第3話 ヨダレまみれの犬とニューヨークの亡霊
ヨダレまみれの犬。私がそう呼ばれ始めたのは、3年ほど前だ。
当時、私は冒険家として表の世界で功績をあげていた。魔物の巣窟への潜入、魔獣の生態調査、はぐれ魔人の偵察、謎の魔法の使用痕の調査など、命を顧みない仕事が多く、傭兵と同じようなことをやっていたが、その危険度はA級の傭兵ですら避けるようなものばかりだった。それゆえに、表面をなぞったような功績が世間に知れ渡り、名は広まっていた。
ただ、傭兵稼業の真似事を無断で行っていたため、ギルドからは目をつけられていたし、傭兵からは白い目で見られることも多かった。裏の世界で話題に上がることも多かったらしく、シルヴィア・レッセンドッグという名は通っていたそうだ。その頃についた通り名は「水煙のレッセンドッグ」だった。水系の魔法を好み、特に、水蒸気を発生させて視界を奪い、それに紛れて戦う戦法からだろうということは、容易に想像がつく。今でも、表向きはこの通り名で知られている。
しかし、3年ほど前、とある傭兵がそれをもじったとして「ヨダレまみれの犬」と呼び始めた。未だに、何をどうもじったのかはわからないが、それは広まってしまった。思考が下品な傭兵は、意味がわからないながらも、揶揄の意味も込めて面白半分で広めたのだろう。
「そういえば、あの噂は本当なのか?」
大木のそばにかがり火を焚く少年は、興味もなさそうにこちらに視線を移す。
ラコスといた建築物の残骸から離れ、崩れたアスファルトから力強く突き出している大きな木の根元に運ばれた。小脇に抱えられて、だ。本来、身体強化の魔法など、50kgの物体を持つことが限界の人間が、60kgの物体を持つことができるようになる程度のものだ。せいぜい20kgが限界であろう華奢な少年が、成人女性を軽々と運んで移動させるなど、できるはずもない。
「どの噂のことかはわからないが、自分で確かめることをお勧めするよ」
両手足を縛られ、うつ伏せに地面に転がされているため、簡易の組み立て椅子に座る少年を睨むのにも上目遣いになってしまう。呼吸をするたびに粉雪が舞うのが鬱陶しい。
「あんたが言うと重みがあるな。だが、火のないところに煙は立たぬ、とも言うからさ」
少年は立ち上る煙を見上げる。煙は大木の枝に吸われ、夜空まで立ち上ることはない。
わざわざ、あの野営地からここまで移動した理由はなんだ。あそこは、野営地としてはほぼ理想的と言える。それを、わざわざ、見晴らしのいい野外にする意味がわからない。まるで、見つけてくれ、とでも言わんばかりだ。
「どうでもいいが、その噂、どういったものだ」
「あんたが色情魔だってやつだ」
思わず舌打ちをしてしまった。もっとも下卑た噂の一つだ。
「実際、どうなんだ?」
少年は、くつくつと笑う。
「その目が節穴でないことを祈るさ」
性欲をもてあましたことなど若い時分にもない。とっかえひっかえなど、以ての外だ。そんなに安い人生は送っていない。
「あんた、綺麗なんだから、傭兵なんてやめて、実家に帰って花嫁修行でもしたらどうだ? まだ適齢期だろ?」
「黙れ」
鋭い声を出すと、少年は、大袈裟に驚く。
思った通り、私の素性を知っているらしい。調べればわかることなので驚きはしないが、私だと知っていて殺さなかった、と考えると、事情が変わってくる。
「怖い、怖い。ニューヨークの魔獣より怖いぜ。今にも噛みつかれそうだ」
へらへらと笑いながら、少年は篝火になんらかの魔法を使い、その火を大きくする。
ニューヨークは、200年前に滅びたアメリカ大陸の都市だ。正確には、滅びたとされている。200年前を境に、アメリカ大陸には、人の立ち入りがなくなり、それからの実情は何一つとして知られていない。その原因は、魔物の急激な増加だという。残された資料によると、トウキョウなど目ではない程に増加し、それに伴って魔獣の行動も活発化、人間の生活圏とすることは不可能になり、人間は放逐された。その後、幾度となく派遣された調査団は一人残らず行方不明となり、ブラックボックスと化していた。
「本当にニューヨーク支部所属なのか? そもそも、ニューヨーク支部はギルド支部として機能しているのか?」
