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修羅を曳きずり闊歩する  ~幕末蹴闘伝~ 

作者: いさお


 序章


「ククク……宗純よ、万策尽きたな。その手では中山流の技は使えまい」

 男は手にした脇差を構え直すと、嘲った口調で挑発の言葉を放った。

 狭い室内では、大刀よりも取り回しの良い脇差の方が使い勝手に優れる。当然それを意識しての選択であろうが、それはすなわち確実に『仕留め』に来たという証でもあった。

「義辰、貴様武人の誇りすら失くしたかッ!」

 刀身を突きつけられたもう一方の男、宗純は憤怒に顔を紅く染めつつ眼前の切っ先を睨みつける。

 その眼光は勝負を諦めた者のそれでは決して無かったが、焦燥の色もまた湛えていた。

「武人の誇りを守る為、貴様を亡き者にしようというのだ。覚悟!」

 叫ぶや否や、義辰は電光の如き速さで斬りつける。

「ちいっ!」

 半身を裁いて避し、反撃の当て身を放とうとする宗純だが、その動きは両の手首を縛る鉄鎖に遮られた。

「うぬ……」

「クハハハハ。無様だな宗純!」

 弄る目つきで高らかに嗤う義辰。

 両手を塞がれた拳法家と、真剣を構えた剣術使い。勝負の行方は明らかと言っても過言ではあるまい。

 しかし、それでも宗純の瞳に宿る闘志はいささかの曇りも見えなかった。



 1 



 中山宗純が手鎖五十日の刑に処されたのは、幕政も混沌の最中にあった安政五年秋口の事だった。


 房州は下総の片隅に、戦国の世より伝わる古流武術、中山流。

 若くしてその後継者である宗純は、朴訥とした風貌で口数も少ない青年であったが、その誠実な人柄と謎の古武術の達人という事で周囲からは一目置かれていた。

 尤も、皆に内心では『得体の知れない男』と思われてもいたのだが。

 しかし、そういった存在は時として予期せぬ反感を買うものである。

 夏の盛りも過ぎ、そよぐ風に秋の気配を感じ始めたとある日。彼は一通の果たし状を突きつけられた。

 相手は同じ街で、新陰流を教える道場の跡取りである佐原義辰。

 義辰は、禄も食んでいない浪人の身でありながら地元で達人呼ばわりされている若造の事を、以前より苦々しく思っていたのだ。

 この義辰の矮小な思いから発した私闘はしかし、彼の敗北に終わった。

 数人の弟子を引き連れて宗純の元に無理矢理押しかけ、木刀を構えて襲い掛かった義辰は次の瞬間、手にしていた筈の木刀を絡め取られて投げ飛ばされていた。

 自分が何をされたのか分からぬまま、それでも無様に地面を這いつくばっている事に激昂した義辰は、なんと腰の大刀を抜き宗純に斬りかかる。

 しかし。またしても宗純は瞬時に彼の視界から消え、その直後顎に強烈な当て身を喰らい義辰は意識を失った。

「次は無いぞ」

 短いながらも有無を言わさぬ最後通告をした宗純に、弟子達は義辰を抱えて逃げる様に去って行った。まごう事無き、義辰の完敗である。その噂は瞬く間に広がり、新陰流佐原道場の権威は失墜した。

 ところが。

 この勝負が原因となり、奉行所より『みだりに私闘を行い街の風紀を乱した』という咎めを受けて宗純は手鎖五十日の刑を受ける。

 しかも。本来ならば喧嘩両成敗という事で双方がなんらかの刑に処されるところ、政治力を使った佐原道場の計らいで義辰には何らお咎め無し。まさに江戸時代末期の腐敗政治、その一端を垣間見た顛末だ。

 因みに、手鎖の刑とはその名の通り両手を今で言う手錠の様な金具で固定し、一定期間自宅にて謹慎させるというもの。主に収監する程では無い軽微な罪人に処された刑罰である。

(ばからしい話だ)

 宗純は忸怩たる思いを胸に抱きつつ、両手を塞がれての謹慎生活を余儀なくされた。

 しかし、話はこれだけに留まらない。

 宗純憎しの邪心に囚われた義辰。あろう事か彼が両手を使えぬこの期間を狙い、謹慎している自宅に襲撃までする始末。

 今再び、宗純は彼の理不尽な振る舞いに巻き込まれていたのだった。


「ハハハ。手も足も出ぬとは、まさにこの事。さぞや悔しかろう」

 嘲り笑う義辰は、脇差を構えて今まさに止めを刺さんと踏み込む。

 その素早い打ち込みを小さく跳んで避した宗純は、

「足なら出る!」

 自ら後方に反り返り、後ろ手に地面に着くと同時に跳ね上げた右足で義辰の顎を蹴り付けた。

「ひゃぐっ!」

 予期せぬ角度からの反撃に急所を強打され、意識を飛ばす義辰。

 逆立ちしたままの宗純は軸となっている両手を交差させ、振りぬく足の遠心力を利用して右に半回転。そのまま、まるで竹蜻蛉の様な動きで回転しながら無防備な義辰の側頭部に廻し蹴りを放った。

