謎の紳士。
みなさん、こんにちは。
私の名前は阿部……、
すいません、まだ慣れませんね。
私の名前は新谷真世。ついこの間、縁あって新谷量多さんという方に嫁ぐことになった新婚さんです。
量多さんは本当に素晴らしい人で、例えばあの時も……、
……すいません。脱線しました。
現在、私は……私たちと言うべきでしょうか。私たちはとあるアパートの一室に同棲しています。
私と量多さん。しかし、2人暮らしというわけではありません。3人暮らしなのです。
子ども? いえ、まだいませんよ?
ああ。もちろん、犬や猫、ペット類を1人として数えた訳でも、親が住んでいる訳でもありません。
では、誰がいるのでしょうか?
◇◆◇◆◇
今日も私は、朝早くに起きてごはんを作ります。
ベーコンエッグにお味噌汁。簡単ですが、深い料理です。
少しして、量多さんが起きてきます。正確には支度を終えてきます。
量多さんの職業は中学校の教師で朝が早く、私はどうしても量多さんより早く起きる事ができないのです。
なので、ほぼ同時に朝起きて。私が料理する間、量多さんは仕事の支度。そのまま一緒にごはんを食べ、出勤。と、これが毎朝の流れです。
「いってきまーす。」
「いってらっしゃーい……。」
今朝もご多分にもれず、量多さんが出かけていきます。
さて。私も家事を始めるとしますか……。
そう思い、玄関からリビングに移動すると、
そこに、いました。
この家、3人目の住人。
「あ。真世さん。おはよう。」
紳士的な顔、声。それに似合わず崩れた衣服。
「おはようございます。やっくんさん。」
謎の紳士、『やっくん』さんです。
彼との出会いは、私がこの部屋に住み始めた1日目にさかのぼります。
量多さんと入籍後、量多さんが既に部屋を借りている事を聞き『そのままそこに同棲してしまおう』という話になったのです。
そして、部屋に入ると……、
~以下回想~
「おかえりー。リョークン……と、」
「「……誰?」」
目の前にいたのは、前述の通りの紳士の男性。
「すいません!部屋間違えましたっ!」
「いや、合ってるよ。ここが俺の部屋。」
「量多さん! 本当に部屋ここであってるんですか? 人居ましたよ?」
「あー、うん。まさか見えるとは思わなくて……。」
「? どーいう意味ですか?」
「あ。……まあいいか。入ってよ。」
「えっ!? 何がいいんですか!? 誰ですかこの方!!」
「僕は、やっくん。彼の親友さ。」
「流れるように自己紹介されました! 初めまして、真世です。量多さんの嫁です。」
「あー、例の。話には聞いてるよ。いらっしゃい、はいってはいって……。」
「やっくん。ここは俺の家なんだが……。」
~回想終了~
と、こんな感じでなぜか3人暮らしです。本当に何でなんでしょう?
