞く耳持たずではねつけられたりすることはないが、誰もがおもむろに視線をそらす。気持ちだけでもこちらに引き戻そうと、立ち上がり、かすれそうになる声を振り絞る。
「人間の時代が終わるかもしれないという時に、味方まで疑っている場合じゃないだろう! ましてや、殺すだと? 二重の意味で片腹痛い! 私たちにできることは、戦争に勝つことでも、鬱憤を晴らすことでもない! 戦争を回避する方法を考えることじゃないのか?」
「この段階に入った時点で、人間の負けだ。もう間に合わん。それなら、生きてるうちにやれるだけをやるだけだ」
傍のテーブルの中年の男が、苦々しくつぶやく。
「なぜ、和解の手立てを考えない? なぜ、ルナ・ボーゲンバーグを探さない? 私たちが直接やれることは少ないかもしれないが、できることはまだある!」
「和解? 奴らと手を取り合えるとでもいうのか?」
大男は怪訝な表情を浮かべたが、ロイスは身じろぎひとつしない。幼い顔に虚ろな怒りを掲げたままだ。
「なぜ魔人は人間を殺しにかかる? わかるだろう? 仲間を殺され、家族を嬲られ、同じだけの憎しみを人間に抱いているからだ! 殺し、殺される愚かさは、我々が一番理解しているじゃないか!」
傭兵たちは、口を閉ざしたまま思い思いの方向に顔を向けていた。ここで下卑た笑いでもあげてくれたならば、混迷するこの思いにも一貫性が生まれるというのに。
「憎しみだけでは何も解決しない!」
誰も、私を見ていない。
無関心が邪魔しているわけではない。己の弱さに向き合わず、自らの意思で、私の言葉から目を背ける。悔しさに似た憎しみを、晴らす方向でしか解決できない、という思考の牢獄に、自ら囚われて楽になろうとしているのだ。
「シルヴィア・レッセンドッグ。お前は、ずいぶん傭兵のような仕事をした、と聞いていたが」
大男は、私の目をしっかりと見て、馬鹿げた壁よりもよっぽど厚い壁を突きつけてきた。
「ああ・・・この手を汚したこともある」
無意識に、地面に転がった剣に伸ばそうと指先が伸びた右手を見る。血にまみれ、拭い去れないものがこびりついたこの手を、切り落とそうとしたことすらある。
「そうか。だが、お前は傭兵じゃない」
東側、と呼ばれる地域を作り、どういうわけか、脅威を隔離することに成功した壁は完璧ではない。それどころか、作った側が期待した効果など、出るはずもなかったのだ。魔人は、海を渡り、空を飛び、更地を容易に生み出す。言葉通りの摩天楼でもない限り、壁など無意味に等しいのだ。しかし、なぜか魔人は壁を越えようとはしなかった。その理由を知る由はないが、少なくともこの200年弱、徒党を組んで壁を越えることはなく、仮初めの平和が続いた。その仮初めの平和の中で人間が最も恐れたのが、少数で密かに壁を越えてくるはぐれ魔人と呼ばれるものだった。壁を越えないという、おそらくは魔人の共通認識を破ったはぐれ魔人たちは、憎しみを生きる原動力にする人々、傭兵というものを断続的に生み出し続けた。
「傭兵ってのはな、もう死んでんだよ。300年前から燃え続けてきた怒りと憎しみを引き継いで、それを糧にして動いてる。だから、希望は語らない。そんな感情論はもちろん、な」
ズキズキと胸が疼き、服の下で冷たい温度を感じさせる小さな銀のタグを握る。彼らの言っていることは痛いほどわかる。300年前に蔓延り、今尚、世界の下地として根付いている呪いは、この世界に生まれついた瞬間に全ての人間に植えつけられ、表に出る機を伺っている。それを私自身、よく知っている。
「なあ、お前が言った通り、相手の憎しみをわかってやれば、この憎しみは消えてくれるか? 恨みは晴れてくれるか?」
しかし、たとえそうであっても、彼の言葉を忘れるわけにはいかない。憎しみを消す解決策を教えて欲しいと懇願しているようにすら見える、苦悶の表情を睨みつける。
「種族が同じだけの別人にぶつけて、その憎しみは消えると?」
「憎しみが消えることなんてない。奴らは、それを覚悟の上で人間を殺し回った。その報いを受けるべきだ」
「憎しみが消えることなどないと言うのなら、新たな憎しみを生み出してはいけない。報いなど、考えてはいけない」
大男は腹に据えかねたように立ち上がり、乱暴にカウンターに拳を叩きつける。どん、と大きな音とともに木でできたテーブルは震え、腕を持たれつけていたロイスの体もつられて揺れる。
「じゃあ、俺たちの憎しみはどこに向ければいい! この憎しみを抱えたまま死ねって言うのか! お前の言う未来は、俺たちのこれまでとこれからを捨てろと言ってるんだぞ!」
「お前たちの過去を否定する気はない。だが、その腑抜けた未来を肯定する気もない。私は、未来に希望を残したい。そうやって先人たちも戦ってきたはずだ。それを無為にすることはできない」
英雄ユウナは、圧倒的な力を持っていたという。魔人をたった二人の弟子とともに屠り続けたのだ。我々の想像などはるかに上回る強さを持っていたはずだ。その強さをもってすれば、魔人を殲滅することすら可能だったはずなのだ。しかし、それでも彼女はそうしなかった。それが、彼女の出した答えのはずだ。
「今、私たちが堪えなければ、望む未来など、ない」
大男の怒りが頂点に達し、ほおをひくつかせ始めたその時、幼くも冷たい声が静寂の中で響いた。
「軽々しく、未来なんて口走るなよ」
