第3話「麻衣子の流儀」
英二が出かけると、麻衣子はすぐにスマートフォンを取り出した。
LINEのグループを開く。「私立ママの会☆」——命名したのは麻衣子本人だ。メンバーは四人。結衣と同じクラスの子を持つ母親たちで、夫が大学の非常勤講師だったり、実家が資産家だったり、麻衣子には今ひとつ生活の解像度がわからない人たちだった。
今日ランチどうする〜?
と打って、ハートの絵文字をつけて送った。
三秒で既読がついた。
昼前に駅前のカフェに集まった。麻衣子が一番最後に入ると、三人がすでにメニューを開いていた。
「麻衣子さーん!こっちこっち」
手を振ったのは、夫が慶應の非常勤講師という由里子だ。今日もきれいなコートを着ている。麻衣子は自分のユニクロのダウンを内側に向けてたたみ、椅子の下に置いた。
「ごめんごめん、遅くなっちゃった!」
「全然!座って座って。何にする?」
「うーん」麻衣子はメニューを開いた。ランチセットが千八百円だった。「コーヒーだけでいいかな、今日お昼食べてきちゃって」
食べてきてはいなかった。
「え〜、一緒に食べようよ〜」
「ほんとに大丈夫、昨日の残りのパスタ食べすぎちゃって」
昨日の残りはなかった。正確には昨日の残りを今朝食べたので、今日の昼には何もなかった。
「そうなんだ〜。あ、そういえば」と由里子が声を落とした。「旦那さん、お仕事どうなったの?なんか体調崩されてたって聞いたけど」
「もう全然大丈夫!むしろ元気すぎて困ってるくらい」
「あら、よかった」
「ダンスとかやり始めちゃって」
「ダンス?」
「ヒップホップ」
三人が少し黙った。
「……それって」と由里子が慎重に言った。「趣味で?」
「まあ、そんな感じ〜!男のロマンってやつ?」
麻衣子はにっこり笑って、コーヒーを一口飲んだ。苦かった。
帰り道、スーパーに寄った。
カゴに鶏むね肉ともやしとキャベツを入れて、レジに並んだ。合計六百二十円。財布の中身を確認して、千円札を出した。
残り三枚。
家に帰ると誰もいなかった。麻衣子はエコバッグをテーブルに置いて、椅子に座った。
静かだった。
家計のメモを引き出しから出した。数字を見た。何度見ても同じ数字だった。ローン、学費、光熱費、食費——英二の退職金で今はなんとかなっているが、このペースだと来年の春には貯金を崩し始める。
麻衣子は深呼吸をした。
大丈夫、と心の中で言った。根拠はなかった。でも言わないと、やっていられなかった。
スマートフォンに英二からメッセージが来た。
体験レッスン、来週の土曜に予約した。
麻衣子は少し考えて、返信した。
いいじゃん!どんな感じだった?
絵文字はサムズアップにした。
英二からすぐ返ってきた。
体が正直だった。でも感覚は残ってた。
やるじゃん!
と返して、スマートフォンを置いた。
冷蔵庫を開けた。鶏むね肉、もやし、キャベツ、あとは卵が二個。
麻衣子は袖をまくって、フライパンを火にかけた。
夕方、結衣が帰ってきた。
「ただいまー……お母さん何してんの」
「塩麹鶏むね!ヘルシーでしょ」
「また?」
「また!だってお肉の中で一番好きなんだもん」
結衣が冷蔵庫を開けて「お米ないじゃん」と言った。
「あー!忘れた買うの」
「マジか」
「コンビニで何か買ってきて。はい」
麻衣子は財布から五百円玉を出した。
「五百円で何買えっていうの」
「おにぎりとチョコ!最強の組み合わせ」
「意味わかんない」と結衣は言いながら、五百円を受け取って玄関に向かった。「お父さんの分は?」
「お父さんはダンスやってる人だから炭水化物控えめでいいの」
「どういう理屈」
「アスリート理論!」
結衣が呆れた顔で出ていった。
麻衣子はフライパンを返しながら、小さく笑った。
笑い終わってから、少しだけ目が潤んだ。
気づかないふりをして、換気扇を強にした。




