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お父さんヒップホップで生きていくことにしたんだ  作者: はまゆう


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第4話「KENJI」

 代々木のスタジオは、地下にあった。

 階段を下りるたびに音が大きくなる。ドアを開けると、むっとした熱気と重低音が一度に来た。英二は少し目を細めた。

 この感じは、覚えていた。

 スタジオの奥で、男が一人で踊っていた。四十前後だろうか。細身で、動きに無駄がない。英二が入ってきたのに気づいても、曲が終わるまで止まらなかった。

 曲が終わった。

 男が振り返った。

「坂本さん?」

「はい」

「KENJIです」男は汗を拭いながら近づいてきた。握手をした。手が大きかった。「プロフ見ました。早稲田のダンスサークル、バトル優勝歴あり。で、十七年ブランク」

「そうです」

「正直に書いてくれてよかった」KENJIは英二をまっすぐ見た。「サバ読んで来るやつ、たまにいるんで」

 英二は苦笑した。「さすがにそれはしないです」

「じゃあ少し動いてみてください。何でもいい、昔やってたやつ」

 いきなりか、と思ったが、英二はフロアに出た。

 KENJIがスピーカーのボリュームを上げた。BPM90くらいのトラックが流れた。

 英二は目を閉じて、一拍聴いた。

 膝を落として、重心を下げた。肩を入れて、ポッピングで右腕を弾いた。ウェーブを作ろうとして、鎖骨のあたりでまた引っかかった。それでも続けた。八カウント、十六カウント。

 止めた。

 KENJIが腕を組んで見ていた。

「グルーヴは残ってる」

「でも」と英二は言った。

「でも体がついてきてない」KENJIが続けた。「わかってますよね、自分で」

「わかってます」

「何が一番気になりましたか、今動いてみて」

「アイソレーションの精度。あと全体的にテンポより半拍遅い」

 KENJIが少し表情を変えた。驚いた顔、というより、値踏みが終わった顔だった。

「自分を見る目はある」

「証券マンだったので。現実から目を逸らさない癖だけは染みついてて」

「バトルに出たいって書いてましたね」

「はい」

「いつ頃を目標にしてますか」

「一年以内に予選を通過したい」

 KENJIが少し黙った。

「四十五歳で、一年で」

「無理ですか」

「無理かどうかは俺が決めることじゃない」KENJIはフロアに出た。「ただ、遠回りしてる時間はないってことです。基礎からやり直す。でも初心者と同じペースじゃなくていい。坂本さんには体の使い方の記憶がある。それを掘り起こす作業から始めます」

 英二は頷いた。

「ひとつだけ聞いていいですか」

「どうぞ」

「なんでダンスをやめたんですか、十七年前」

 英二は少し考えた。

「あの時はバトル連勝して、やり切ったつもりだったんです。サークルの仲間も皆、就職してましたし。結婚したい人もいて——流れで、という感じでした」

「後悔は?」

「なかったと思ってました、ずっと」英二は少し間を置いた。「でも先月、病院で気づいた。気づかないふりをしてただけで」

 KENJIが「病院」という言葉に反応した。聞くか聞くまいか迷う顔をして、結局聞いた。

「倒れたんですか」

「過労です。十一月の終わりに、会議中に立てなくなって」

 英二は淡々と言った。もう何度か人に話した話だったから、声が揺れなかった。

 証券会社の営業部長というのは、プレイングマネージャーだった。自分でも顧客を持ち、数字を作りながら、二十人の部下の数字も見る。朝は七時半に出社して、夜は二十二時まで会議と資料と部下の相談が続く。キャンペーン企画、進捗管理、人事考課、コンプライアンス対応、大口顧客のクレームの最終窓口——全部、自分のデスクに積み上がった。

 それを十七年やった。

 途中から、何かがおかしかった。眠れない夜が増えた。朝、スーツのボタンを留める手が止まる日があった。それでも行った。部下が見ているから。数字があるから。ローンがあるから。

「倒れた日の朝も、普通に出社したんです」と英二は言った。「なんか変だなとは思ってたけど、その日に限って部下の査定面談が三件入ってて。自分のことは後回しにしてたら、昼前に足が動かなくなった」

 KENJIは黙って聞いていた。

「救急車を呼ぶのを部下に止めたんですよ。タクシーでいいって言って」英二は苦笑した。「最後まで営業部長だったんです、変な意味で」

「転職は」

「四十五歳の、過労で倒れた元営業部長を雇う会社は、そんなにないです」英二はフラットに言った。感情を乗せるより、事実として処理したほうが楽だった。「証券の営業スキルって、つぶしが利くようで利かない。同業他社は体が理由で難しい。異業種は年齢と給与のギャップがある」

「だからダンス、というわけじゃないですよね」

「違います」英二はKENJIを見た。「病院のベッドで、カウンセラーに聞かれたんです。あなたが一番生きていると感じた瞬間はいつですか、って」

「なんて答えたんですか」

「バトルで勝った瞬間、と言ったら、カウンセラーが困った顔をしてました」

 KENJIが初めて、聞こえる笑い声を出した。

「笑いごとじゃないんですけどね」と英二は言った。でも自分も少し笑っていた。「妻には本当に申し訳ないと思ってます。子供の学費もある。でももう身体的に、あの仕事には戻れない。年齢的に転職も難しい。だったら——」

「やり残したことをやる」

「世迷言だとはわかってます」

 KENJIはしばらく黙った。フロアに目を落として、また英二を見た。

「俺の持論があって」とKENJIは言った。「遅く始めたやつが、一番面白い、って」

「プロフに書いてましたね」

「本気でそう思ってます」KENJIはスピーカーの音量を少し下げた。「理由わかりますか」

「負けるものを知ってるから、ですか」

「惜しい。——本気で欲しいものがわかってるから、です」KENJIは言った。「二十歳のやつは、まだ何者かになれると思ってる。それは強みだけど、ぼんやりしてる。坂本さんは違う。何を取り戻したいか、なぜ取り戻したいか、全部はっきりしてる。それは武器です」

 英二は何も言わなかった。

 KENJIが「来週から週三で来てください」と言った。


 帰り道、英二はスマートフォンを取り出した。

 麻衣子にメッセージを打った。

いい師匠が見つかった。

 少し間があってから返ってきた。

よかった。今日ご飯コンビニでごめんね、またお米切らしてて。

 英二は苦笑した。

俺の分はいらない。腹筋してから帰る。

アスリートかよ笑 でも帰り遅くなるなら一言ちょうだいよ。心配するから。

 英二は画面を見つめた。

 麻衣子は怒らなかった。励ましも、しなかった。ただ「心配する」と言った。

 それが今の英二には、一番きつくて、一番ありがたかった。

ごめん。ありがとう。

 送って、スマートフォンをポケットに入れた。

 夜の代々木の道を、英二は歩いた。足が、少し軽かった。


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