ニューヨーク支部は、傭兵の間では都市伝説になっており、もはや誰も興味を示すことすらしない。興味を示したところで、200年間、誰も立ち入っていないのだから、新たな情報が入ってくることもない。
「さすがのあんたも、アメリカ大陸には行ってないみたいだな」
「そこまで命知らずではない」
「そうだな。その通りだ」
彼の話は全て疑わしい。13歳であること。ニューヨーク支部の傭兵であること。人間であることすら。ラコスをためらいなく屠り、今もなお、私を拘束するこの少年が、魔人である、とすれば疑念は晴れる。しかし、もしかしたら、と思わずにはいられない。ラコスではないが、英雄の再来を望んでいないわけではない。好奇心が頭を擡げてしまう。
「聞きたいか? この、ニューヨークの亡霊の与太話を」
見透かされたように問われ、バツが悪くなる。
未開の地の情報は喉から手が出るほど欲しい。それも、アメリカ大陸のものは特に。仮にも冒険家を名乗っているのだから、真偽は自分で判断するにせよ、手元に置いておいて、なんの不利益もない。
「聞いてやらないでもない」
少年は、「ふうん」と意地の悪い表情を作った。
「興味がないならいいさ。俺も疲れてるんでな」
火を消そうと少年が体をかがめたところで、待ったをかける。
「聞かせろ」
「恐ろしい速さの手のひら返しだな」
少年は短く笑う。
「うるさい」
「何から聞きたい?」
炎に照らされた顔は、幼い。しかし、浮かべる表情は13歳のものとは思えなかった。少なくとも、安全な地で、安穏とした生活を送っている、私が知る13歳とは違った。
「人間の生存者はいるのか?」
「いる」
少年が薪がわりの枝をくべると、ぱちっと音が跳ねた。どうして、先ほど使った魔法を使わなかったのだろう。
「その人たちは、どうやって生きている?」
「食料的な意味か?」
「それもあるが、安全面の意味でもだ。魔物が徘徊していると聞くが」
「徘徊、ねえ」
少年は嘲るような、薄い笑みを浮かべる。
「違うのか?」
「いや、まるで俺たち人間が支配していると言わんばかりの言い草だからさ」
ちらちらと雪が舞い始めた。木の枝をすり抜けた、小さな白いわたぼこりが、頰に舞い降りて、音もなく溶けていく。
「あそこは俺たち人間の方が部外者なんだよ。あそこは、魔獣が生きるための場所なのさ」
思わず、唾を飲んだ。
魔物というのは、300年前に魔人達と共に現れた、魔力を持った動物のことを指す。魔力を持っているとはいえ、人間と比較してもその量は少なく、基本的には強く危険視はされていない。ただし、魔力を持たない野生動物と見分けがつきにくいことがあり、思わぬ事故に繋がることもある。また、野性動物よりも好戦的な個体が多く、そういった面では、野性動物よりも注意が必要といえる。
一方、魔人というのは、姿形が人間に酷似した魔物のことだ。魔物と大きく異なる点が、知能とその魔力量だ。人間並みの知性、感情を持ち、魔力に関して言うと、魔物は愚か、人間すらものとしないほど多いことが知られている。300年前、この世界を我が物にせんと暴れたのが、この魔人たちになる。
そして、魔獣というのは魔物の上位の存在と説明することができる。知能は人間ほど発達しているわけではないが、魔物よりは狡猾らしい。魔力量は極めて多く、魔人にすら匹敵すると言われている。そのため、魔物が魔人を殺すことはごく稀だが、魔獣は平気で魔人をも食い物にするらしい。知性がない分、魔人よりも厄介かもしれない。魔物に比べると絶対数が少なく、遭遇すること自体が稀ではあるが、危険な存在には違いない。
「常に数種類の魔獣が餌を求めて目を光らせ、人間はその間を縫って闇に生きるのさ。魔人ですら裸足で逃げるような場所なんだぜ?」
「彼らは、どうやって生きてきたんだ? まさか、1人1人が英雄並みの強さを持ち合わせているとでも言うんじゃないだろうな」
「一般人だよ。魔力も、戦闘能力も、一般人に毛が生えた程度の」
「だとしたら、なおさら、どうやって?」
「隠れてに決まってるだろ? 時には人柱を出し、少しずつ数を減らしながら、来るはずのない救助を待ちながら、な」
「放棄されたことすら、知らないのか?」
「どうやって知る? 知る手段がない」
