プロローグ
その街は、どこにでもある住宅街だった。
海から少し離れた坂道。夕方になると、窓の奥から晩ごはんの匂いが流れてくる。制服のままコンビニに寄り道する高校生も、部活帰りの笑い声も、全部いつも通り。
――ただ、ごく一部の人間だけが知っている。
この世界には、もうひとつ“重なっている場所”があることを。
現実と似ているのに、どこかが少しだけ違う街。
石畳は同じ形をしているのに、影の向きが合わない。
風は吹くのに、音が遅れて届く。
そこでは、帰ることが何よりも大事だと言われている。
誰が最初に入り、誰が帰れなかったのか。
記録は残らない。名前も残らない。
ただ、「帰れる人」と「帰れない人」がいる――それだけが静かに語り継がれていた。
*
「ねーちゃん、これ普通じゃなくね?」
放課後の帰り道。
上原そらがぼそっと言った。
「なにが」
隣を歩く姉、ひなが振り返る。
「うちの家。調査とか、ログとか。さすがに変だろ」
「……まぁ、普通ではないかもね」
ひなは笑ってごまかした。
明るくて、少し雑で、でも妙に前を歩く人。
そらはその背中を見ながら思う。
この人、できてるフリが上手いんだよな、と。
それでも、危ない瞬間だけは空気が変わる。
まるで“帰り道”を知っているみたいに。
*
夜。
上原家のリビング。
母・ゆいは、誰もいない空間を見つめていた。
普通の目には見えない、薄い光の列。
帰還履歴。
座標。
そして、途中で切れた名前。
指先が、空をなぞる。
「……まだ、消えないのね」
小さな声。
誰にも聞こえない。
けれど家の空気は、少しだけ重い。
この家では、いくつかのことが当たり前だった。
“層”という言葉。
“ガイド”という技術。
そして――帰れなかった誰かの話。
*
学校では、誰もそんな話を信じない。
「はいはい能力者」
親友のなおが笑う。
そらは少しむくれるけど、どこか安心もしていた。
全部、冗談みたいに流してくれるから。
窓際の席では、静かな女子が本を開いている。
メガネ越しの視線が、ふとそらを追う。
話しかけることはない。
ただ、時々“変な瞬間”だけを見てしまう。
それが何なのかは、まだ分からない。
*
夜のベランダ。
「……ねーちゃん」
「ん?」
「もしさ、帰れなくなったらどうする」
ひなは少しだけ考えてから答えた。
「帰るよ」
「どうやって」
小さな沈黙。
風が吹く。
「……帰れる場所がある限り、かな」
軽い言葉。
でもどこか、本気だった。
その時。
遠くの空が、一瞬だけ歪んだ気がした。
誰も気づかない。
まだ、何も始まっていない。
これは、帰ることを覚えていく物語。
そして――
帰らせる側になる、ひとりの少年の話。