「ぐはっ!」

 彼の全体重が乗り、遠心力にて倍加されたその凄まじい威力の蹴りは、こめかみを打ち抜かれた義辰の体を襖ごと屋外に吹き飛ばす。体勢を整え、庭に追撃に出た宗純が見たものは、既にこと切れている無残な義辰の姿だった。

「今の、蹴りの威力は……」

 宗純は、苦肉の策で無意識的に放った技のおそるべき威力に、恐怖とも喜悦ともつかない感情を抱いた。それは拳法家としての本能であろうが、しかし次の瞬間には現実を思い出し、表情を曇らせる。

 いくら一方的な襲撃を受けたとは言え、彼は義辰を殺害せしめている。しかも、その義辰は地元で力を持っている剣術道場の跡取り。前回の裁きを見ても、宗純に取って良くない結果に出る事は明らか。恐らく彼の命運は尽きたも同じだろう。


 ――武人たる者、一命を惜しむつもりは毛頭無い。しかしせっかく掴みかけたこの新たな武技を、完成させる事も無く誰かに伝える事も無いというのは、余りに切ない――


 武術家である宗純に取り、伝えられた技のみに留まらず自ら新たな技を編み出す事は生涯の命題である。

 それに。

 前回の顛末と義辰の愚行を見て、この徳川の武家政治がいかに腐敗し切ったものであるかを見せられた彼は、色々な事が『ばからしく』感じられてしまったのだ。

(この地を去ろう)

 瞬時にそれだけを考えた宗純は両腕を縛る鎖の封印を解き、最低限の荷物だけを手早く集めて逐電した。


 こうして、彼は引き返す事の出来ない修羅の道へと足を踏み入れたのだった。

 この時宗純僅かに十八歳。明治の維新、その十年前の出来事である。



 2



 あれから月日は流れ――

 世は文久を経て元治元年へと年号を変えていた。

 宗純が逐電した年に発生した安政の大獄を端に、この国の情勢はいよいよ混沌を極めている。外に目を向ければ日本を狙う米英露の狡猾な外交に遅れを取り、内に目を向ければ倒幕派と佐幕派の血で血を洗う内戦が各地で勃発。特に政局の中心となっていた京の都では、両陣営の志士達が激しく対立していた。

 その京に、中山宗純はひとり立っている。

 下総の地を出てより、早六年。衝動的に出奔してから彼は、各地を放浪しつつ己の技を磨き続けていた。そこに理屈や大志の様な類は一切無い。ただひたすらに自分の体術、その限界を見極めんとするがゆえの当ても無い放浪。そんな彼が京に赴いたのは、ある意味必然だったと言えようか。

 この頃の京には、各地より武偏者が集まっていた。

 それは或いは倒幕、佐幕といった志に動かされた志士であり、或いはこの機につけこんで我が名を挙げようと言う田舎武芸者である。かく言う宗純も名を挙げるといった野心こそ無いものの、『自らの技前を極める』という手前勝手な名目の元に彷徨っているのであるから大して変わらない。武芸者というものは、そもそもが救い様の無い生き物なのだろう。

 そんな宗純の目にふと留まったのは、一人の男だった。

 古びた旅装束に身を包み、腰に大小の刀も差していない町人風情。だが、その足取りや体の動きは明らかに常人と異なる。さほど大きな体躯では無いが、締まった体つきは見るからに俊敏そうだし、何よりもその瞳に宿している力は町人のそれでは無い。

(あの男、相当に使う……)

 そう見抜いた宗純は、そのまま彼を目で追った。

 すると。

 一定の間を置いて、彼の後を追ける人物に気付く。

 天秤棒を担いだ小間物売りの男が、つかず離れずの絶妙な感覚で尾行しているではないか。

 この男にしては珍しい事だが――

 興を引かれた宗純は、特に理由も無くその棒売りの男を更に追いかけてみた。

 尾行する事、暫く。

 袖口をだんだら模様に染めた、浅葱色の羽織を着た二人の侍が棒売りの男に近づき二言三言、言葉を交わした。程なくして二人は棒売りの男に代わり、彼を追け始める。

(あれは、壬生狼!?)

