誘拐事件
吉宗が江戸の街を散策している間、舞姫は部屋で書物を読んでいる。
その日も、いつもと同じように、大量の書物に囲まれて、舞姫は一人読書していた。
彼が舞姫となってから、十日が経った。
姫らしく美しいきもので、結われた髪には鈴がついた簪。完璧に女装させられているのであるが、もう慣れてしまったのか、当の本人は違和感すら抱いていない様子である。
ときどき鈴の鳴る音が響くが、それ以外は何の音もしない。
ただ静かな空間の中で、書物を読み耽っていた。
「姫様、いらっしゃいますか?」
扉を叩く音に、驚いて舞姫はそちらを見る。
珍しいことがある。何かあったのだろうか。
「どうかしたの? 入ってらっしゃい」
不思議に思い、吉宗の身に何かがあったのかと心配になりながら、か細い声で舞姫は招き入れる。
か細い声というのも、普通に声をだしてしまえば、男だとばれてしまうからなのであるが。
「……っ! 何をするのです?!」
しかし目の前に刀を突きつけられれば、驚きで声も大きくなるというもの。
掠れていたせいかおかげか、声から男であるとは知られなかっただろう。
そうこうしているうちに、猿轡を噛まされてしまい、思うように声をだすことすら叶わなくなってしまった。
「将軍様も将軍様なら、姫様も姫様だなぁ。知らない人には気をつけないといけませんよ? ははははは」
「愛しの将軍様には、すぐに会わせてやるから、安心しろよ」
一人だと思っていたのに、後ろからも聞こえてきた声に、舞姫は驚きで目を見開く。
振り返ってその姿を確認しようとすれば、透かさず羽交い締めにされてしまい、今度は思うように動くことすらできなくなってしまう。
遂に舞姫は、抵抗も虚しく手足を縄で縛られ、軽々と持ってかれてしまう。
まるで道具を扱うのような雑さで、男たちは舞姫を駕籠に入れ、誘拐していった。
将軍様も将軍様なら、姫様も姫様だ。その言葉から考えると、私を襲う前に、吉宗様を襲っているということだろうか。
警戒心がないって、無防備だって、いつも私は吉宗様にいっているはずなのに。
私だって人のことをいえたものではなかったらしい。
これから吉宗様のところへ連れていかれるようだが、場所を把握しておこうにも外の景色が全く見えない。
手さえ使えれば、逃げだすことはできなくても、外をのぞき見るくらいはできただろうに。
「…………」
吉宗様。その名前を呼ぶこともできなくて、私は苦しさに苛まれた。
心配で、不安で、溢れる涙を止められなかった。
女性の格好をしていても、私は立派な男だというのに。
どこかに到着したらしく、男たちは舞姫を駕籠から降ろす。
涙で霞んだ瞳で、舞姫は吉宗の姿を捉えた。彼も同じように縄で縛られていて、喉元には刀を突きつけられている。
場所はどこか特定できない。
外からの建物が見られない上に、全く特徴のない部屋であったせいだ。
部屋の出入り口付近で舞姫は人質に取られ、部屋の一番奥で吉宗は同じようにされていた。
「愛する人を殺されたくなきゃ、俺らに逆らわないことだな」
脅すように耳元で囁かれ、やっと猿轡を外してもらえる。
息をするのが楽になったらしく、舞姫は息を整えるのに精一杯であった。
吉宗も同じ状況にあるはずだが、彼はずっと余裕を持っている。息の荒い舞姫を見て、興奮できるくらいには、元気と余裕がありあまっていた。
手足が拘束されたままというのも、反対に吉宗には良かったのかもしれない。
「俺はどうなっても構わない。だから舞姫、お前だけでも逃げろっ!」
不自由なく会話ができるくらい、舞姫の息が整ったのを見て吉宗は叫んだ。
「それでは、早く逃げだして、私を解放したら捕まり直して下さい」
吉宗の無事を確認したことにより、きっと舞姫は安心したのだろう。
心配で泣いていたことなんて嘘のように、笑顔でサラッと将軍が相手とは思えないことをいう。
「こ、こいつがどうなっても良いのかっ?!」
舞姫があまりに笑顔で、発言もいつも以上にひどいので、吉宗は舞姫がどれだけ怒っているかを知る。
誘拐犯を無視して、捕まっている吉宗が自分で、どうなっても良いのか?! なんていいだすほどだ。
「将軍様にはご無事でいてもらわなければ困りますが、吉宗様は少しくらい痛い目にあったほうが良いのです。頭と胴体が離れたところで、翌日には戻っていそうなところですからね。試してみてはいかがです?」
「無理に決まっているだろ?! 俺をなんだと思ってやがる! 俺だって人間なんだからな!」
「またまたご冗談を」
その後も、吉宗が喚き散らし、それを舞姫が笑顔で処理し続けた。
「おいっ! 立場わかってんのかよ! その気になれば、今すぐだって、二人まとめて殺せんだからな!」
二人でいつまでもいちゃいちゃ? しているので、もっと恐怖を与えてやろうと思ったのか、舞姫の首筋を刀でなぞり、軽く傷をつけた。
はずだった。
「逆らってないじゃん? それなのに、うちの姫様に怪我させようとするとか、ふざけるのも大概にしてくんない?」
部屋の端と端にいたのに、手足を縄で縛られて喉元に刀を当てられていたのに、吉宗は舞姫に当てられた刀を払っていた。
それも、素手である。
驚きで男が舞姫を離した隙に、吉宗は片腕で舞姫を抱く。
そして縄を解いてやると、誘拐犯たちを全員、目の前に正座させた。
「殺されたくなきゃ、逆らうなっていったじゃん! 逆らってないじゃん、怪我させようとしたじゃん、意味わかんないじゃん」
愛おしそうに舞姫の首筋を指で撫でながら、吉宗はいう。
口調はわがまま小僧のようなものだが、将軍としての威厳に満ちた目で睨んでいるので、悪党たちも正座したまま動けなくなるのであった。
これが奥義、将軍の威厳である。
「私も吉宗様も、あなたたちの命令に逆らっていません。だって命令なんてされていませんもの。そして私も吉宗様も、殺されていません。怪我をさせるのと殺すのとでは違いますし、私は怪我一つしていません。つまり、間違っているのは吉宗様、あなたです」
吉宗の手を払って少し距離を取ると、舞姫はいう。
まるで吉宗に同意しているかのようであるが、なぜだか彼は誘拐犯側の味方についた。
「なるほど。舞姫がそういうんなら、きっとそうなんだな。んじゃあ、俺らもう帰るから」
将軍としての威厳など全くない。
完全に舞姫に惚れてしまっている顔に、彼の言葉で即座に戻されるのであった。
これが舞姫の奥義崩しである。
誘拐犯は結局、目的がなんなのか問われることもなく、逮捕なんてもちろんされなかった。
吉宗と舞姫によって、今日も江戸の平和は守られた。めでたしめでたし?