「だが、生きる手段が、ノウハウがあるのだろう?」
「ひたすら、地下で怯えながら暮らすことをノウハウと言うのなら、そうなんだろうな。幸い、地中に生息する魔獣とは遭遇していないんだろうさ」
絶句しながら、なんとか彼らの希望を探すべく、質問を重ねたが、どれも尽く切り捨てられていく。捨てられた地で、未だ生きるためだけに戦っている彼らの希望は、あまりに小さいものだった。
「俺は、あそこを離れてから調査団の存在を知ったから断定はできないが、調査団のことも知らないみたいだったな」
「お前は、どれくらいの人間と暮らしていたんだ?」
「13人」
たったの、13人。仮にもニューヨーク支部の傭兵が、たったの13人しか遭遇していない。
「150年前に集落を作った時は1万人ぐらいいたらしいが、逃げ回っているうちに、何度も分派して散り散りになってるそうだ。だから、他にもいないことはないだろうが、まあ、それでも多くて3桁ってところだろうな」
アメリカ大陸へは、いずれ行かなければならないと感じてはいた。ブラックボックスと化したそこに、何かが隠されているような気がしてならなかった。しかし、冒険家を名乗っているとはいえ、命は惜しい。大国ラナスが精鋭を揃えて送り込んだにもかかわらず、一人も帰ってこなかった地に、のこのこと一人で足を踏み入れるのは、無謀が過ぎる。そんな風に言い訳ばかりが先行して、二の足を踏んでいた。
しかし、もはやそうも言っていられなくなった。
魔人との戦争は、始まってしまったが最後、十中八九、人間が負けるだろう。長引くことすらなく、あっさりと。人間が生きていくためには、英雄の再来を願うか、魔人に匹敵する何かをぶつけるしかない。魔獣に頼るしかないのだ。魔人も、魔獣にはうかつに手を出せない。もしも、魔獣を手なずけることができたなら、人間が生き延びる可能性になる。
しかし、彼の話を聞くほど、その可能性は遠のいている。どう考えても、懐く懐かないの範疇を超えているし、戦争の終わりまでにどうにかできるような生物ではない。
「俺が言うのもなんだが、俺の話を信じていいのか?」
「別に、お前を信じたわけじゃない。ただ、たとえ嘘でなくても、同程度を想定するべきだった。わかっていたはずだったんだが、自分の甘さが嫌になる」
英雄の再来を都合よく望むのは愚かだ。彼女ほどの奇跡が、そうそう現れるはずがない。この少年も、計り知れない実力を持っているのは確かだが、英雄の再来と呼べるかは疑問だ。となると、英雄の弟子、ルナ・ボーゲンバーグしかいない。魔法によって延命しているとされる彼女は、今でも突拍子もないニュースを偶に流している。味方についてくれるのならば心強いことこの上ないが、彼女が今回の戦争に関わっているという話は聞かない。半年前の事件以来、ぱたりと風の噂すら止まった。手遅れになる前に見つけ出したいところだ。もう一人の弟子、レミリア・ミールストームに関しては、100年前に亡くなったとされている。自分で見聞きしたものしか信じないことが信条ではあるが、事実、それ以降に彼女が表舞台に立ったことはなく、噂のレベルでも生存を確認されていない。残るはギルドのS級ぐらいのものだが、魔人との実力差は未だ歴然だ。
「そういえば、ニューヨーク支部はどうなっているんだ。お前の他にはいるのか?」
「まさか。いるわけないだろ」
「じゃあ、あの身分証は?」
「人がいないだけで、身分証を作成する機械もないわけじゃない。自分で作ったさ」
嘘だ。
身分証が導入されたのは、ギルドが発足したと同時、つまり、300年前だが、その価値を見直され始めたのがおよそ60年前だ。身分証のデザインは定期的に一新されていて、200年前に立ち入りがなくなったギルドに、最新のデザインの身分証を作成できる機械があるわけがない。
私が嘘を看破していることに気づいている様子だが、少年に動揺は見えない。わざと容易に見破れる嘘をついたのか? なんのために?
「さあ、あんたの質問には答えた。そろそろ俺の質問にも答えてもらおうか」
途端に、少年の表情が厳しくなる。まるで憎むべきがその炎の中にいるかのように、じっと炎を睨みつけた。
「大陸の東側、魔人たちの国についてだ」