誘惑の姫
呆然とする吉宗から抜けると、舞姫は人混みを縫って、涙を散らしたまま走り去った。
どうしたら良いかわからないでいたようだが、吉宗も慌ててその後ろ姿を追いかけた。
「ごめんなさいね、吉宗様、怒ってしまいましたか?」
ビルとビルの間の、隠れる際によく使われるような場所。前に進んでも後ろに退いても、人の流れが激しい道なのに、そこだけがめちゃくちゃ暗くて静かな場所。
追われている人がいると、絶対に存在しているような所謂そういう場所に、二人はいる。
想像ができなかった人は、人気のない暗く狭い道程度に思ってくれれば大丈夫だと思う。
「怒っちゃいないけど、どうしたんだ? そんなに俺が嫌か? 死んだ方がましだと思えるほどに、俺のことが嫌いだというのなら、俺は……っ」
さすがに傷ついたのか、俯きがちに吉宗は尋ねる。
が、彼の言葉は途中で遮られることになった。
”ちゅっ”
そんな可愛らしい音を立てて、舞姫が吉宗の唇を吸ったのだ。
「ううん、吉宗様は、何も悪いことなどしていないのです。怒らせてしまうかもしれないと、覚悟はしておりました。けれどまさか、そんな悲しげな表情をさせてしまうとは、思っておりませんでした……。ごめんなさい、吉宗様、ごめんなさい」
唇を離しても距離は遠ざけないままに、舞姫は吉宗の胸に体を預け、そういった。
これまで吉宗と時間を過ごしてきて、殺されはしないだろうと確信を持ち、舞姫は吉宗に演技を仕掛けた。
怒らせてしまっても当然。そうしたら、甘んじて罪を受け入れ、彼のされるがままになってみるのも良いかもしれない。
そんなふうに思っていた舞姫なので、吉宗の態度や表情には、驚くことしかできなかった。
そして自分が吉宗のことを騙すだけでなく、裏切ってしまっていたことに気がつく。
そう思うと、演技なんかじゃなく、涙が止まらなくなった。
だからそれを隠したくてか、サービス心と娼婦のような心からか、吉宗の温もりを求めてしまってか、確かなものは本人にもわからない。
わからないけれど、本能に従って、舞姫は吉宗の腕の中で泣くことしかできなかった。
「どうして私に冷たかったのか、わかってしまったのです。急にそうなったというのは不自然ですから、きっかけを作った人はいるでしょうが、男の私では……ひっく」
「大丈夫だから、もう泣くんじゃない。お前を泣かせる原因を作ったそいつのこと、絶対に見つけて罰を与えてやる。お前を泣かせて良いやつなんかいないんだよ。俺だって例外じゃない、お前のこと、泣かせるやつは許さない。だからもう泣かないで、俺を苦しめないでくれ」
震える舞姫のことを、力強く抱き締めて、対照的に甘い声で吉宗は囁いた。
苦しめないでくれ。そういう彼の声は本当に苦しそうだったから、舞姫はなんとか泣き声を抑えた。
けれどもう少し甘えたいのか、吉宗自身が反応を示していることに気づきながらも、抵抗せずに腕の中で大人しくしていた。
「でもこれで、子を産めないのはお前のせいじゃないって、思ってもらえたよな。お前は子どもを欲しているのだけれど、俺のせいで子を産ませてもらえないのだ、ということになっただろう?」
舞姫の説明を聞いて理解した吉宗は、ドヤ顔で聞いたままのことを繰り返す。
繰り返されることは少し罪の意識を膨らさせたが、黙って舞姫はこくりと頷いた。吉宗に悪気がなさすぎたので、その言葉に凹むのは馬鹿らしいと思えたからだ。
すっかり涙も止まっているが、舞姫はまだ腕の中にいる。それでポジティブがうつったのかもしれない。
「私のことを想って、子を産ませる危険を冒させたくないのだと、そういうことになさってはいかがです? そうしたらまた、私と吉宗様とが一緒に歩いていても、おかしくはならないでしょう」
仲直りにはあまりに早い。人々に見つかったら、怪しまれてしまう。
そう考え城に帰るまでの道は距離を取っていたけれど、部屋に帰ってからのいちゃつき方は半端でなかった。
話の収集までを決めてあるので、民衆からの無茶ぶりが来ても大丈夫。
「養子を求めるきっかけにもなるな」
「私が男だとばれることもありませんし、恨みがなくなるとは思えませんが、今までどおりにはいられるでしょう」
「はったりの性癖を暴露されたが、俺だってお前を想っている、優しい男に戻れるしな」
そこまでいうと、完全に二人はその話を終わりにした。
かなり大事な話だと思うのだけれど、生憎なことに常人の考えを持っていない人にとっては、もっと大事なことが存在してしまっていたからだ。
主に、吉宗の方なんかは気になって仕方がないという様子。
「あ、あの、キス、してくれたよな? それに、抱き締めても、なんの抵抗もしなかった。許可が下りたのだと、考えても良いんだろ?」
暴れん坊将軍とまで呼ばれた彼が、キスごときでひどく動揺しているようだ。
それがおかしかったのか、舞姫はクスッと笑みを漏らす。
「今日だけ、ですよ? 吉宗様のお好きなようになさって下さい」
「そんじゃあ、とびきり痛くて恥ずかしいこと、させてやろうかな」
四肢を放りだし恥じらいで目を逸らす、誘い体勢の舞姫に、不敵な笑みを浮かべた吉宗はいう。
「お前を嘘つきにさせないためには、お前の言葉を真実にするしかないだろ」というのが、吉宗の主張であった。
好きにしろという先の言葉もあるのだし、そういわれてしまうと否定しづらく思い舞姫は困り顔。
「……ええ。お好きなように、私を可愛がって下さいませ」
迷った挙句にそう告げた。
その日、二人は初めて夜を共にする。それは二人にとって、関係もそれぞれのことも覚悟も、全てを変えることになり得るものであった。
どんなふうに変わったかというのは、またこれからのお話で。




