第1話 夢よもう一度
十月の終わり、土曜の夜だった。
鍋の湯気が食卓の上でゆっくりと漂い、テレビではバラエティ番組の笑い声が流れていた。麻衣子が豆腐を切りながら「蓮、ちゃんと座って」と言い、小学四年の息子が「はーい」とソファから転がり落ちるように席についた。
英二は箸を持ったまま、湯気をぼんやりと見ていた。
四十五歳。三ヶ月の休職を経て、先週退職届を出してきた。十七年勤めた証券会社を、営業部長というポストを、退職金と引き換えに置いてきた。
麻衣子はすでに知っている。先月、二人で話した。あのときの妻の顔を、英二はまだうまく思い出せない。泣かなかった。怒鳴らなかった。ただ「で、どうするつもりなの」と聞いた。それだけだった。
娘の結衣はスマートフォンを見ながら白菜を口に運んでいた。中学二年、十四歳。最近めっきり英二と目を合わせなくなった。思春期というやつだと思っていたが、もしかしたら休職中の父親をどう扱えばいいかわからないだけかもしれなかった。
「なあ」
英二は口を開いた。
麻衣子の手が止まった。結衣がスマートフォンから目を上げた。蓮だけが白菜を追いかけていた。
「お父さん、ヒップホップで生きていくことにしたんだ」
二秒、沈黙があった。
「……ヒップホップ?」と蓮が聞いた。「なにそれ」
「ダンスだよ。お父さん、大学のときダンスやってたんだ」
「ダンス?」蓮の目が丸くなった。「お父さんが?」
「そう」
「うそだあ」
「本当だ」
蓮がけらけら笑った。その笑い声だけが、やけに場違いに響いた。
結衣は笑わなかった。スマートフォンをテーブルに伏せて、じっと英二を見た。
「……仕事として、ってこと」
「そう」
「インストラクターとか?」
「それだけじゃなくて。バトルにも出たいし、いずれは自分のスタジオも——」
「英二さん」
麻衣子の声だった。お玉を鍋に戻して、エプロンで手を拭いて、椅子を引いて座った。その一連の動作がやけに整然としていて、英二には「準備していた」ように見えた。
「蓮、ちょっとテレビ見てていいよ」
「え、ご飯は?」
「持っていっていい」
蓮は疑問符を顔に浮かべながらも、皿を持ってソファに移動した。テレビの笑い声がまた遠くなった。
三人になった食卓で、麻衣子は英二を見た。
「いくら退職金もらったか、わかってるよね」
「わかってる」
「結衣の学費、あと四年。蓮の私立受験、来年。住宅ローン、あと十一年」麻衣子は指を折るでもなく、すらすらと言った。頭の中でずっと計算していたのだと英二は思った。「私のパートで足りる額じゃない」
「わかってる」
「わかってて言ってるの」
「わかってて言ってる」
麻衣子が小さく息を吐いた。怒鳴らない女だった。でもその静けさが、英二にはいつも正確に刺さった。
結衣がぽつりと言った。
「お父さんのダンス、YouTubeで見たことある」
英二は娘を見た。
「友達には言ってないけど」と結衣は続けた。目を伏せたまま、箸でえのきをつついた。「……かっこよかった、とは思った」
「結衣」と麻衣子が制した。
「本当のことじゃん」
「今はそういう話をしてるんじゃない」
沈黙が戻った。
英二は三ヶ月前の病院のベッドを思い出した。天井の染みを数えながら、カウンセラーの質問を聞いていた。あなたが一番、生きていると感じた瞬間はいつですか。
一秒も迷わなかった。
新宿のクラブ。夜中の二時。汗と音楽と、床を踏む足の感触。バトルで勝った瞬間、観客が沸いた音。あのとき自分の体は完全に「自分のもの」だった。その感覚だけが、十七年経っても色褪せていなかった。
十七年。毎朝スーツを着て、数字を追いかけて、部下の失敗を庇って、それでも昇進して——何かを積み上げた気でいたが、病院のベッドの上では何も持っていなかった。体だけがあって、動かなかった。
「学費は、何とかする」
英二は言った。根拠はなかった。でも嘘をついている気はしなかった。
麻衣子は何も言わなかった。しばらくして立ち上がり、また鍋をかき混ぜ始めた。
「今日はご飯食べましょう。話はまた」
それだけだった。
蓮がソファから「お母さん、おかわりー」と呼んだ。麻衣子が「自分で来て」と返した。いつもと同じやり取りだった。
結衣が箸を取り直して、ぼそりと言った。
「……ちゃんとやれるの」
英二は娘を見た。怒っているわけでも、応援しているわけでもない顔だった。ただ、真剣だった。
「やる」
結衣は何も言わなかった。でも箸を動かしながら、少しだけうつむいた。
英二には、それが「わかった」に聞こえた。
食卓に湯気が漂っていた。テレビが笑っていた。英二は白菜を口に入れて、よく噛んだ。