 文久三年、徳川家茂の上洛に際して募られた浪士組。その中でも最も武闘派として知られているのが、当時壬生村に駐留していた近藤勇率いる武装集団、新撰組である。その粗暴な振る舞いから侮蔑を込めて壬生浪と呼ばれていた彼等は、しかし京都守護職松平容保の下、攘夷派の志士を取り締まるという役割を与えられていたのだった。

 その新撰組の隊士二人が、先程の男を付けねらっているのだ。これは只事では無い。

 はたして二人は、件の男が大通りを抜けて人通りの無い裏町に入ったのを見計らって動き出した。

 小走りに近づき、鋭い声を発する。

「新撰組だ! 桂小五郎に相違無いな?」

 言った傍から刀を抜き、斬り掛からんとする二人の隊士。

 しかし、彼等は功を焦る余りに気付かなかった。その後ろから更に彼等を追って来た者に。

「丸腰の者に問答無用で斬り付けるなど、武士のやる事ではなかろう!」

 背後より急に声を掛けられる。

 慌てて振り向いた二人が見たものは、今まさに両手を地面に付いて逆立ちになった男と、恐ろしい疾さで襲い掛かって来る影だった。

 次の瞬間――

 鈍い打撃音が二回響く。二人は瞬時に頭部を蹴られ、地面に崩れ落ちた。

 とんぼを切って立ち上がり、辺りを見回す宗純。

 桂と呼ばれていた男は、如才無く十歩程離れた所で身構えて様子を伺っていた。

 視界の反対側に新手と思われる人影が数名、一目散に駆け寄って来るのが映る。その中の一人、指揮を執っている男と目が合った時、彼は肌が粟立つ程の戦慄を覚えた。纏っている殺気が、他の隊士達とは桁違いである。

「逃げた方が良い」

 宗純は相手の返事を待たずに、追手とは反対方向に走り出した。桂も躊躇無くそれに続く。

(ほう。腕が立つだけで無く、果断だ)

 宗純は、まだ一言も話していないこの男の事を気に入り始めている自分が少し可笑しくなった。



「何だ、ありゃあ……」

 土方歳三は驚きを通り越して呆れた心境で、目の前で起きた『それ』を見ていた。

 揮下の隊士二名が、彼の目の前で瞬時にして倒されたのだ。

 しかも、刀で切り伏せられたのではなく蹴りの一撃で。

 それも只の蹴りでは無い。

 敵前であろう事か逆立ちとなり、独楽の様に回転しながら恐ろしいまでの的確さで急所を狙う。

 蹴られた二人は、まるで糸の切れた操り人形の様に膝から崩れていた。

(一体、何てぇ技だ? あんなもン見た事も無ぇ)

 あまりにも唐突で不自然なその光景に、さしもの彼も一瞬呆気に取られてしまった。

 賊はその隙を突いて、脱兎の如く逃げ出していた。手の者にすぐさま追わせてはいるものの、彼は内心では(逃がしたな)と感じていた。

「本当に桂だったんですかねえ、土方さん」

「そうだとしても、おかしか無ぇ。宮部(鼎蔵)や吉田(稔麿)なンて大物の報告もあるンだ。総司よ、こいつぁ近々キナ臭ぇ事になりそうだぞ」

 土方は苦虫を噛み潰した様な、それでいて楽しそうに微笑んでいる様な不思議な表情で言った。

 その横顔を見て語り掛けた男、沖田総司は、

「土方さん、また悪い病気が出たかな」

 と面倒臭そうに呟くのだった。



 3



「先程は、助かりました」

 あれから逃げ回る事、暫く。

 ようやく撒いたと核心を持てた後、目立たぬ茶屋に入り一息ついたのちに桂と呼ばれていた男はようやく口を開いた。

「無用な手出しだったかも知れませぬが」

 言い差して、宗純は改めて彼を見る。

 その素速しっこそうな雰囲気と言い、実際先程見せた果断な動きと言い、おそらくは宗純が助太刀しなかったとしても先刻の襲撃を切り抜けていたに違い無い。

 そんな彼の考えは正しかった。

 この桂という男。多くの志士達がこころざし半ばにして倒れた激動の時代を見事生き抜き、後に維新三傑とまで言われる身であるが、その秘訣は『逃げの小五郎』との異名を取る程の徹底的な非戦の思想にあった。


 大事を成す為には、是が非でも生き抜かなければならぬ。ゆえに、避ける事の出来る争いは徹底的に避ける。


 それが、彼の思想の根底である。

 大儀の為には、ためらわず己の命を捨てる事が美徳とされていた時代だった。それだけに、多くの才能有る者達が無為にその命を散らしていった。師である吉田松陰を始め、嫌と言う程に同志の散り様を見てきた桂だからこその、それは辿り着いた境地だったのかもしれない。