低く呟くとロイスは立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。黒い瘴気でもまとわりついているのかと錯覚するほど、狂気が彼の周囲を漂っている。咄嗟に魔法で剣を右手に呼び寄せ、その剣先を向ける。
大男は、どこかで全てが救済される方法を願っているものの、それには何もかもが足りず、妥協に甘んじようとしている。ここにいる傭兵の多くも本音はそうなのだろう。しかし、この少年にはそれがない。そのエメラルドグリーンの炎は、何もかもを燃やし尽くすまで止まらない、という強固すぎる意思、意地とも言えるべきものが燃えたぎっている。その炎に当てられた周囲の人間まで焚きつけるほど大きく、存在が危険だ。
「何も知らない、何もできないあんたが、未来を語ることを、俺は許さない」
剣先の前に立つと、ロイスは立ち止まり、こちらをじっと見つめる。拒絶の意を示すため、私は剣を下すことはしなかった。
「憎しみを振り下ろす前に、理想を語れよ、少年」
ロイスの眉が少し動いた。
「亡霊には、理想を語る口もないか?」
エメラルドグリーンの瞳の中の炎は、踊るように大きく揺らめき、呑み込まんとばかりに、私の心臓を鷲掴みにしてきた。実際に見合ったのは、数秒だったのかもしれない。たったそれだけの時間でも、私の動悸を狂わせ、思考すらも憎しみで染め上げようと激しくうねる炎を、受け止めることだけが精一杯だった。
「理想などいらん」
ボロボロのマフラーを翻してロイスがギルドを出て行くと、傭兵たちも各々行動し始め、大男は私を一瞥してからロイスに続いた。向ける先を失って小さく震え出した剣を下ろし、冷たくなった足先の感覚を確認するように足からゆっくりと動かして体を揺らす。大きく息を吸い込んでから溜め込んだものを吐き出すように息を吐き、地面を見つめる。滴り落ちてきた汗に剣を突き刺し、くらくらする頭から熱を逃がすように頭を振る。
止める手立てがなくとも、彼らをオブザーバーの元に行かせるわけにはいかない。顔を上げ、剣を鞘に戻し、ロイスの後を追おうとしたその時、無言を貫いていたマスターがぼそりと呟いた。
「皆、わかってはいる」
割れたグラスと撒き散らされたミルクを片付けながら、マスターは感情のこもらない声で続ける。
「どれだけ戦力を集めようと魔人に敵うはずがない。最終的に恭順を選ぶことになっても、融和を図るしか方法はない。憎しみなど、晴らすことを正しいとしてはいけない。どれもこれも、わかってはいるんだ」
「・・・そうなんだろうさ」
憎しみは、抱いたが最後、いかなる形であれ、必ず私たちの目の前に実体をもって顕現する。人間が生きていく上でその必要があるし、安全に顕現させる場所を用意することが、周囲ができる唯一のことだ。
11年前の内戦時、参謀を務めていた兄上が、疲れ果てながらそう言っていたことを思い出す。殺し、殺されをひたすらに続けた彼は、私たちには見えないものと戦っていた。まだ何も知らなかった私に零したその言葉は、私に対する忠告だったのかもしれない。この恐ろしい感情を持つことの危険性を、伝えようとしていたのかもしれない。
「レッセンドッグ。不倶戴天という言葉は?」
「ちゃちな言葉だ」
思わず噛み付くと、マスターはかぶりを振る。
「感情とは恐ろしいものだ。人が人たる所以は理性だというのに、それすら凌駕してしまうのだから」
手元に視線を落とすマスターの首元に、小さな光が揺れるのが見えた。
「マスター、あなたも傭兵なのか」
マスターは怪訝な顔をしてこちらを見たが、私の視線に気がつき、「ああ」とグラスの破片を慎重に置く。襟元に隠れていたタグを取り出して手のひらに乗せると、懐かしむように目を細めた。
「妻のものだよ。はぐれ魔人討伐で死んだ」
シルバータグ。傭兵の遊び心、などと呼ばれていたこともあった。ギルドから支給されるのは、あくまで身分証であるカードだけだが、10年ほど前、ものぐさな傭兵たちが、もっと手軽なものを、とギルドに無断で作ったものだ。USBメモリほどの大きさで、薄いタグに自分の名前と所属番号を刻み、ネックレスのように鎖をつけて首から下げる。所詮は一種のファッションでしかなく、身分証としても使えはしなかったが、カードよりはマシ、という理由で、傭兵の間で流行した。今では、当時ほど見かけなくなったが、それでも持っている人間は散見する。
「すまない」
「気にしなくて良い。昔の話だ」
シルバータグには、縁起を担ぐ意味合いもあった。自分のタグを大切な人に託し、必ず帰ってくると誓う。マスターの奥さんも、そうして戦場に向かったのだろう。
「妻は、あまり喋らない方でね。縁起担ぎなんてのも、信じない方だった。だが、その戦場だけは、不安もあったのだろう。タグを私に託したんだ。私も持っていたが、彼女も持っていたなんて知らなくてね。驚いたが、交換しあったんだ」
「そうか・・・あなたも、魔人を憎んでいるのか?」
手のひらのタグを優しく包み込むように握ってから、また襟元に隠すようにタグを戻したマスターの目には、諦観しか浮かんでいなかった。
「恥ずかしい話だが、あの子のように火の玉のような時もあったさ。だが、過去の話だ」
誰にともなく、まるで自分自身に確認しているようにつぶやくと、マスターはそれ以上続けることはなく、再び小さな破片を拾い始めた。