その後、『やっくん空気説』『やっくん愛人説』などが起こったり消えたりして、現在に至ります。
結局、やっくんさんについて詳しくは良く分かってませんが、人柄も性格も良かったので、家事を手伝ってくれたりしてとても助かっています。
……わたしの下着を普通に洗濯したり畳むのは、少し止めて欲しいですが……。
「今日のベーコンエッグはおいしいな。もう少しでリョークンレベルだ。」
「やっぱり、量多さんには勝てませんか……。」
「もう少し、だよ。すぐに追いつくさ。……味噌汁はまだ当分先だけど。」
「酷評!! いったい何が……、」
「いや。この具がね……、」
このように、料理のコツも教えてくれます。本当に何者なのか良くわかりません。
◇◆◇◆◇
そんなある日。一緒に洗濯物をたたんでいると、
「そういえばさー。言ってなかったと思うけど……僕、幽霊なんだ。」
やっくんさんは、たまに良く分からない嘘をつきます。
彼の『空気説』や『愛人説』はここから生まれたものです。
「へー。そうだったんですか。いったい何があったんですか?」
「いやー。まさか、あそこでトラックが突っ込んで来るとは思わなくてさー……。」
今回も信憑性に欠けるので、半信半疑で聞くこととします。
「それは災難でしたねー。信号は見たんですか?」
「いやぁ、それが赤信号を突っ切っちゃって……、」
「ダメですよ。信号は良く見ないと。」
「だよねー……。」
私がたたんでいる最中に、彼は自分の分を終わらせ、私の分を自分の方に寄せました。
そして、また黙々とたたみ始めます。
「……心残りは?」
「え?」
私はなんとなく聞きました。
「幽霊になったんだから、何か心残りがあるんじゃないですか?」
「心残り……か。そう、だな。……考えた事もなかったよ。」
「なにか心当たりは?」
「うーん……。やっぱり、あの時すごい嬉しかったからかな……。」
「あの時?」
「うん。死んだ時。いや、トラックが突っ込んでくる直前、かな。あの時は……、」
「……やっくんさん。」
「なに?」
「それ……、」
「え?」
私はやっくんさんが持っているもの指差しました。
「私の下着を普通にたたもうとしないでください! 何度も言ってるじゃないですか!?」
「あー。“全く気にしてなかった”から気付かなかった……。」
「それはそれで失礼では? あ、とりあえずその手の物は全てわたしに……、」
「りょーかーい……。」
◇◆◇◆◇
「……って、話を今日の昼ごろしてたんですよ。量多さん。」
夜。眠るときに、量多さんに今日の報告をします。
私と量多さんは、同じ寝室で寝ます。やっくんさんは彼の部屋でです。当然。
余談ですが彼の職業は作家だそうで、多分今も起きてるでしょう。仕事上。
「……そんな話をアイツがしたのか。」
「はい。また変な嘘ですよねー。」
「アイツが、お前に……か。」
「……どうかしたんですか? 量多さん?」
量多さんは横になりながら、何かを考えているようです。
「もうそろそろ……か?」
「?」
「じゃ、俺もお前に『やっくん』の事を話そうかな……。」
「……は? 彼が、本当に死んでるかもしれない?」
彼の、量多さんの言葉を聞いて、私は思わず声を上げた。
「ああ。でも、さっきも言った通り、生きてるかもしれない。」
「それ……どういう事ですか?」
量多さんは首を横に振る。
「俺にも良くはわからない。けど、そんな可能性もあるって事。」
「そんな……、非科学的な事……。」
ありえない……。そう思った。
「確かに、非科学的かもしれない。だけど、この世には科学で説明できない事もたくさんある。『この事』がその一例でも、おかしな話じゃない。」
「でも……そんな……。」
あの、やっくんさんが? 死んでる?
……そんなわけ、ない。
私は吹き出した。
「もう! そんな訳ないじゃないですか! 寝ましょう。明日も早いんですよね?」
「……うん。ごめんね、いきなり変な事言って。」
「いえいえ、全く気にしてませんよ! おやすみなさい。」
「……おやすみ。」
部屋の明かりを消し、私はベッドに横になった。
(……彼が……。)
もし、本当に死んでるとして、彼はそれに気付いているのだろうか。
気付いていたとして、一体どんな気持ちなんだろうか。
