第2話 小さな影
見た所、15歳というところだろうか。
汚れでくすんだブロンドの髪は縮れながら長く伸び、その隙間から見えるエメラルドグリーンの瞳がキラリと光る。ひざ下まで伸びる黒いコートは泥で汚れ、首に巻いているグレーのマフラーも、毛玉がひどい上に汚れだらけだ。まるで戦場帰りだ。
彼の背にあるドアに目をやる。ラコスが貼り付けたシートに変わったところはない。それどころか、ドアが開いた形跡すらない。この部屋には、窓はあるが、必要最低限しか開けておらず、人が侵入できるほどの余裕はない。もし、窓から侵入してきたとしても、2人とも気がつかないとは考えにくい。となると、侵入経路は一つしかないドアしかないが、窓と同じく、侵入に気がつかないわけがない。どんな手段を使ったとしても、その痕跡は残るのだ。そんな常識を吹き飛ばしてしまう常識破りの方法があるとすれば、「瞬間移動」しかないはずだが。
「こんなところで何をしているんだい?」
ラコスが優しくあやすように問う。見た目通りの年齢と仮定して話しかけているが、そんなはずもない、と彼も理解している。緊張を保ったまま、少しずつ距離をとっていた。
「何って。あんたたちと一緒だよ」
少年は顎をくいっと上げる。
「一緒?」
「野営さ」
ここは廃墟になったビルの最上階の一つ下のフロアだ。フロアに部屋は6つあり、その中でも私たちが選んだ部屋は、階段から最も離れている場所だった。おそらく倉庫だったのだろう、鉄製の棚と、埃と湿気でボロボロになった書物のようなものが転がっていた。屋内の野営ではセオリーである上、外の魔物たちへの警戒を考えると、彼がこの場所を目指して来たことに対する疑問はない。ただ、彼がここまで傷一つつかずに来られたのは、不気味だった。まさか、私たちが仕掛けた数々の仕掛けが尽く動作不良で終わったはずがない。
「ご両親は?」
私が口を開くと、不思議そうにこちらに目を向ける。
「死んだよ。10年も前に」
「すまない、悪いことを聞いた」
「いや、9年だったかな。まあ、別にいいよ」
表情に揺れはなく、平然としている。
「君も傭兵かな? 僕は、ヨコハ支部のBランク、ラコスという者だ」
「ああ、先輩でしたか」
おどけた様子で右手を心臓に添え、少し体を前に傾ける。その所作にさらに疑念を強め、握る剣の柄に力を込めた。少年がした挨拶は、ラナスの貴族が社交場でするものだ。心臓に手を重ねることで、親愛、または心からの敬意を表す。明らかな悪意があった少年のそれは、私の身分に心当たりでもあるが故なのか。
「所属番号と所属支部は?」
少年は、途端に面倒臭そうな表情になって、たかるハエをうざったがるように手を振り、答えようとしない。
ギルドに所属する「正規」の傭兵と呼ばれる人間は、必ず所属番号と所属支部を覚えさせられる。
当然だが、ギルドの身分証を紛失した際に、身分を証明するためだ。以前は、傭兵の地位も低く、身分証など効力があってないようなもので、その価値を認めていなかった傭兵は、頻繁に身分証を紛失した。そのため、ギルドが、管理で大混乱を招いたことがあり、2つを覚えることを義務付けたのである。
無論、唯一無二の所属番号は、ギルド本部が厳重に保管し、同じ番号が発行されることは二度とない。各地に点在するギルド支部の受付で所属番号と所属支部を伝えると、顔写真、生年月日、名前など、詳細な個人情報が本部で照合ができるようになっている。
「なるほど。正規ではない、ということでいいかな?」
「うるせえな」
少年は懐をまさぐり、探し当てたカードを床に投げ捨てた。ラコスは警戒しながらそれに近づき、慎重に拾い上げる。アイコンタクトで警戒を維持するよう私に伝え、カードを精査し始めた。すると、すぐに頓狂な声を上げた。
「ニューヨーク支部だって!」
「なんだと?」
つい、少年から視線を外し、ラコスを見てしまう。慌てて少年に視線を戻すが、当の本人は突っ立ったままだ。
「レッセンドッグさん、念のため、確認をお願いできますか?」
少年から目を放さず、右手をラコスに差し出す。手のひらに置かれたカードをゆっくりと視界の中に持ってくる。
名前はロイス・マルク。男性、まだ13歳だ。すでにDランクで、確かに、所属支部はニューヨークとなっている。
ギルドに登録できるのは、原則として16歳である。普段なら、はっきりと13歳と明記されているカードを、眉唾物と一蹴していただろう。しかし、それができない雰囲気が、この少年にはあった。
つい先日、非正規の傭兵の間で出回っている偽造されたものを目にする機会があり、違いがわからなかったことも、疑念を強めていた。身分証には偽造防止の工夫が幾つも凝らしてあるにもかかわらず、だ。この身分証も、なんとも言えない、というのが本音だった。
「この場では判断しかねますね」
「正直、私もです。本物に見えますが」
最も容易に確認できる偽造防止技術としては、カードを一定の角度に傾けると、光沢が見える、というものだが、このカードにも光沢は確かに入っている。
「ただ、年齢が…」
「ええ、あり得ない記載ですね。こんなイレギュラーを耳にしたこともありません」
小声で言葉を交わすも、どちらも断言できず、考えを巡らす時間が続いた。それに焦れたように、少年は苛立ちを募らせた声を張る。
「身分証明に使えるって言うから作ったってのに、使えないのかよ。返してくれ」