「拙者、桂小五郎と申します。貴殿は、どちらの方にございましょう?」

 桂は用心深い目付きながらも、自らを名乗り宗純に尋ねた。彼にしてみれば、勤皇運動の志士が自分を助けてくれたのかと考えるのがむしろ自然である。

 なので、

「それがしは、中山宗純と申します。あてども無く、武芸の修行を重ねております」

 との返答にはさすがに目を向いた。

 暫く言葉を詰まらせた後、用心深く搾る様に尋ねる。

「なぜ、拙者を?」

 その問いに、宗純は躊躇無く答えた。

「あの壬生浪は、武人にあるまじき卑怯な振る舞いをした。それが許せなかっただけです」

「……なれば。もし拙者が差料を持ち、彼らが尋常の立会いを求めていたのなら」

「勿論、余計な手出しは致しませぬ」

 いっそ清々しいまでの愚直さである。

 桂は、宗純と会ってより初めて笑顔を見せた。

「はは……この時代に、中山殿のようなご仁がまだ居ようとは」

 そして、急に真顔になって話しを続けた。

「しかし。それだけの技前をお持ちなのに、ただあてども無く過ごすのはいかにも勿体無い。どうでしょう、その力、天下国家の為に使ってみるつもりはござらぬか?」

「天下国家の……為?」

 訝しげな宗純に、桂は特有の強い眼力で語り出した。

「左様。今、この国は未曾有の国難に直面しております。米国や英国など諸外国が強硬な姿勢で臨んで来る中、我が国は愚かな内紛でいたずらに国力を消費し、それを省みません。このままでは英国に敗れた清国の、二の舞にならないとも限らない。一刻も早くこの国をひとつに纏め上げ、爛れ切った古い武家政治を脱却し、列強の手より神州を護らねばならないのです。この国に住む民全てが幸福になる為に」

 桂の語る壮大な大志を、しかし宗純はさほど理解する事はできなかった。生まれてよりここまで、己の武芸を磨く事しかしてこなかった男である。宗純に政治は判らない。

 だが。その大志を語る彼を、宗純は判る事ができる。

(この仁は傑物だ。ただ己の技前だけを追求する自分とは、器が違う)

 しかし――

 自分が今まで考えた事も無い『天下国家の為に働く』事ができるかと言うと、とてもそうは思えなかった。

 そのような大それた事は今まで考えた事も無かったし、また自分には学も信念も無い。

 素手で人を倒す術しか知らぬ我が身に、一体どれ程の事ができようか?

 そう考えた宗純は、自虐的な笑みを浮かべつつ答えた。

「国家の事も国外の事も、それがしは何も知りませぬ。その何も知らぬ身が斯様に天下国家の為に働くなど、できますまい。それに――」

「それに?」

「それに、それがしは今まで何も考えず、素手で人を殺める技のみを追求して来ました。その様な己を省みずその様な大それた事、それがしには恥ずかしくて出来ませぬ」

 そんな宗純の言葉に、しかし桂は朗らかに笑い、続ける。

「最初から何もかも知っている者などおりませぬよ。知らない事は、勉強すれば良い。武芸者が己の技前を磨くのも、また当然の事。そんな些事よりも、貴殿は大事な物を持っておいでだ。大事を行うに足る、資質を」

「資質、ですと?」

「そう。貴殿の、苛烈なまでに士道を追求する心の強さは何物にも変えがたい資質。己が信じる道を最後まで貫き、また邪道を許さぬ思いの強さこそが大事を成し遂げる為に必要なのです」

 桂は憂いを込めた笑みを瞳に浮かべて、宗純を見る。そこには、自分が決して手に入れる事の出来ないものを見る憧れと諦めの様なものが映し出されていた。

「拙者の同志に、坂本龍馬という男がおります。この者、北辰一刀流の免許皆伝を受ける程の達人なれど、最初は何も知らない男でした。しかし、その持ち前の実直さと優れた行動力で瞬く間に土佐勤王運動の中心的人物となり、活躍しております。拙者の見る所、貴殿は坂本君と良く似ている。この国を変える事のできる器を持っているかも知れませぬ」

「はは、それは買いかぶりというもの。それがしは一武芸者に過ぎませぬ」

 宗純は、『これ以上の問答は無用』とばかりにかぶりを振ると、立ち上がった。

「昨今の京はいよいよ物騒です。気をつけられよ」

 言い残して去ろうとする彼の背中に、桂が言葉を掛ける。

「拙者は暫く三条木屋町の池田屋に逗留しております。気持ちが変わられたら、尋ねてください」

 宗純は無言で一礼して、その場を去った。

 時に元治元年、六月五日。歴史の歯車は、刻々と回っていた。



 4



(……天下国家の為、か)