(……そもそも幽霊って……、)
「……なんか考え込んでない?」
「へっ!? べ、別にそんな事ありませんよ……?」
「嘘つくの、下手だよね。」
彼は、私を後ろから抱きしめた。
拒みはしない。夫婦なら当然の事だ。
「……そうですね。」
彼の言う通り、私は嘘をつくのが下手だ。
だから、無理に隠したりはしない。
「……やっくんとはね、中学の頃から一緒なんだ。」
「長い付き合いなんですね……。」
「ああ。それなりにケンカもしたし、衝突もした。まぁ、そのたび紳士的にあしらわれたけどね……。」
あの量多さんがケンカ……。今度やっくんさんに詳しく聞いてみようかな。
「大学も一緒で……、ああそうだ、彼に小説を書くのを勧めたのも僕なんだ。」
「へー……。」
量多さんの口から語られる。遠い日の記憶。
その記憶は、量多さんにとって大切な物なのだろう。
きっと……彼にとっても……。
「……だからさ。アイツが何か悩んでるんだったら、助けてあげたいし、……心残りがあるんだったら、失くしてやりたい。」
「いいんですか? ……本当に幽霊だったら、消えちゃいますよ? 寂しくなりますよー?」
私は、少し意地悪に言った。
「……いいよ。それがアイツの為なら。……俺の幸せの為に、アイツを無理には留めたくないよ……。」
「……それでこそ、私の量多さんです……。」
それを聞いて、私は思った。
少しでも彼の力になりたい、彼の思いを汲んであげたい。
彼のやりたい事を、叶えてあげたい。
「量多さん、……彼の事、もっと教えてください。」
「……うん。俺もアイツの事、もっと話したいんだ。」
◇◆◇◆◇
「……どうしたの? 僕の顔、じっと見て……?」
「!? いえなんでもありませんよっ!!?」
そんな夜があって次の日、私はやっくんさんと一緒に朝ごはんを食べていた。
「……?」
やっくんさんが死んだ、かもしれない日。やっくんさんは既に量多さんのルームメイトだったそうだ。
その日、量多さんが部屋でレポートを作っていると、部屋のインターホンが鳴り、それに出ると、やっくんさんの声が弱々しく『僕だよ』と言ったらしい。
量多さんが驚いて、すぐにドアを開けると、倒れ込むようにしてやっくんさんが入ってきたそうだ。
その時、やっくんさんはぼろぼろで、どう見ても普通の状態ではなかったらしい。
量多さんが病院に連れて行こうとすると、『無駄だよ』と言って、さらにこう続けたそうだ。
『僕はもう死んでるから。』
「……真世さん?」
「へっ!?」
いきなり、やっくんさんに声をかけられ、私は驚いた。
「な、なんでしょう……?」
「さっきからなんか変だよ? どうしたの?」
「い、いえ……ちょっとした事ですよ。お気になさらず……、」
私は目を逸らした。
「……そんな訳にはいかないよ。」
「な、なんでですか……?」
やっくんさんはいきなり顔を近づけてきた。
「!?」
「僕は、他人事に首を突っ込むのが大好きだったんだ。君の事だって当然同じだよ。」
……ああ、そういえば昨日も量多さんが言っていた。
『アイツはとにかく他人事が大好きだった。』と。
そして、一度興味を持つと、教えてくれるまで絶対に諦めないとも……。
……でも、この件に関しては、
「他人事じゃありません。あなたの事ですよ。」
なんて、口に出す訳には……、
「え……、僕の事……?」
口に出ちゃってた!? わたしバカだー!
「それってどういう……?」
「えー! いやあの! その……!」
「………。」
私は、隠そうとするのを諦めた。
出来れば隠したかったが、あの発言のあと無理に隠しても、すぐにバレてしまいそうだ。
「……昨日の話ですよ。あの、『幽霊』っていう……、」
「あ、ああ。その話か……、」
やっくんさんは、少し安堵の息をついた。
「その事で無闇に悩んでるなら、気にしなくていいよ。
……どうせ嘘だしね。」
「……本当ですか?」
私は、やっくんさんの眼を見て問いかける。
やっくんさんは、私の眼を見返して、微笑みながら言った。
「……本当だよ。」
……信憑性に、欠けました。
◇◆◇◆◇
そんな感じで食事を終わらせ、私はいつも通り家事を始めた。
やっくんさんも、いつも通りに手伝いを始める。
すべて、いつも通りだった。
