あの角を右に曲がっていたら
「はっはっはっ……」
少年は走っている。日が沈みかけている、このままでは門限を破ってしまうことになる。ヘンリ・ダラーは走っているのはひとえに母親からしかられないためだ。
「ふっふっはっ……」
左手の腕時計を見ると四時二十五分。あと五分で家につかなければならないが、ここから家まではおよそ一キロ。疲れた少年の体では明らかに達成不可能な試練だった。
「ぜぇぜぇ……」
彼の体力は限界に近かった。この先は二股の分かれ道。どちらに曲がっても家の距離は変わらないので、ヘンリは何も考えずに左に曲がった。ほぼ九十度の曲がり角を、体を傾けるようにして曲がる。
「ぐぅ……」
こけそうになりながらも何とか曲がりきった。曲がりきったが、その先には────
「ぜぇぜぇ……うわ!」
犬がいた。栗色と白の混じった大きな犬─────大型犬より大型な犬が。
え……よけきれない、ぶつかるっ!!
ヘンリは目をつぶり、直後に来るであろうクマのような犬との衝突の痛みを覚悟した。
ふわっ。しかし、その衝突は、彼が覚悟していたものとはだいぶ違った。
「え……?」
体が持ち上がってる?。どうして、何がおきたの……?
突如きた重力に逆らう力、彼はつむっていた眼を開いた。すると────
「気をつけないとあぶないわよ」
頭上にいた。数秒前眼前に現れた巨大な犬の頭上。しゃべる犬の頭上に……
「え? あ、な、…… う、うわぁあぁあ!!」
事象はヘンリの容量を超えた。彼はただ叫ぶだけだった。
「あぁ、ちょっと落ち着いてぇ。って、え? あ、ちょ…… こんなところで!?」
ヘンリを落ち着かせようとしていた巨大犬もまたなぜか叫びだした。何かそれにとって不測の事態が起きたらしく、もし表情があったならそれは当惑の一色であることが予想できる色の声。
ドシッ。ヘンリは落下した。土台が消えたことでそのまま自由落下。
「が……いてて」
何がなんだかわからない。どうしてお尻がいたいの……
状況は把握できていない。しかし痛みへの反応はする。これは人間の本能としておけばいいのか、彼は痛みのするところをさすろうと手を動かし、そして少し柔らかな感触を得た。
「ん?」
状況は把握できていない、しかし指への反応は感じる。これも人間の本能としておけばいいのか、ヘンリは柔らかな感触のしたところへ目を向けた。すると────
「……わ」
お尻がそこにあった。といっても当然自分のではない。そして、彼は自分が何かの上に座っていることに気づきあわてて立ち上がる。
「いてて……あ?」
痛みの引く光景が、痛みなど忘れてしまう衝撃が。彼は女の子を下敷きにしていた。うつ伏せになって倒れている女の子。お尻のあたりに尻尾のある女の子……
「え…… ちょっと、大丈夫っ!?」
どうして女の子が、さっき犬とぶつかりそうになって、浮いたと思ったら落ちて、そして尻尾のある女の子がいて…… いまだに現状はわからない。それでもヘンリは倒れている、おそらく自分のせいで倒れた女の子に大きな声をかける。
「……ん」
その呼びかけに女の子は気を取り戻し、そして眉を上げて驚きを表す。
「あ!」
そして自分の尻尾をあわてて押さえる。しかし、少年はすでにそれを認識していた。少女はヘンリの瞳からそれを察し、
「あちゃ。ん~仕方ないなぁ。君! ちょっと来てね!」
少女はヘンリの手をつかむと、逆らいようの無い力で引っ張っていく。そのまま走り出す。
「あ、ちょっと! どこに……」
ヘンリは舌をかみそうになり、あわてて口を閉じた。そんな彼にはお構いなしに、少女は駆け足で引っ張っていく。
「あたしミリィ、ミリアネス・エス・ランガルー。君は?」
「ヘ、ヘンリ」
舌をかまないように気をつけてミリィに名乗るヘンリ。どうして自分の名前を聞いたのか、数秒遅れてその問いが沸いてきたが、それに答えを出せぬまま次の言葉が。
「おっきな犬、みちゃった?」
「うん」
「あたしの尻尾、見ちゃった?」
「う、うん」
あちゃ~、と先ほどと同じ反応を示すミリィ。
もしかしたら……て思ったけどやっぱりそうよね。それなら、しょうがないよね?
「やっぱり。あぁ~ 契約成立か~……」
ヘンリはついていけない。ミリィの速すぎる走りにも、どんどん進んでいく会話にも。どちらにも着いていけないでただ引っ張られている。家はどんどん遠くになっていく。門限の時間はきっともう過ぎた……
「待って…… もう…… 走れない……」
ヘンリはついにギブアップ。ミリィはすぐにとまってくれた。
「あわわ。ごめんっ。人の子には早すぎたよね……」
ミリィはヘンリの体をぺたぺた触り、どこかけがはないかとたずねる。ヘンリは少し恥ずかしくなり、黙って首を横に振る。
「そっか、よかった~。ちょっと休憩しようね。そうだ、契約のお話しないと」
契約、そういえばさっきもそんなことをいっていた気がする。でも今は休みたい。
ヘンリは何も反応をしなかった。ミリィはそれを話を始めていいという意味だと受け取り、驚愕の一言を発する。
「 」
「え?」
疲れがどこかへ消えた。それほどの衝撃が右耳から飛び込んで左耳へ突き抜けた。
「だから、 」
ミリィはもう一度繰り返す。ヘンリは表情を変えない。驚きのまま、固まっている。
「ヨンゲルとスラーってお話知ってるでしょ?」
ヘンリは何も考えないままにうなずく。今は驚きでそれどころではなかったが、そんな状態でも反応できる題名。
『ヨンゲルとスラー』は子供なら誰でも知っているおとぎ話。
主人公の少年ヨンゲルと犬のスラーのお話。特徴は犬であるスラーが人語を解し、女の子の姿になれること。二人は森で出会い、互いに恋をして、そしてずっと楽しく暮らしていく。
「そのスラーはあたしのひいひいおばあちゃんなの」
ミリィは言う。自分の正体を見てしまったヘンリに。
「あたしの一族のおきてはね。自分の正体を見てしまった人間を食べるか……ずっといっしょにいることなの」
ここで彼女の先ほどの言葉、僕がそれを意味のある文として認識できなかった、あまりにありえなくて思わず聞き返してしまったそれをを思い出す。────これからいっしょにいなきゃいけないの、ずっと。
「だからね、とりあえずあたしの家に来てほしいの。これからの相談をするために。それにあたしのお父さんにも話をしないと────」
話がヘンリの容量を超えた。彼は後ろにパタリと倒れてしまった。
「ちょっと、大丈夫っ!?」
遠くからミリィの声が聞こえる。でもそれは小さな小さな声で、今よりもどんどん小さくなっていく。
ヘンリはまだ現状が理解できていない。薄れゆく意識の中、彼が思っていることはひとつ。
────あの道を右に曲がっていたら、きっと今頃家についていたのだろう。と。