 京の街の片隅にある、名も無い小さな寺。

 その境内にて、彼の考案した体術の鍛錬をしながら、宗純は一人沈思していた。

 大地に両の手を着いて逆立ちとなり、足を左右に大きく開く。丁の字となった体の基点である両掌を、大極印を描くように動かして回転する。その手が軸となり、宗純の体が竹蜻蛉の様にくるくると回る。一定の速度を保ちながら、軸は決して動かさずに。

「何度見ても、曲芸の様じゃの」

 ふと掛けられた声に宗純は回転を止めると、とんぼを切って起き上がった。

「善吉殿か」

 そこには古びた袈裟を着た、猿の様な住職の姿。彼がこの街で身を寄せている寺の主、善吉和尚だった。

「しかし、動きにどこかしら迷いがある。修羅道の者らしくないのう」

 まるで、からかう様な口調。しかしそんな軽口に、宗純は悲しげに答える。

「左様。善吉殿が仰る通り、それがしは戦う事しか取り得の無い修羅にござる。その様な者に、天下国家の為に働けなどと滑稽な話をして来た仁がおりました。途惑いもしましょう」

 己の心情を、まるで子供の様に話す宗純。不思議な事だが、初めて会った時から彼はこのましらの様な顔をした老人には心を裸にされてしまうのだった。

 そして、猿面の住職はそんな宗純を一笑し、答える。

「ヒヒヒ、お主までもが志士かぶれか。しかしまあそれも良かろう。よいか、宗純殿。そもそも修羅とは帝釈天様と延々戦い続ける悪人の様に描かれているが、その一方で八部衆におけるところの仏法の守護者でもある。いかな仏法とて、力無くばその道を広める事はできぬのじゃよ」

「仏法の、守護者……」

「左様。お主は今まで通り修羅の心を曳きずりながら、大手を振ってその道を闊歩すれば良いのじゃ。お主が戦い続けるは、決して抗う事のできない運命。それならば、その『戦い』に意味を見つける事が肝要じゃ。尊王だろうと佐幕だろうと、お主の信じる道を進むのが良いのではないかの」

 善吉の言葉に、宗純はまるで雷に打たれたかの如き衝撃を受けた。

 戦う意味。

 彼は、今まで武芸を極めるという漠然とした理由のみで戦い続け、その技を何の為に活かすかなどという事は一切考えて来なかった。

 その根底は、無心に鍛錬をする事により彼が心の片隅に抱えている、

『自分は結局、あの時我が身可愛さのあまりに故郷から逃げ出したのではないか』

 という思いから目をそむける為だという事も、自覚している。

「修羅を曳きずり、闊歩する。天に足を向けて戦うお主の技に丁度良いではないか。『闊歩曳羅』、おお、良い響きじゃ」

 童の如く無垢な笑顔で、楽しそうに言う善吉。

「かっぽ、えいら……」

 宗純の瞳に、今まで無かった光が宿った。

 それは、失った何かを見つける事の出来た、漢の光。

 宗純に政治は判らない。倒幕も、佐幕も、どちらがこの国の為になるかなど知りもしない。

 しかし、桂小五郎。彼の言う事は信頼できる気がする。

 ――いや、信じたい。

 彼の語る大志。その末語に結ばれた『この国に住む全ての民が幸福になる為に』という言葉を信じてみたい。長年に渡る、もはや完全に腐り切ったと言える徳川幕府の武家政治。それを打倒する手助けができるというのなら、この修羅の道にも意味が出来よう。

 宗純は、善吉に小さく一礼すると踵を返す。

「気をつけよ。今宵の京は狼が騒いでおる。袖をだんだらに染めた狼達がの」

 善吉はいっそ楽しげな声で、去っていく宗純の背中にそう声を掛けた。



 5  



 池田屋に近藤勇率いる新撰組が襲撃を掛けたのは、亥の刻(午後十時)の頃。

 宗純が三条に着く、暫く前の事だった。


「素は!?」

 街に漂う不穏な空気に宗純は戦慄を覚える。

 あちこちに諸藩の兵が立ち並び、三条の街を取り囲んでいた。状況から察するに、大事があったと考えて間違い無い。

(桂さんは!)