……が、季節の流れは止まらない。
「あ。そういえば、そろそろ衣替えの時期かー……。」
時期は夏の終わり。気が付けば、秋が目と鼻の先です。
「……新しい冬服が欲しいなぁ……。」
……誕生日も近いし、量多さんが買ってくれると思うけど……。
私はやっくんさんを見た。
「……荷物持ちもいることだし……。」
「真世さん、昼ごはん出来たけど、……なんか僕をこき使おうとしてない?」
「……やっくんさん、こき使われてくれませんか?」
「………。」
「………。」
「……まあ……別にいいけど……。」
◇◆◇◆◇
その一時間後くらい。
「いやー、やっくんさんも外出用の服持ってるんですね!」
私とやっくんさんは、駅までの道を歩いていた。
「真世さん……。僕を引きこもりかなんかだと勘違いしてない?」
「え、違うんですか? 家を出たところ見た事ないですけど……。」
「……半年に一回くらい、作品の資料集めに……、」
「その外出頻度はもう引きこもりのそれですよ?」
「……だろうね……。」
そんな会話を交わしながら、近道である細い道に入ろうとした時だった。
「……あ。」
やっくんさんが、足を止めた。
「どうかしたんですか? やっくんさん。」
「……この道を通るのは、止めた方がいいよ……。」
「なんでですか?」
やっくんさんは、いつにもなく真面目な顔で言った。
「こんな細い道じゃ、何が起こるか分からないし……、」
「まだ昼過ぎで明るいですし、やっくんさんも一緒なんですから、危険は無いと思いますけど……。」
「とにかくダメだ。……リョークンのいない間に、僕に連れ回されて事件にあった……なんて事になったら堪らない。」
それは気の使い過ぎでは……?
「……まぁ、そこまで言うなら無理には通りませんけど……。」
私がそう言うと、やっくんさんは深く息を吐いた。
「ありがとう、真世さん……。」
「……どういたしまして?」
その時、私には彼の言葉の意味がよく理解できなかった。
◇◆◇◆◇
「……いいの? 僕の服まで買ってくれたりして……。」
「大丈夫ですよ! 量多さんもやっくんさんの服なら無駄遣いではないですし、怒りはしないと思います。」
「……なら、いいんだけど……。」
帰りの電車の中。
私は、大型ショッピングセンターのメンズショップで、ポケットマネーを使い、やっくんさんに服を買ってあげたのだ。
量多さんの大切な親友だから……ね。
「……というか、……なんか私たち見られてません?」
「言われてみればそんな気も……するかな。」
「いや、結構見られてると思うんですけど……。」
周りのおばさん達の目線を感じる。
カップルとかだと思われてるのかな……?
他人から見れば、この人が居候だとは思いもしないだろう。
「……僕たち、新婚さんとかだと勘違いされてるんじゃ……、」
「いや! そこまで思われては……なくもないんですか……?」
「僕に聞かれても……。」
でも、年も近いし、そう思われてても不思議ではない。
……なんか量多さんに申し訳無いなあ……。
「……もしくは、真世さんが美人だから注目されてるとか?」
「いや、それは無いですよ。」
「即答だね。」
「それを言うなら、やっくんさんが男前だからじゃないですか?」
「それは無いでしょ。」
「即答ですね。」
私とやっくんさんは、そう言い合って、笑い合った。
◇◆◇◆◇
「……って事が今日……、」
「……よし。後で、やっくんをみっちり問いただそう……。」
「思いっきり嫉妬してます!?」
夕食後、寝床に付きながら、私は量多さんに報告をしました。
「そんな話を聞いて嫉妬しない男はいない。」
……報告しなくていい事まで報告してしまった気もします。
「今日はもう寝る。すぐ寝る。」
……もしかしなくても拗ねてる?
「はい。おやすみなさい、量多さん……。」
「………。」
「今週末は二人で出かけましょうね?」
「……約束な……。」
(……かわいいなぁ……。)
そう思いながら、私は部屋の電気を消した。
(……ん……?)
それからしばらく経って、私は目を覚ました。
何か物音が聞こえた気がしたのだ。
(……やっぱり、何か聞こえる……。)
足音と……何かを着込む音……?
やっくんさんだろうか。こんな時間に一体何を……?
