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プロローグ

その街は、どこにでもある住宅街だった。


 海から少し離れた坂道。夕方になると、窓の奥から晩ごはんの匂いが流れてくる。制服のままコンビニに寄り道する高校生も、部活帰りの笑い声も、全部いつも通り。


 ――ただ、ごく一部の人間だけが知っている。


 この世界には、もうひとつ“重なっている場所”があることを。


 現実と似ているのに、どこかが少しだけ違う街。


 石畳は同じ形をしているのに、影の向きが合わない。

 風は吹くのに、音が遅れて届く。


 そこでは、帰ることが何よりも大事だと言われている。


 誰が最初に入り、誰が帰れなかったのか。

 記録は残らない。名前も残らない。


 ただ、「帰れる人」と「帰れない人」がいる――それだけが静かに語り継がれていた。



「ねーちゃん、これ普通じゃなくね?」


 放課後の帰り道。

 上原そらがぼそっと言った。


「なにが」


 隣を歩く姉、ひなが振り返る。


「うちの家。調査とか、ログとか。さすがに変だろ」


「……まぁ、普通ではないかもね」


 ひなは笑ってごまかした。


 明るくて、少し雑で、でも妙に前を歩く人。


 そらはその背中を見ながら思う。


 この人、できてるフリが上手いんだよな、と。


 それでも、危ない瞬間だけは空気が変わる。


 まるで“帰り道”を知っているみたいに。



 夜。


 上原家のリビング。


 母・ゆいは、誰もいない空間を見つめていた。


 普通の目には見えない、薄い光の列。


 帰還履歴。


 座標。


 そして、途中で切れた名前。


 指先が、空をなぞる。


「……まだ、消えないのね」


 小さな声。


 誰にも聞こえない。


 けれど家の空気は、少しだけ重い。


 この家では、いくつかのことが当たり前だった。


 “層”という言葉。

 “ガイド”という技術。

 そして――帰れなかった誰かの話。



 学校では、誰もそんな話を信じない。


「はいはい能力者」


 親友のなおが笑う。


 そらは少しむくれるけど、どこか安心もしていた。


 全部、冗談みたいに流してくれるから。


 窓際の席では、静かな女子が本を開いている。


 メガネ越しの視線が、ふとそらを追う。


 話しかけることはない。

 ただ、時々“変な瞬間”だけを見てしまう。


 それが何なのかは、まだ分からない。



 夜のベランダ。


「……ねーちゃん」


「ん?」


「もしさ、帰れなくなったらどうする」


 ひなは少しだけ考えてから答えた。


「帰るよ」


「どうやって」


 小さな沈黙。


 風が吹く。


「……帰れる場所がある限り、かな」


 軽い言葉。


 でもどこか、本気だった。


 その時。


 遠くの空が、一瞬だけ歪んだ気がした。


 誰も気づかない。


 まだ、何も始まっていない。


 これは、帰ることを覚えていく物語。


 そして――


 帰らせる側になる、ひとりの少年の話。

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