第2話「体が、嘘をつかない」
スタジオを予約したのは、宣言から三日後だった。
渋谷から少し外れた雑居ビルの四階。エレベーターのない古いビルで、階段を上るたびに音楽が近づいてきた。ドアを開けると、鏡張りの部屋に二十代とおぼしき男女が五、六人、思い思いに体を動かしていた。
誰も英二を見なかった。
それが少し、ありがたかった。
更衣室でスウェットに着替えながら、英二は自分の足を見た。四十五歳の足だった。当たり前だが、大学のときとは違った。すねの皮膚が少し乾いていた。
鏡の前に立った。
まず、音なしでやってみた。体の確認だ。首から始めて、肩、腰、膝。昔の動きを一つひとつ思い出しながら、ゆっくりとなぞった。
動く。
動くが——重かった。
ポッピングで腕を弾こうとすると、肘から先がうまく分離しない。波を作ろうとすると、鎖骨のあたりで引っかかる。頭でわかっているのに、体がワンテンポ遅れてついてくる。
十七年という時間が、そういう形をしていた。
英二はイヤホンを耳に入れ、プレイリストを流した。昔よく聞いていたトラックだ。BPM95、重めのビート。体が少しだけ反応した。膝が自然に曲がって、重心が下がる。
その感覚だけは、まだ残っていた。
一時間、基礎だけやった。フロアに下りてブレイクをやろうとして、膝が笑った。情けないとは思わなかった。ただ、正確に現状を把握した。営業部長として十七年間磨いてきた、現実から目を逸らさない癖だった。
俺は今、初心者より少しマシなところにいる。
帰り際、受付の若い女性がにこりと笑って「またどうぞ」と言った。英二は「はい」と答えて、階段を下りた。
外に出ると、渋谷の夜の空気が体に触れた。
スマートフォンに麻衣子からメッセージが入っていた。
夕飯、残してあります。
それだけだった。「どうだった」とも「早く帰ってきて」とも書いていなかった。英二は「ありがとう」と返して、駅に向かった。
その夜、英二は深夜二時まで動画を見た。
現役のバトラーたちの映像だ。国内のシーン、海外のシーン。十代、二十代の選手たちが、英二の知らない進化をした動きで床を制圧していた。
十七年で、ダンスも変わっていた。
自分が現役だった頃のスタイルは、今では「クラシック」と呼ばれる側に入る。それ自体は強みにもなり得る。ただ問題は、クラシックをやり込んだベースがあるかどうかだ。英二のベースは今日の鏡の前で、かなり正直に崩れていた。
積み上げ直すしかない。
英二は検索した。都内のダンスクラス、ヒップホップ、初心者歓迎——そこで手が止まった。
初心者歓迎。
四十五歳の元営業部長が、初心者歓迎のクラスに入る。
おかしくはない。論理的には正しい。でも何かが引っかかった。プライドと呼ぶには情けない引っかかりだったが、確かにあった。
英二はページを閉じて、別の検索をした。
ヒップホップ 中級 30代以上 東京
一件、ひっかかった。
代々木のスタジオ。インストラクターの名前は「KENJI」。プロフィール写真の男は、英二より少し年下に見えた。細身で、目つきが鋭い。
経歴を読んで、英二は手を止めた。
国内主要バトル複数優勝。渡米経験あり。現在は指導を中心に活動。「遅く始めたやつが、一番面白い」が持論。
英二はスタジオの体験予約フォームを開いた。
名前の欄に「坂本英二」と入力しながら、年齢の欄で少し迷った。
正直に書いた。四十五、と。
翌朝、麻衣子が朝食の皿を並べながら、何気なく聞いた。
「昨日どうだったの」
英二はトーストを手に取りながら答えた。
「体が正直だった」
麻衣子は「そう」と言って、自分のコーヒーを飲んだ。
それ以上、聞かなかった。
英二には、それが「まだ信じていない」ではなく「まだ判断しない」に聞こえた。妻はそういう女だった。証拠が出るまで、待つ。
蓮が寝ぼけた顔で食卓に来て「お父さん今日どこ行くの」と聞いた。
「ダンスの練習」
「また?」
「また」
「お父さんてほんとにダンスできるの?」蓮はジャムをパンに塗りながら聞いた。
「見せてよ」
「うまくなったらな」
「今見せてよ」
「うまくなったら」
蓮が「けちー」と言った。英二は苦笑した。
結衣はまだ起きてこなかった。




