第一話 黒い扉
女の子にモテたかった。
皆が倒せないような強大な敵を難なく倒して、喝采を浴びたかった。
それだけだった。
ボクはただ、それだけだったんだ。
「求めに応じて頂きありがとうございます、勇者さま」
「……ここは?」
目の前には美少女と言って差し支えない小学生ほどの女の子が、恭しくボクに頭を下げている。薄茶色のケープ、足元まで隠れたロングスカート、右手で胸に抱くようにしている黒い本の表面にはボクが見たことのない象形文字のようなものが描かれている。
「祖父の館の一室でございます、勇者さま」
「祖父……」
彼女のおじいちゃんと言うことだろうか。館という単語から考えて、この子はお嬢様なのかもしれない。
(でも、それにしては……)
周りを見回してみると、調度品がほんとどない。こういう場合は銀のお皿とか彫像や絵画、それに暖炉とかがあるものじゃないだろうか。それなのに部屋にあるのはベッドと四角い縦長の窓だけだ。壁すら大部分が木で出来ていて、館と言うよりは普通の宿屋の一室に見える。透明度の高いガラスは作るのが難しいと聞いたことがあるけど、それにしたって館という気はしない。
だけど正直なところ、そんな細かいことはどうでも良かった。
「あのさ、ボク、勇者として呼ばれたんだよね?」
「はい、その通りです。勇者さま。どうか私たちキルカの民をお救いください」
胸がドクンと高鳴った。やった、やっぱりあのゲートは異世界への入り口だったんだ。貰ったチート能力でモンスターを倒して女の子とHなコトをして男の人たちからは凄い凄いと称えられる、そんな存在の入り口にボクは立ったんだ。
チート能力はボクの力じゃない、ボクの努力で手に入れたものじゃない。でも、そんなことはどうでも良いんだ。誰が何といおうとボクは褒め称えられたいんだ。気持ち良い思いをしたいんだ。努力もせず、苦労もせず、時々人に説教なんかしちゃったりして自尊心を満たしたいんだ。そんなボクを否定したければすれば良いさ。でもボクはやるって決めたんだ。
「す、救うことは救うよ?」
自分を高く売るために、腕を組んで女の子を見下すような態度を取る。現実ではこんなことをしたことはない。だけど、主導権を握ることが大切だってことは知ってるんだ。
「でもその、見返りはあるの? 具体的にはお金とか住まいとか……そ、その、女の子とか」
「はい、私にできることならどのようなことでも」
なんか曖昧な表現だ。今のボクはそんな言葉じゃ満足できない。
「具体的には、どんなことができるの?」
「私の祖父はこの村の領主です。ですからその土地、土地から生まれる収穫物を。住居はこの館を。大人の女性の方もご用意します」
「そ、そうなんだ」
村と言うのがどれくらいの規模かは分からないけど、普通の村人よりは良い生活は保障されているみたいだ。それに――女も。
胴体から血がなくなるんじゃないかと思うくらい、それが上と下、二つの部分に流れていくのを感じる。
「ちなみにキミも、その、していいの?」
興奮しすぎているせいで直接的な表現になってしまった。もしかしたら今すぐにできるチャンスかもしれないのに。
ボクの胸辺りまでしか身長のない女の子はしばらくボクの目を見ていたが、「勇者さまがお望みでしたらよろこんで」と少し恥ずかしそうにはにかみながら下を向いた。
女の子の言葉が炎となり、ボクの身体に多量の熱を加えた。耳の下がとても熱い。
「じゃ、じゃあ、触って良い?」
そう尋ねながらも女の子からの返事がある前に、その手を握った。
(柔らかい……)
プニプニした感触、そして一人では到底得られない――只の熱とは違う意味を持った温かさ。
「勇者さま」
女の子は微笑みながらボクの手に、自分の空いたほうの手をそっと置いた。
「今はまだお昼です。そういう行為は夜が更けてからにいたしましょう。ご安心ください、私は逃げたりしませんから」
「う、うん」
向こうの世界なら小学生、違ったとしても中学一年生くらいの年齢の筈の女の子のハッキリしたその言葉その態度に、ボクは思わず握っていた手を離した。
(異世界の子は進んでるのかな……)
躊躇う様子なく振舞う女の子に少し違和感を覚えながら、ボクはがっついていた気恥ずかしさから違う話題を出すことにした。
「救って欲しいって言ってたけど、ボクは何をすればいいの?」