 血相を変えて、宗純は走り出した。

 闇に溶ける様に身を屈め、時に土塀を乗り越え、生垣を潜り。

 戦国の世に考案された古流武術というものは、大抵忍びの技が転じて伝えられているものである。無論宗純の護ってきた中山流もその例に漏れず、彼は忍者さながらの体裁きで周囲を固める藩兵を避して池田屋の裏庭まで辿り着いた。

 そして、その惨状に思わず目を向いた。

(何という……)

 相当の激闘が繰り広げられたのだろう。裏庭には幾人もの死体が累々と転がり、辺りは鮮血にどす黒く染まっていた。

 その裏庭には警護の為だろうか、鉢金を巻いた二人の隊士が立っている。

 宗純はためらわず闇の中より躍り出て、素早い飛び回し蹴りで瞬時に二人を倒した。

 そのまま屋内に踊り込もうとした矢先、

「行かせねぇよ?」

 掛けられた言葉と共に、容赦無い白刃が彼を襲った。

「くっ!」

 寸での所で体を仰け反らせ、それを回避。そのまま後方に転回して間合いを取り、相手を見定める。

 そこには隙無く刀を構えた一人の男が、隆と立っていた。

 切れ長の涼しげな、しかしどこか狂気をはらんだ瞳を光らせているその男は、宗純にちらりとその目を向けて言った。

「よお、また会ったな。今度は逃がしゃしねえぞ」

「そこもとは、昼間の……」

「おめぇ、桂ン所の者だったな。今頃ンなって慌ててやって来るたぁ、間抜けな野郎だ」

「桂さんはどうした」

「俺に勝ったら、教えてやンよ」

 一定の間合いを保ちながら、二人は問答する。叫ぶ訳でも威嚇する訳でもない、一見普通の会話の様。しかし二人はこの時既に、凄まじいまでの闘気を持って互いに牽制しあっていた。

「何故に、仲間を呼ばぬ」

「俺ぁ、おめぇと真剣勝負をしてぇンだよ。足技使い」

 楽しそうに口元をゆがめる相手に、宗純は苦笑する様に零す。

「そこもとも、修羅か……」

 その問いとも独り言ともつかない言葉に、男はふんと鼻を鳴らして刀を中段に構え、応えた。

「天然理心流、土方歳三だ」

 宗純も改めて構え直し、応える。

「中山宗純。流派は……闊歩曳羅!」



 両人は二間程の距離を取り、対峙している。

 攻撃の間合いは、当然大刀を構えている土方の方が遥かに長い。

 しかも。いかに土方が尋常の勝負を挑んで来たと言えどもここは敵中。早々にかたを着けねば時間の経過と共に宗純が不利になっていく事は明白。

 それに、もとより。

 宗純の闘いに、『待ち』の思考は無い。己の肉体のみを武器に敵中へ踊りこみ、勝利を掴み取る事こそが彼の中山流、そして闊歩曳羅の意地なのである。

「はあっ!」

 裂帛の気合と共に大きく踏み込んだ宗純は、そのまま転ぶような形で地面に手を突き体を低く保ったまま回転させて、土方の足を払う強烈な回し蹴りを放った。

 いきなり大きく屈んでからの、地面を削る様な足払い。大抵の剣客はその予想外な動きに、目の前の相手が急に視界から消えた様な錯覚を覚え、次の瞬間には足を取られる。今回の強襲も完璧な形だった。

 しかし――

 土方は宗純の踏み込みに合わせて大きく後ろに跳ぶと、構えた刀を右片手大上段に振り上げ、地面を這う宗純を土壇斬りに打ち下ろして来た。

「ッ!」

 慌てて体を反転させ、紙一重で上からの斬り込みを避す。すかさず立ち上がり、再び拳を構えると既に土方も上段に構え直していた。

(この男、もしや)

 宗純は再び間合いを計ると、今度は右斜めに大きく跳び込んだ。両手を地に着き、倒立する。そのまま両足を広げて竹蜻蛉の様に回転しながら、相手の側頭部目掛けて回し蹴りを放つ。遠心力を利用して速度と威力を倍加し、相手の視界の外から回り込む様な軌道を描いて踵にて打ち抜くという、目下彼に取っての奥義と言って良い必殺の蹴り技である。

