第1話「座標:自宅」
【世界観】
舞台は、現代の日本。
海の近い住宅街。放課後のコンビニ。ありふれた日常。
ただし、ごく一部の人間だけが知っている「別の層」が存在する。
それは、現実と重なるように広がる仮想空間。
接続する方法も、存在の証明も、公式には一切残っていない。
内部は現実とほとんど変わらない街並みだと言われている。
石畳の感触。建物の影。風の流れ。
けれど、よく見るとどこかがズレている。
床の座標が微妙に歪んでいたり、
影の角度が現実の物理法則に合わなかったり。
まるで、巨大な世界の“継ぎ目”が時々見えてしまうような、
静かな違和感のある場所。
その空間を、非公式に調査する人間たちがいる。
彼らは戦わない。
記録し、帰り、また潜る。
誰にも知られないまま続いてきた、長い観測の歴史。
上原家は、その観測に関わってきた家系のひとつだ。
【能力について】
仮想空間に深く関わった人間の中には、
稀に“何か”が起きることがある。
それが能力なのか、ただの適性なのかは、
まだ誰にも分かっていない。
名前が付けられているものもあるが、
それが本当に正しいのかは不明。
ただ一つだけ言えるのは、
――帰れる人と、帰れない人がいる。
【登場人物】
■ 上原 そら(15歳・高校一年生)
不器用で、紙飛行機すらうまく折れない少年。
けれど仮想空間では、指先の感覚が妙に鋭い。
家のことを「変だ」と思いながらも、
何も知らされていない自分にどこか焦っている。
怖いと思うことはある。
でも、置いていかれることの方がずっと怖い。
■ 上原 ひな(17歳・高校三年生)
姉。自称「完璧な操作技術の持ち主」。
できているつもりで、少しズレていることも多い。
それでも弟を守ろうとする気持ちは本物で、
危険を感じた瞬間だけ空気が変わる。
楽観的に見えて、誰よりも責任を背負っている。
■ 上原 ゆい(母)
静かな人。怒る時ほど声が低くなる。
家では普通の母親に見えるが、
何かをずっと見続けているような目をしている。
子どもたちに説明しないことが多い。
それが優しさなのか、恐れなのかは分からない。
■ 上原 たいち(父・不在)
明るくて、よく笑う人だったらしい。
ある調査のあと、帰ってきていない。
詳しい理由は、家族の中でもあまり語られない。
■ なお(同級生)
そらの親友。ツッコミ担当。
能力の話は全部「はいはい中二ね」で流してくれる存在。
普通の視点を持つ、日常側のアンカー。
■ しおり(観測者)
同じクラスの女子。
メガネ、ショートボブ、静かな雰囲気。
そらとはほとんど会話しない。
ただ、なぜか“おかしな瞬間”だけを目撃してしまう。
物語の外側から、ずっと見ている人。
光の街は、音が少ない。
夕焼け色の空の下、石畳の道がまっすぐ伸びている。建物の窓ガラスは現実と同じように光を反射し、風に揺れる木の葉は、本物みたいな音を立てていた。
でも、よく見ると何かが違う。
建物の影の角度が、ほんの少しだけ合わない。
道の端の石畳が、ノイズみたいに一瞬ちらつく。
ここは現実じゃない。
現実と並走する「仮想空間層」――調査員だけが出入りする世界だ。
「ちょっと、そら。そこ踏まないで」
空中に浮かんだ半透明のパネルを操作しながら、上原ひなが声を上げた。高校三年生の姉は、指先で光の線をなぞりながら、真剣な顔をしている。
「なんで」
弟の上原そらが足を止める。高校一年生。制服姿のまま、この仮想空間に接続している。
「床の座標ズレてる。踏んだら落ちる可能性ある」
「……床がズレる世界って何なん」
「仮想空間だからね?」
ひなは当然みたいに言った。
そらがしゃがみ込んで地面を見る。石畳の一枚だけが、微妙に傾いていた。影の方向もそこだけ違う。
「……今日のエリア、なんか変じゃない?」
「未記録層だから。母さんも『ログが薄い』って言ってたし」
「ログが薄いって、何が起きるの」
「何が起きるか分からないってこと」
ひなが空中をなぞる。
細い光の線が一本、街の奥へ伸びた。
ガイド。
空間の座標を計算し、帰還ルートを可視化する能力。
「はい完成。完璧なガイド」
ひながドヤ顔で振り返る。
「その完璧、現実だと三割じゃん」
「七割!」
「盛ったな」
二人が笑いながら歩き出す。
遠くで、電子音みたいな警告が鳴った。
『調査終了まで、残り六十秒』
「帰るよ。捕まって」
「また手繋ぐの?」
「またです。あんた一人だと座標ズレるでしょ」
そらは少し迷ってから、ひなの手を握った。
「帰りたい場所をちゃんとイメージして。家。リビング。ソファの前」
「説明雑すぎ」
「うるさい!」
光が弾ける。
街が白く反転した。
*
次の瞬間。
二人は自宅のリビングに立っていた。
住宅街にある、少し古い一軒家。
窓から夕日が差し込んでいる。
「よし! ガイド成功!」
ひなが胸を張る。
そらは天井を見上げた。
「……ちょっとズレた気がする。俺さっきソファの後ろにいなかった?」
「気のせい。誤差!」
キッチンから声が落ちてくる。
「……帰ってきたのね」
母・上原ゆいが振り返った。エプロン姿のまま、静かな目で二人を見る。
この家は普通の家庭に見える。
でも三人とも、仮想空間を行き来する「調査員の家系」だった。
「違和感は?」
ゆいがそらを見る。
「ない。ねーちゃんが完璧だったから」
「完璧だってば!」
「……そう」
短い返事。
ゆいの視線が、ほんの少し長くそらに止まる。
「帰還後は、自分の体を確認しなさい。指の感覚、足の重さ、全部現実に戻っているかどうか」
「分かってる」
ゆいは小さく息を吐いた。
「……ログが、少し赤いの」
ひなが顔を上げる。
「何かいた?」
「……まだ分からない」
それ以上は言わなかった。
*
夕食後。
リビングのソファに寝転びながら、そらがぽつりと言う。
「ねーちゃん」
「ん?」
「うちの家って、変だよな。ワープとか調査とか……普通の家庭、しないぜ」
ひなの動きが止まる。
「……私も前はそう思ってたよ」
「前はって何だよ」
「秘密」
「ずるっ」
ひなが笑う。でも目は少しだけ遠かった。
「ワープもまともにできないあんたには、まだ教えられない」
「俺だってできるし!」
「じゃあ見せてみなさいよ」
少しの沈黙。
次の瞬間。
ひながふっと消えた。
数メートル先に現れる。
「別に家以外でもできるもん」
「な!!」
そらの中で何かが弾けた。
「ずるいだろ! 俺何も知らないんだけど!」
一歩踏み出した瞬間。
空気が揺れた。
気づいたとき、そらはひなの背後に立っていた。
「……え?」
ひなが振り返る。
(手の感触は前にあったのに……体は後ろにいる?)
そらは気づかない。
「俺だって……置いていかれたくないんだよ!」
*
夜。
ベッドの上。
「……俺も、ちゃんと帰れるようになりたいな」
小さな独り言。
その瞬間。
体の位置が、わずかにズレた。
本人は気づかない。




