お前は俺の嫁だ。
彼は強く優しい。けれど、不器用な男だった。
名は徳川吉宗という。八代目の将軍である。
しかし彼は他の将軍とは異なり、権力を私欲のために使わない。
質素倹約を掲げ、民の意見にも耳を傾ける、良い将軍ではあったのだ。
そんな彼にも欠点はある。
警戒心という概念が、彼の中には存在しないのだ。
「酷い凶作でして、増税はっ……ん……んっ」
意見を言いたい。という、得体も知れぬ民と、二人きりでの対面を認めてしまうのだ。
そして最後まで言わせることもなく、唇を重ねるのであった。それも、毎回のことである。
「いけないのか? 俺のために、より良い国を作るために、協力してほしいのだが。やはり、いけないことなのだろうか……」
唇を離すと、上目遣いにそう問いかける。
それは、有無を言わせぬ愛らしさであった。
「将軍様のため、日々努めたいと思います!」
一夜を過ごすと、だれもそういった。
そうさせる力を、彼は持っていたのだろう。
吉宗は、男らしい体つきをしていた。美しい筋肉を持ち、肌も健康的に焼けている。
吉宗は、整った顔立ちをしているわけではなかった。きれいな二重、長いまつげ、愛らしさを醸し出す目。普段は力強い、将軍としての威厳に満ちている目である。
鼻も高く、美しい形をしている。
小さな口は桃色で、艶やかさと女性らしさを演出する。
福を招く大きな耳に、細くつりあがるはきれいでいて男らしい眉。顎はあまりなく丸顔であった。
各パーツはそれなりに整っているのだが、全体としては整いがない。
それぞれが美しく際立ちすぎてしまうのが原因だろう。
だからこそ、至近距離で見つめられたときには、その美しさにだれもが虜になってしまうのだろう。
「将軍様は、いつもこのように直接……?」
一人の男が吉宗に問いかけた。
相談と申して近付いたのだが、それで本当に将軍と会えてしまった。そのことに驚きと戸惑い、そして不安を感じたのである。
そんな彼の心配そうな顔に、吉宗は笑顔で答えた。
「直接声を聞かなければ、わからないものだってあろう」
いってから笑顔を消すと、急に顔を近くする吉宗。
「ですが、危険ではありっ……んんっ。おやめっくださ……」
いつものように、相手の言葉の途中で唇を重ねる。
それは吉宗にとって、当たり前のようなこと。一種の癖ともいえるようなものであろう。けれど男にとっては、驚くべき行為である。
驚くのみにあらず、咄嗟に拒絶の態度を取る。
「俺のために生きては、くれないのか……?」
突き飛ばされ、尻餅をついたままの状態で吉宗は問いかけた。
こんなこと、初めてだったのだ。
「も、申し訳ございません。しかし、このようなことは良くないと思うのです。やはり危険ですし」
慌てて頭を下げる男に、吉宗は歩み寄る。
そして頭を掴み顔をあげさせると、不敵な笑みを浮かべる。
「俺のために生きろ。なんてこと、俺は絶対にいわない。いつか必ず、お前の意思で! いや、お前の心でいわせてやる。覚悟していろよな」
低く告げるその声に、男は恐怖を抱いた。
あまりの無礼、死罪になることも考えた。
「死ね」
考えたが、吉宗にそういわれると驚く。
「お前、名も身分も全て捨てよ。これからは俺の傍で生きるのだ。だから今までのお前は死ね」
低く淡々とした声で、鋭い眼光で、太く逞しいその腕で。まっすぐに男を見つめ、肩を強く掴んだ。
いきなり見せた吉宗の男らしさに、男は恐怖し戸惑いより好きになる。
けれど彼の抱く好きの気持ちは、将軍に対する忠誠と憧れでしかないことを吉宗は知っていた。
――触れ合えばまた、拒絶される。
そう思うと気に入らなかった。
「つまり、将軍の側近に?」
混乱しながらであったためか、男は口調さえも崩れてしまっていた。
しかし吉宗はそんなこと気にせず、楽しそうに笑った。
「あはは、んなわけあるか。舞姫、俺の嫁になれ」
吉宗の言葉に、彼は悲鳴のように叫びだした。
「いやいや、ないです! 将軍様のご命令にあっても、それは無理にございます! 警告のためとはいえ、騙してしまったことは謝りますから」
無礼を承知で男は拒否を重ねる。
「そこまで俺が嫌いか。そんなにも、俺とともになるのが嫌か。なぜ、そんなにもお前は……」
将軍として命令しても、それでも拒絶された。
吉宗は少し傷を負いながらも、へこたれはしない。目をつけた獲物は逃さないのが吉宗の性格である。
「名ばかりの嫁で良い。俺を騙した罪として、その辱めを受けてはくれないだろうか」
自分への嫁入りを辱めというなんて、それこそ吉宗にとっての恥である。