 だが、これに対しても土方は瞬時に対応した。今度は左足を大きく引いて間を取り、またしても上段から宗純の体、それを支えている両腕を的確に狙って来るではないか。

「ぬぅッ!」

 宗純は迫ってくる白刃に、無理矢理地面を突き上げて跳ぶ事でどうにか回避した。

 そして、この二合の打ち合いで相手が自分の攻撃を的確に見抜いている事を知った。

 更に、彼が足元への攻撃に精通している事に気付く。

「……ただの道場剣術では無いな?」

 通常の剣術には脛に対する攻撃というものが基本的に無い。どの流派においても、脛撃ちは邪道とされているからだ。

 ところが。

「どうした、驚ぇたか?」

 土方が、凄惨な笑みを浮かべて囁く。

「俺ン地元の武州にゃあ、柳剛流ってぇのがあってな。泥臭ぇ百姓剣術だが、それだけになりふり構わねえ技を平気で使うンだよ」

『道』を追求するがあまり形骸化しつつあるこの時代の諸流派と違い、勝つ事が至上命題の田舎剣術は時に凄まじい技を編み出す事がある。

 武州は蕨の地で考案されたこの剣術が、まさにそれだった。おそらくは薙刀の脛打ちを参考にしたと思われるその技は、まさに形振り構わぬ恐ろしいものだった。

 しかし、一番恐ろしいのはやはり土方本人であろう。天然理心流を学び、その強さは近藤道場屈指とまで言われた彼が、しかし有効であると思えば他流の技も平気で使う。

 その勝ちに拘る姿勢こそが、彼の強さの秘訣なのかも知れない。

「おめぇの闊歩曳羅とやらは、見切らせてもらった。もう、俺にゃあ効かねぇよ」

 上段に構えたまま、涼しい眼をして土方が言う。

「ほう?」

「跳ンで地面に手を付いて逆立ちからの足技は一見滑稽だが、こいつぁ相手の虚を突き間合いを一気に縮めるにゃあうまい手だ。そして踵での打ち込みは、一撃で相手を倒す威力を持たせる為。中々えげつねぇ技だがな、一度見られちまったら、もう使えねえぜ?」

 じりじりと間合いを詰めながら、言葉でも相手を追い詰めるように語る土方。

 しかし、宗純は涼しい顔で彼の言葉を聞き流す。

「それで、我が技を見切ったつもりか? それがしの編み出した闊歩曳羅は、そのような簡単なものでは無い」

 構えた腰に力を入れる。その不自然な程の『起こり』は、避せるものなら避してみろという意思を言外に表したものだ。

「へえ。じゃあ、試してみンべぇ。どっちが正しいかよぉ!」

 土方がそう言うや否や、宗純は大きく踏み出した。

 それに合わせる様に、土方が上段に構えた剣を振り下ろす。

 その一撃を右半身に裁いて避した宗純。今度は打って変わって立ったまま、踏み込んだ土方の脛を狙っての下段蹴りを放つ。

「ちぃっ!」

 体重の乗った軸足を狙われた土方は、打たれるを覚悟して振り下ろした剣を鋭角に跳ね上げた。

 肉を切らせて骨を断つ、咄嗟の判断である。


 ――足一本くれてやっても、一刀斬り付ける事ができりゃあ俺の勝ちだ。


 それは、刀を持った者ゆえの、いたしかたの無い慢心。

 そして、それこそが宗純の狙いだった。

 土方の脛を狙ったと見せかけた下段蹴りは、打ち抜く寸前に外側に軌道を変える。そのまま回転しつつ伏せる様に体を縮込ませた宗純。その頭上を土方の刀が掠めていった。

 刀を振り上げた土方はすなわち、無防備な姿を晒す事になる。

「せいっ!」

 一回転した宗純は、地面に着いた両手を基点に全身のばねを使い、倒立する様に両足を天に向かって直線的に突き出した。

 本能的に危険を察知した土方。どうにか上半身を仰け反らせて、それを回避。ここまで幾度か宗純の蹴り技を裁いて体が覚えた絶妙の間だったのだが――

「ぐっ!?」

 宗純の足が、まるで一段伸びた様に間合いを詰めて彼の顎を掠った。

 次の瞬間。

「なん……だ?」

 かくんと膝を崩し、だらしなく尻餅を着く土方。

 手にしていた刀こそ放さなかったものの、両膝はがくがくと震え、全身に力が入らない。

 土方は、自分の身に何が起きているのか判らなかった。まるで安酒に酔ったかの様に頭が朦朧とし、四肢に力が入らない。

「暫くは、動けまい」

 立ち上がった宗純が、静かに語りかける。彼は最初からこれを狙っていたのだった。

 一体、何が起きたのか?

 秘密は、彼の蹴りが土方の顎を掠めたという所にある。

 鋭い一撃を絶妙の角度で掠める様に顎に当てると、相手の頭部は首を支点に激しく揺さぶられて脳震盪を起こす。ボクシングの試合で、顔を殴られて倒れるのは大抵がこの作用だ。

 宗純の学んできた中山流は、戦国の世に徒手にて武装した相手を倒す為に編み出された技。その真髄は、鎧を着た相手すらも一撃で行動不能にする事である。ゆえに、彼の流派では相手の顎に対する攻撃を最重視しているのだった。

 しかも。その真の狙いを隠すため、普段の攻撃ではあえて相手の側頭部を踵で狙うという徹底的な欺瞞までしていたのだ。そして、彼は微妙に足を伸ばし切らずに回転しながらの攻撃を多用する事により、正確な蹴りの間合いを悟らせないという離れ業までやっていた。これにより、不意に爪先を使って直線的な蹴りを入れると相手はまるで足が伸びた様な錯覚に陥るのだ。