「あ、ああ。すまない」
ラコスは、少し逡巡し、カードを少年に投げて返す。少年は難なく受け止め、また懐にしまう。
「さて、そっちばかり質問するのはフェアじゃない」
「そうだな、すまない。答えられる限りなら答えよう」
少年は表情を消し、視線を素早く走らせる。
「あんたたちは、魔人か?」
小さく空気が震えた。それは、多くの場合、大火力の魔法を使う前触れで、この業界に身を置いている以上、反応しないわけにはいかなかった。
ラコスはすぐに右手を少年に向けた。不意打ちを受けたとは言え、無防備で受け止めて良いわけがない。おそらくは、防護壁でも張ろうとしたのだろう。本来ならば、それが最適解だ。
魔法を使用する戦闘では、先手を取った方が有利になる。それが不意打ちともなるとなおさらだ。うまくいけば、一撃で致命傷を与えることも可能で、致命傷に至らなくとも、タダで済むことは少ない。どちらにせよ、大きなアドバンテージを得られることに変わりはなく、後手は迅速な対応を迫られる。
そこまでわかっていながら、私はすぐに行動を起こさなかった。嫌な予感といえば聞こえはいいが、とどのつまり、臆した。ラコスが先に動いたことをいいことに、得体の知れない少年の出方を待ってしまった。そして、その隙に、視界の端でラコスは消し飛んだ。
どんな魔法を使ったのか。そもそも、私の知っている魔法だったのか。それすらわからずに、ラコスを消しとばした魔法はその余韻を残しながら消えていった。
轟音と共に瓦礫が崩れる音を聞きながら、私は少年を見ていた。ひどく緩慢な動きで上げたように見えた右手を、いつの間にか私の方に向けている。その右手には、魔法の残滓が淡く残っていた。
「どうする?」
遠くで犬の鳴き声のような音が聞こえる。轟音に反応して、この建物を取り囲むのだろう。そんな現実逃避をしながら、じっと少年の右手を見ていた。
何度目かの鳴き声のような音を聞いてから、唾を飲み込み、剣の柄を握っていた右手からゆっくりと力を抜いた。剣がこぼれ落ち、貧弱な音を立てる。そして、そのまま両手を上げた。
「賢明だな」
右手を下ろし、満足そうに少年は頷く。
「改めて聞こう。あんたは、魔人か?」
あからさまに余裕を見せ始めた少年は、ポケットに手を突っ込んだ。
「君のほうがよっぽど魔人に見えるが?」
「残念ながら違う。れっきとした人間だよ」
「奇遇だな。私もだよ」
少年は鼻を鳴らすと、小さく何かつぶやいた。それは一瞬の隙であり、私にとっては千載一遇のチャンスだった。上げていた両手を少年に向け、大量の水蒸気を掌から大量に発生させる。水蒸気は一瞬で蔓延し、少年の姿は視認できないほどになった。その分厚い水蒸気の壁の向こう側から、なんらかの攻撃魔法が飛んできたのは一瞬だった。水蒸気を出したと同時に、横っ飛びで魔法を避け、無理な体勢のまま、少年が開けた大穴から外界へと飛び出す。空中散歩と洒落込みたいところではあったが、生憎、それほど高レベルの魔法は使えない。体はすぐに落下を始め、終わろうとしていた。全力で地面に向かって風の魔法を唱えると、重力と気流の間に挟まれた体が悲鳴をあげる。結局、体勢が崩れて胸から落ちたが、どうにか死は免れた。肺が潰れたような感覚もしたが、この際、命あっての物種だ。すぐに立ち上がり、走り始める。
次元が違いすぎる。13歳とは思えない言動、大火力の魔法の発動の速さ。
おそらく、はぐれ魔人だ。
魔人の中には自身の容姿を変化させるものや、自身の容姿を他人に見せることのできる魔法を使う魔人もいるという。
私たちに魔人かどうか尋ねた、あの奇妙な質問も、私たちの出方を見たのだろう。
「くそったれが」
思わず悪態を吐く。
様子を見るべきじゃなかった。念入りに設置した仕掛けをかいくぐってきた時点で、私とラコスの想像の範疇を越えていた時点で、魔人と断定するべきだった。そして、逃げの一手をとるしか、私たちに生き残る方法はなかったのだ。頭ではわかっていたのに、外見の幼さから、心のどこかで高をくくった。情けなくて、声の限りで叫びたい気分だが、ぐっとこらえて、逃げ切る算段を考え続けていた。
幸いにも、月にも薄い雲がかかりはじめ、視界は良くない。奴がフロウのように鋭敏な感覚器官を持っていたとしても、少しは妨げになるはず。もう少し離れたところで、移動をやめて息を潜めた方がいいかもしれない。なんなら、先ほどのフロウの群れと遭遇して戦闘にでも発展してくれたら御の字だ。
そんな楽観的な考えをもっていると、突然、背中に巨大な鉄球でもぶつけられたかのような衝撃に襲われ、体が吹き飛ばされる。瓦礫に引っ掻かれながら地面を滑り、数メートル飛ばされて、ようやく体が止まった。
痛みに悶え、酸素を求めてあえぐ。地面でもんどり打つ私のそばに現れたのは、小さな影だった。
「噂通り、修羅場はくぐってそうだな」
私が使用したのは、最も危険だが、最も素早い、高層建築物からの脱出方法だ。有体に言ってしまえば、命さえ残ればいい、という一か八か、だ。追いつくためには、同じ方法をとるか、未だ使用法が解明されていない瞬間移動と呼ばれる転移魔法、魔力が膨大でないと使うことを許されない浮遊魔法を使うしかないはずだ。魔人ですら使用できる者が限られるとされているというのに、この少年はそれを使用できるというのか。
「あんた、ヨダレまみれの犬だろう?」
少年は、得意気にそう言った。