(量多さんは……寝てる……。)
私は量多さんを起こさないように、カーディガンを羽織って部屋を出た。
「……やっくんさん……?」
部屋を出た時、玄関が閉まる音が聞こえた。
「外……こんな時間に?」
足りなくなったインクか、原稿用紙を買いに行っただけかもしれない。
徹夜に必須な栄養ドリンクを買いに行っただけかもしれない。
原稿に詰まって、夜風に当たりに行っただけかも……、
……でも、私は彼を追いかけた。
◇◆◇◆◇
やっくんさんは、駅までの道を迷わず進んでいた。
……後ろを一切振り向かずに……。
そして、私はこっそりとその後をつけた。
そんな時間が無為に過ぎて……、
「やっくんさん!!」
私は、たまらずその背中に声をかけた。
ここは、今日やっくんさんが通ろうとしなかった道だ。
「……!」
その声に振り向いた彼は、今日買ったばかりの冬服を身につけていた。
「やっくんさん、まだ冬服は時期的に早いんじゃないですか?」
「……真世さん、か。ダメじゃないか、こんな時間に外を出歩いたら……。」
「やっくんさんもですよ。何やってるんですか、こんな時間に……。」
「んー。散歩……かな?」
「嘘、つかないでください。」
私は、静かに言った。
「最近、何か思う事があった。だから私に、自分が『幽霊』だ。とか言ったんですよね?」
「……さあ、どうだろうね?」
「……ふざけないでください。私、真面目に話してます。」
そう言ったら、彼は少し目を細めた。
「ふざけてなんか……ないよ。昔からそうなんだ。僕には、『自分』がしっくりこない。」
「……『自分』が?」
「自分……と言うのがね、何か……良く分からなかった。とても不安定に感じた。自分が思っている事に自信が持てなかった。自分がやっている事に意味を見出せなかった。……昔からね……。」
「『分からなかった』……って事は、今は違うんですか?」
「………。」
沈黙。
「……昔はさ、自分が思っている事に『本当』があるか分からなかった。もしかしたら、そう思いたがっているだけなんじゃないか。……って、どうしても考えてしまったんだ。」
その声は、とても悲しそうだった。
自分が信じられない。それがどんな感じなのか、私にはよく分からなかったけど……。
「でも……、最近ね。ちょっと信じられる事が出来たんだ。」
「それは……どんな?」
「……秘密ー。」
「やっくんさん! 私、真面目に……!」
「分かってる分かってる。」
やっくんさんは笑った。
「君たちといると、楽しい……。」
ぽそりと、やっくんさんが呟いた。
「え……?」
「君と量多を見てると、なんだか癒された。……癒された気分になれた。今までに無く自然に、そう思えた。
それは、さ。感じたこともない感覚で……いや、忘れちゃった感覚だったのかも……。とにかく、多分……それだけは、紛れもなく『本当』だった。」
「やっくんさん……。」
「………。」
また、俯く。
「僕は……、」
そして彼は、私の眼を見た。
「……この世にいてはいけない人間……だと、思う。」
「………。」
「だから、君と関わるのも、量多と関わるのも、いけない事で、本当は一人で生き長らえるべきだったんだ。」
彼は言う。
「君には迷惑をかけた。量多にも言っておいて、迷惑かけてゴメンって……。」
それは、別れの挨拶のつもりだったのだろうか?