しかしそうしてでも、彼を嫁にしたかった。
今まで、拒絶されたことなどなかったのだから。
「なぜです? 女なら他にも、……って私は女ではありません。やはり嫁というのはおかしいのでは?」
戸惑いながらも彼は否定を重ね続ける。
その態度に、遂に吉宗は声を荒げた。
「なんでっ?! だって俺、将軍だよ? 身分のせいだとはわかっているけど、ふられたことなんてなかったもん! そして俺は、そんな奴を待っていた」
冷静だった吉宗が、突然駄々をこねる子どものような姿になった。それには呆気にとられている様子の彼だが、少しばかり可愛いとも感じていた。
目の前にいるのは将軍なんかじゃないんだと思って、少し笑みが零れた。
しかし”目の前にいるのは将軍”と思い直し、彼は顔を引き締め、吉宗のことを睨まんばかりに見る。
「男でも女でも変わらない。命令に従っているだけ」
淋しげにそういっていたのだが、それが突然満面の笑みに変わる。
「でもお前は違った。だから妻として迎えたい。苦労はさせないから」
必死の吉宗の頼みに、彼は折れて首を縦に振る。
これ以上、将軍様に頭を下げさせるわけには行かなかったからだ。
そして男は、将軍の妻、舞姫となった。
「不自由はさせない。好きなようにしてくれて良い。ただひとつ、舞の練習だけはしておいてくれ」
彼が承諾すると、吉宗はそういってさりげなく、あまりに自然と手を握る。
しかしその握り方は、強く男らしい。
少なくとも姫を扱うそれではなかったので、彼は安心して吉宗に手を引かれるまま走った。
「何をしたい? 女はさすがに無理であるが、そうでなければ酒でもなんでも用意しよう」
警戒心を欠片ほども見せず自室へと連れ込むと、舞姫を喜ばせようと吉宗は希望を問う。
その場に胡座をかいて吉宗は舞姫を見つめる。
目の前で正座をしながらも、舞姫は吉宗からは小さく目をそらす。
そしてしばしの沈黙があり、質問の答えが、独り言のように小さく返ってきた。
「将軍様のため、働きとうございます。私は、できることならこの身を将軍様に捧げたいのです」
欲のない答え。欲をそそる答え。
舞姫の答えに、吉宗は少し困ったような表情をした。
「俺のために、その身を捧げたいというか」
拒絶されたということもあり、遠慮がちにそういい、優しく抱き寄せようとする。
「将軍様、何をなさるのです。そのような意味ではございませんよ」
咄嗟に腰に触れた手を払うが、その後は優しく拒否の言葉を丁寧に紡いだ。
「身を粉にして働くことはしても、夜の相手はご勘弁を。私にそのようなことはできません」
体に触れることさえ拒む舞姫に、吉宗は腹を立てるのではなく、大きくそそられていた。
そして彼のためにこれからの時間の多くを費やすこと。それも悪くないと思った。
「好きにすれば良い。直接、その役職につけてやることはできないだろうが、お前が望む仕事を持ち帰ってくる。手伝いってことで良いだろう」
優しく微笑みかけるも、吉宗はそれだけで収まる男ではない。いつか舞姫を口説き落とし、犯すときのことをどうしても考えてしまうのであった。
徳川吉宗は、暴れん坊将軍と呼ばれていた。
その暴れん坊将軍が、このまま触れることさえできない関係を、許すはずがなかったのだ。
そうした意味では、権力を私欲のために使っているともいえるのかもしれない。
「意外とすぐに聞き入れて下さるのですね」
何をしても怒らない吉宗だから、少し嫌味っぽさも含めて舞姫はいった。
「いっただろ? 俺のために生きろ、なんてこと俺は絶対にいわない。それに、他人の意見を取り入れられない自分勝手な将軍になんて、なりたくないからさ」
それは口説くための言葉ではなく、吉宗の口から零れたに等しいほどの本心であった。
徳川吉宗とは、そのような男であったのだ。
「いきなり嫁になれなんて、十分に自分勝手です」
唇を尖らせそういうと、舞姫は微笑む。
吉宗も舞姫の微笑みに笑みを返すが、それだけではいられなかった。
将軍に対する抵抗から、その確かな忠誠から、吉宗は彼を舞姫にと選んだ。
しかしその可憐な微笑みに、花が舞う様を見た。その妖艶な微笑みに、蝶が舞う様を見た。
「見つめないで、少し恥ずかしいです」
もう緊張していない様子の舞姫。
彼のその言葉でやっと我に返るけれど、照れている姿もまた吉宗をそそった。
倹約を掲げ、我慢をしている吉宗。
けれど、性欲を我慢するのは苦手なのであった。
「……本当に、可愛い奴だな」
これ以上は危ないと判断し、吉宗は仕事に戻った。