 闊歩曳羅の技は、今まで脈々と培われてきた中山流の土台の上にあって、いよいよその恐ろしさを増したのだった。


「桂さんは、どうした」

 息を整えた宗純は、土方を見下ろして詰問した。

「奴ぁ、居ねえよ。ここにゃあ最初から居なかったンだ」

 ひねた笑みを口元に浮かべて、土方は答える。

「何?」

「宮部も斬った。吉田も斬った。尊皇攘夷派の重鎮と言われてた連中は大抵斬ったが、奴だけは今回も取り逃がした。ふン、忌々しい野郎だ」

 悔しそうに呟く土方の言葉に、宗純は小さくため息を吐くと踵を返した。

「おい。どうして止めを刺さねぇ」

 立ち去ろうという宗純に、いっそ不満気な声で問い返す土方。

 そんな彼に、宗純は振り向きもせずに答える。

「勝負は着いた」

「俺を生かしといたら、死ぬまでおめぇを付け狙ってやンぞ?」

 恨めしそうに言う土方に、宗純はようやく振り向いて、真面目な口調で返す。

「尋常な立会いなら、いつでも受けてやる」

 そして再び彼に背を向けて、今度こそ闇の中に消えて行った。

 土方は小さく笑いながら、消え行く背中に声を掛ける。

「へっ! おめぇは、俺以上の大馬鹿野郎だよ」



 終章



 あれから幾多の季節が過ぎ、橋の下を多くの水が流れて行った。


 こころざし半ばで倒れた、数え切れぬ程の志士達。その尊い犠牲の元、世はついに明治の維新を迎えた。

 幕臣として最後まで戦い抜いた土方歳三も明治二年、函館は五稜郭にて戦死した。

 あの動乱の世をついに生き抜き、木戸孝允と名を変え、明治政府の重鎮となって活躍した桂小五郎も結核には勝てず、明治十年に四十五歳でその生涯を終えている。


 そして、宗純は――


 夏の日差しもまばゆい横浜港。

 埠頭の一端に身を寄せている、今まさに出航を待つ一隻の貨客船。

 その船の甲板上で、宗純は一人感慨に浸っていた。

(坂本君が生きていたら、また違った道もあったのかも知れないが……)

 池田屋の一件以降。

 桂と再び会い見えた宗純は、それより彼と行動を共にし、激動の時代を戦い抜いた。

 そして維新の後も彼の影となって支え続けて来た宗純だが、桂が病没するとまるで役目を終えた様に姿を消した。

「戦う事しか知らぬこの身にできる事。それはすなわち、まだこの技を必要とする者達の元に赴く事のみ」

 桂の葬儀の後、親しいごく少数の者にのみ、彼はその心境を語ったという。齢四十に迫り、尚硬骨の心を失わない宗純。彼は、自分が戦う事しかできない男だという事を誰よりも理解していたのだろう。


 そして、その宗純は今、船上にて新たな決意を胸に抱いている。


 ――世界には、生まれた所や、肌や目の色が違うだけで人間と見なされず、まるで家畜の様に扱われている人々が数多くいると聞く。日本の民が御維新を迎え世界に向けて躍進を始めた今、自分の技を本当に必要としているのはそういう人達であろう――


 かつて、同志であった坂本龍馬と語り合った折に聞いた欧米列強の植民地事情に、彼は大いに憤慨したものである。その心は、今尚微塵も色あせていない。

「世界中、どこへ行こうとも恐るるもの無し。ただ我が武技を必要としてくれる者達の、一助とならん」


 彼の決意を祝福する様に汽笛が鳴り響き、やがてゆっくりと船が動き出した。



 これより先の、彼の消息は杳として知れない。

 一説によると、宗純は南米に渡り奴隷解放運動に参加したとされている。

 そして彼の考案した武術は現地の戦士達に伝えられ、やがて「カポエイラ」という武術になったという事だが、その真偽は定かでは無い。




 了



 本作は演出上史実をベースにして書きましたが、もちろん完全なフィクション、むしろファンタジーです。その匙加減は和月伸宏先生の『るろうに剣心』と同等ぐらいだと小生は思っております。

 史実の土方は(たぶん)ここまでソードハッピーではありませんし、桂小五郎はもっと嫌な奴だったみたいですw



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― 新着の感想 ―
[良い点] おお、珍しく硬派だ! と思ったら、オチにやられたでござる。 [一言] ご無沙汰してます。 オチを見たらあまりのらしさに笑いました。 よかったです!
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