……とりあえず、私は怒っていた。
「……ふざけてるんですか……?」
「……え……?」
やっくんさんは面食らったような顔をした。
「ふざけてますよね? やっくんさん。」
私は続けた。
「あなたがいて、私たちが迷惑していたと? 迷惑だけを、あなたにかけられていたと? 私たちの時間を、無駄だったと言うおつもりですか?」
「いや……無駄だ、とは言わないけど……、」
「ヒトはですね……、他人に迷惑をかけて生きてくんですよ。そして他人に迷惑をかけられて、人は生きてくんです……。あなただって私や量多さんに迷惑をかけられてきたでしょう?」
「そんな事ないよ。……僕は、君たちの事を……、」
「そんな事ないなら、それでいいじゃないですか!」
私は思わず叫んだ。
「私たちだって、迷惑だなんて思ってません! あなたと一緒です! むしろ、ありがたくすら思ってるんですよ! 私が量多さんと喧嘩した時は止めてくれました! 料理のコツを教えてくれました! 困った時は助けてくれました! 買い物にも付き合ってくれましたよね!」
「……あ……。」
「やっている事に意味を見出せない? 意味ならあったじゃないですか! 私がいま、教えました。だから、自分が無駄だ、とか言わないでください!」
私は吐き出した。
私の中に溜まっていた言葉を、彼に伝えたかった言葉を……。
「………。ふふっ……はははっ!!」
少しして、彼は笑い始めた。
今までの、私の知っている笑い方じゃない。
もっと、子供っぽい笑い方だ。
「真世さんらしい……って、言えば、それらしいや。変なトコで頑固でさ……。」
「自分の事を、変なトコだと……?」
私の言いたかった事が伝わってなかったのではないかと、少し怪しんだ。
「ゴメンゴメン、口が滑ったよ。うん、ありがとう。なんか久しぶりだな、こんなに笑ったのは……。」
彼はまだ、表情に笑みを残したまま、言った。
「……君も感づいてるかもしれないけど、僕は、もうそろそろ終わりだ。死に損ないには死ぬ運命がある。」
それは、今度こそ別れの言葉だろう。
「……これが終わる前に、君に言っておきたかった事があるんだ。……生まれて初めて思った事だよ。」
私は、彼の言葉を一言も聞き漏らすまいと、耳を傾ける。
「好きだよ。真世さん……。」
「……え……は?」
予想外の言葉が飛んできて、私は思いっきりまごついた。
「えっ……あ……えっ?」
長い間、意味不明な言葉を発し続け、
「私、人妻ですけど……。」
結局、口からそんな言葉が出た。
「大丈夫。ただ好きなだけだから。それ以上の意味は無いよ。
……とにかく、言えて良かった。」
これは、なんなんだろう?
冗談なのかな。やっくんさん、たまに良く分からない嘘つくし。これもその類なのかな?
「……私も好きでしたよ、やっくんさんの事……。」
「……えっ……は!!?」
私の言葉に、今度はやっくんさんが大きくうろたえる。
「あの、えっと……それってどういう……?」
「……ま、量多さんほどじゃありませんけどね!」
「え……あ……。」
気の抜けた反応。
「……はは。本当に君らしいや……。」
そして、また気を入れて、彼は言った。
「さて、と。もうそろそろ時間……かな。」
……って、悲しい顔しないでよ。別にいつも通りの日常が帰って来るだけ、……本当の世界が、戻ってくるだけなんだから。
だから、僕なんかの為に泣かないで……って言い方じゃ、ダメなんだっけ? えっと、じゃあ……、
……僕の為に泣いてくれてありがとう……かな?」
◇◆◇◆◇
彼は、光に包まれながら消えた。
そこに、最初から何も無かったかのように。
そして朝が来る。それも、何事も無かったかのように
彼の私物も全て消えていた。
それは、存在するべきものでは無かったからだ、と量多さんは言った。彼は本来、大学入学後、すぐに死ぬべきだった人間で、奇跡がそれを引き伸ばしていたのではないか、と。
そして奇跡は役目を終え、彼が、その時にちゃんと死んでいた世界が回ってくる。
余談だが、彼の私物の中で唯一、消えていなかった物があった。
彼の書いていた物語だ。
なぜそれが、それだけが残っていたか。それを説明するには、奇跡という言葉を使うほかない。
なぜならそれは、彼が生き長らえていた証なのだから。
あと、消えていなかった物は、私たちの記憶くらい。
後はもう何もない。
別にそれ以上は、何もいらなかったのだが……。
あと、彼が消えた少し後、私と量多さんは子供を授かる事になった。
それに気付いたのは、彼が消えた次の日だ。
……名前には『八』という漢字を使おう。
そして、もし男の子だったら、『八尋』って名前を付けてあげるんです。
――真世さん。また、いつか……。――
それが彼の、本当の最後の言葉だったから。