内政チートを希望されたらお手上げだ。ボクは農業の経験なんてイチゴ狩りとサツマイモを掘ったことくらいしかない。商業はいわずもがなだ。ネットの知識で詐欺のやり方はいくつか知っているけど、それで国を救うという図は思い浮かばない。
女の子はニコニコ笑みを浮かべながら、ボクに短くこう言った。
「敵を、狩ってください」
シンプルな答えだ。王道でもある。剣で敵を切り裂き、魔法を唱えて敵を殲滅する。別にボクはそんなことをするのに憧れているわけではないけど、周りの人間から褒め称えられたい気持ちは強い。勿論女の子たちとのそういう行為込みでだ。
「ただし、期限を設けさせていただきます」
女の子は笑みを崩さない。
「期限?」
「はい。今日を含めて三十四の日、その期間内にこの国のとある場所でとある魔獣を倒していただきたいのです」
「それはどうして?」
「色々事情はあるのですが、その場所に向かうのにも時間がかかりますので、具体的なことにつきましては道中に説明させていただければと」
難しい単語を淀みなく使う女の子。年齢相応とは思えないぐらいだけど、領主の孫ということだから良い教育を受けているんだろうと一人納得する。
「分かったよ。それじゃ……えっと」
「メスカトリエ・ル・ド・エヴラールと申します。メリエとお呼びください、勇者さま」
長い銀色の髪を揺らすように頭を下げる女の子。
「うん、メリエ。ボクはさ……いや、タツキ。うん、タツキって呼んでくれ」
「畏まりました、勇者タツキさま」
まさかこれから全部頭に勇者って付ける気じゃないだろうなこの子。
「それでは館を案内させていただきますね」
最後に一際明るい表情を見せたメリエは、ボクを誘導するように部屋の扉を開けた。
メリエに続くように部屋を出ると、やはり豪華な造りとはいえない廊下が目に入った。右と左に通路は続いていて、それぞれに木で出来た扉が見える。調度品の類は質素な造りの小さな机しかなく、その上には花が生けられていない白い花瓶が載せられている。
メリエは廊下の左手へと歩を進めた。その少し先には一際大きな扉がある。何かの金属で出来ているのか、色が黒い。
「……こんなこといったら何だけどさ」
「殺風景、ですか?」
メリエは振り返らず、ボクの前を歩いたまま言葉を返してきた。銀色の髪の後頭部が足を動かすごとに僅かに上下している。
「二年前にこの国に疫病が流行しました」
唐突にメリエはそんなことを言った。
「多くの方が亡くなりました。私の両親もです」
ボクを気遣って悲しみの感情を入れないようにしているのか、メリエは淡々と述べていく。
「そして一年前、別の疫病が起こりました。これは人には罹らなかったのですが、作物には悪影響を与えました。食べる人も減っていましたが、働き手の多くが病気で亡くなっていたこともあり、飢饉が発生してしまいました」
――何か、変な匂いがする。
「この辺りでは見られませんでしたが、遠く離れた地では自分の子供を隣の家の子供と親同士で交換して鍋で煮て食べた」
そういう話もあったらしいです、とメリエは言った。
「そしてこの年、今度は魔獣が出現しました。二年前に疫病で人を減らし、一年前に更に人、そして食料を減らしたこの国は、これに立ち向かう力がほとんど残っていません――いませんでした」
メリエは黒い扉の手前で立ち止まった。さきほどから感じている匂いは、まずます強くなっている。
メリエが振り返った。
「でも勇者さまがきてくれたから、きてくださったから、もう大丈夫です! 魔獣さえいなくなれば、この国はきっと建て直せます! それだけの力がこの国の人間にはあるって、私、信じてますから!」
その顔は、笑顔だった。抑揚のなかった言葉も、明るい感情で溢れている。
「う、うん、できるだけ頑張るよ」
だけど、ボクはその笑顔を見てなぜか後ずさってしまった。理由は分からないけれど。
(大丈夫、ボクは勇者なんだ。この世界の人間が死ぬような怪我でも、そうそうは死にはしない筈だ。チート能力という安全圏内で倒せる敵を倒して、ちやほやされるのはそう難しいことじゃない筈だ)
それがお約束ってヤツだ。でなければわざわざ異世界から召還なんてするわけがない。能力を上手く使いこなせなければマズいかもしれないけど、弱い敵相手に練習して学べば大丈夫。どうしても無理そうなら、もう魔獣なんて無視してメリエに元の世界へ帰してもらうか、それが不可能なら別の国でチート能力を使って中流以上の生活をして過ごせば良い。メリエには悪いけど、ボクはこの国に愛着があるわけではないんだから。
気付けば、メリエは扉の横、壁際に位置を移していた。
「この扉の向こうは大広間になっております。村の皆が待っていますのでお先にどうぞ」
指を揃えた右手を扉の方に向けるメリエ。
「歓迎会ってやつか」
もしかしたらこの匂いは用意した料理のものかもしれない。
ボクは一度目を瞑り、天井を仰ぐように顔を上に向けた。
(金、女、栄誉……全部ここから始まるんだ)
現実のボクはお世辞にもリア充とは言えなかった。高身長でもないし学力の高い高校に通っていたわけでもない、小太りなせいで顔だって微妙だ。でもやり直せる。チート能力というロケットエンジンを積んでやり直せるんだ。今までコッチの世界でコツコツ頑張ってきた人間を、大した努力もせず一気に追い抜かすことができる。それが許される身分になったんだ。
笑いたければ笑えばいい。醜いと蔑めばいい。
確かにボクだってボクのような考えで召還された他人を見れば嫌悪するだろう、その座を譲れと嫉妬するだろう。だけど、自分がその席に座れるなら話は別だ。思う存分その利を貪らせてもらう。
メリエの端正な顔、首筋、胸、お腹からその下までを怪しまれない程度にサッと眺めてから、ボクは黒い扉を開いた。
初めに目に入ったのは、割れた窓硝子によって喉を突き破られた男性の姿だった。
「……え?」
首から上を窓枠の外に乗り出すようにしているその男性の首を、赤黒い不定形の模様がついた硝子が貫通している。喉の中から溢れた血は床に赤い水溜りを作っており、その外側の部分は既にドス黒く変色している。
壁に向かってしゃがみこむようにしている女性の姿があった。顔は見えないが、その胸元から“短い手足”がダランと垂れている。二人がその身体に生を宿していないのは、女性の背から腹を超え、床にまで届いている長剣を見る限り明らかだ。
死体はそれだけじゃない。顔面が焼け焦げて胴体がくっついていなければ顔と分からないような老婆。首を切り落とされる一歩手前で止められ、開いたゴミ箱のような状態にされたままの少年。おそらく生きたまま解体されたのだろう、四肢を切断されて天井の四隅に、“残った部分”を部屋の天井中央から吊り下げられた年端もない少女の顔は恐怖に染まりきっていた。
腹から内臓をぶちまけた死体、頭を斧で割られて中からピンク色の脳みそと黄色い液体を垂れ流している死体。股から脳天までを先端の鋭い棒で串刺しにされ、左右の目が違う方を向いている死体。
廊下にいたときとは比べ物にならないその匂いと目の前の光景に、胃が激しく蠕動し始める。
「お、おえぇっっっっ!」
膝を着き、喉の奥から逆流してきた液体をビチャビチャと床に吐き出す。すっぱい匂いが舌から鼻へと伝わってくるが、それだけじゃない。別の匂いがそれに混じり、猛烈な吐き気を更に加速させていく。
「お゛、お゛ぇぇっっっ!!」
「召還するには、生贄が必要でした」
吐くことを止めない、止めることができないボクを気にする様子もなく、メリエは言葉を続けていく。
「強い勇者を召還するためには、より多くの生贄が必要でした。だから私は殺しました。一年前に結婚した隣の家の夫婦も、小さな頃から共に遊び、育ってきた幼馴染も、村で六日前に生まれた赤ん坊も、皆殺しました」
感情が感じられない平坦な言葉。
目の前のこの凄惨な光景を――この女の子が、この小さな子供が生み出したというのか。
「他の誰にも許してもらえるとは思っていません。私は地獄に堕ちるでしょう。ですが、それは魔獣を倒してからです」
メリエの目がボクに向けられたのが感覚的に分かった。
メリエは「勇者さま」とボクに言葉を掛け、
「もし、私によって殺された村人全員の力を合わせた以上のコトをあなたができなければ、責任を取って私は死にます。ですが、そのときはあなたも一緒です」
目に見えない冷たいナイフが背中に突き立てられていく。それはズブズブとボクの背の肉を掻き分け、内臓へと達しようとしている。
「どこに逃げても絶対に見つけ出します。森の奥深くでも、海の底でも、町の貧民窟でも、絶対に見つけ出します。絶対に絶対に見つけ出して殺します。その後に私も死にましょう」
聞いてない。ボクは、こんなの、聞いてない。
「もう後戻りはできません」
言わないでくれ。言わないでくれ。ボクを――元の世界に帰して。
「さぁいきましょう、勇者さま」
そんなボクの考えを無慈悲に両断するように、鎌を持った死神はボクの肩にその手を置いた。