婚約破棄を告げられたので『ありがとうございます!』と笑顔で答えたら、王子が真っ青になった件
婚約破棄を告げられたので『ありがとうございます!』と笑顔で答えたら、王子が真っ青になった件
「——よって本日をもって、エリアーナ・フォルトゥーナとの婚約を破棄する」
年に一度の建国祭。王宮の大広間に、第一王子アルベルトの声が響き渡った。
周囲のどよめきが、他人事のように聞こえる。
ああ、やっと来た。
この日を、どれほど待ったことか。
「エリアーナ、お前は退屈な女だった」
殿下は私を見下ろし、吐き捨てるように言った。腰に手を当て、顎を上げ、芝居がかった仕草で宣言する。昔からそうだ。この人は、自分が世界の中心だと本気で信じている。
「いつも控えめで、華がなく、まるで日陰の花のようだ。俺は王妃に太陽のような女を求めている。お前ではない」
隣に寄り添う金髪の令嬢——男爵令嬢セレナが、これ見よがしに殿下の腕にしがみついた。
「可哀想なエリアーナ様」
セレナは私を見下ろし、唇を歪めた。
「七年間も殿下にお仕えして、最後はこんな形だなんて。でも仕方ありませんわよね? 殿下を退屈させるような女に、王妃の資格はありませんもの」
周囲から忍び笑いが漏れる。セレナ派の令嬢たちだ。
「ねえ、エリアーナ様。今どんなお気持ち?」
セレナは小首を傾げた。その目に浮かんでいるのは、純粋な悪意だ。
「七年間、必死に殿下に媚びて、尽くして、それでも捨てられた気分は? ああ、お可哀想」
彼女は殿下の腕を抱きしめ、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「殿下は私がお支えしますから。あなたは静かに田舎にでもお引きこもりになって、一生独身で過ごせばいいのよ。誰があなたみたいな『お下がり』をもらうのかしら? ふふ、あ、そうだわ——」
セレナは、わざとらしく口元に手を当てた。
「エリアーナ様、もしよろしければ、私の屋敷で下働きとして雇って差し上げてもよくってよ? 元・王子の婚約者が私の足元で床を磨くなんて、素敵だと思いません?」
大広間に笑い声が広がった。セレナの取り巻きたちが、嘲笑を隠そうともしない。
殿下も愉快そうに笑っている。
「はっはっは、セレナ、お前は本当に面白いな。いいぞ、エリアーナ。せいぜい惨めに暮らすがいい」
私は黙って聞いていた。
七年間、こういう声にずっと耐えてきた。
陰口。嘲笑。侮辱。
ある夜会では、私のドレスに「うっかり」ワインをこぼした令嬢がいた。セレナの友人だった。殿下は笑って見ていた。「お前、そのくらいで泣くなよ。みっともない」と。
私は泣かなかった。微笑んで「大丈夫ですわ」と言った。
それが婚約者の務めだと、自分に言い聞かせて。
でも——
もう、終わりだ。
私は深呼吸をした。そして——
「ありがとうございます!」
満面の笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
沈黙。
大広間の空気が凍りついた。
顔を上げると、殿下は口を半開きにしていた。セレナも目を丸くしている。
「……は?」
「心より感謝申し上げます、殿下」
私は胸に手を当て、もう一度頭を下げた。今度はゆっくりと、丁寧に。
「この日を、どれほど待ち望んでいたことか!」
「何を……言っている?」
殿下の声が裏返った。
「私、毎晩神に祈っておりましたの。どうかこの婚約が終わりますようにと」
「ふ、ふざけるな! 俺との婚約を嫌がる女などいるはずが——」
「いますわ」
私は殿下の目を真っ直ぐに見た。もう、視線を伏せる必要はない。
「ここに」
大広間がざわめいた。
殿下の顔が引きつる。
「お前——」
「正直に申し上げますわね、殿下」
私は一歩前に出た。
「七年間、本当に苦痛でした」
その一言で、大広間が静まり返った。
「殿下のお話は、いつも同じでしたわ。『今日の狩りで俺が一番だった』『剣術の稽古で師範を打ち負かした』『俺の判断が国を救った』」
私は指を折って数えた。
「週に三回は聞かされました。同じ話を。何度も、何度も」
くすくすと、どこからか笑い声が漏れた。殿下の顔が赤くなる。
「私が相槌を打つと、殿下は満足そうにお笑いになる。でも私が少しでも意見を述べると、殿下は不機嫌になられる」
私は殿下を見上げた。
「『女が口を出すな』『お前は黙って頷いていればいい』——何度言われたか覚えていらっしゃいます?」
殿下は答えられなかった。
「三年前の夜会を覚えていらっしゃいますか?」
私は続けた。
「隣国との貿易協定について、私が意見を述べた時のことです。協定の条件に不備があると、根拠を示して申し上げた」
殿下の顔が強張った。
「そうしたら殿下は何とおっしゃいました? ——『女が政治に口を出すな。お前は笑って俺の隣にいればいい』。大勢の貴族の前で」
「あ、あれは——」
「結局、その協定は翌年破棄されました」
私は淡々と告げた。
「私が指摘した通りの問題が発生したからです。国庫に莫大な損失が出ましたわね。でも殿下は一度も、私に謝罪なさらなかった」
大広間にどよめきが広がった。視線が殿下に集中する。好奇、軽蔑、嘲笑——さっきまで私に向けられていたものが、今は殿下に向かっている。
「し、知らなかった——俺は報告を受けていない——」
「お父上には報告が上がっていましたわ」
私は国王陛下に視線を向けた。
「陛下、三年前の貿易協定の件、殿下にはお伝えになりましたか?」
玉座の陛下は、深いため息をついた。
「伝えた。だが、この愚か者は『女の言うことなど偶然当たっただけだ』と聞く耳を持たなかった」
大広間が凍りついた。
殿下の顔から、血の気が引いていく。
「ち、父上——! なぜそれを——!」
「黙れ。恥の上塗りをするな」
陛下の冷たい一言に、殿下は口をつぐんだ。
私は殿下に向き直った。
「殿下がお気づきでないことを、一つお教えしましょうか」
「……何だ」
「私が『退屈な女』を演じていたのは、殿下のお好みに合わせていたからです」
殿下の目が見開かれた。
「殿下は、自分より優れた人間がお嫌いでしょう?」
私は一歩、また一歩と殿下に近づいた。
「剣術大会で殿下に勝った騎士は、翌月、辺境に左遷されました。学術討論で殿下を言い負かした文官は、閑職に追いやられました。殿下より賢い女性は、『可愛げがない』『生意気だ』と遠ざけられました」
大広間がざわつく。思い当たる者が多いのだろう。
「だから私は、愚かな振りをしていましたの」
私は微笑んだ。
「殿下を立てるのが婚約者の務めですもの。私が優秀だと知れたら、殿下のお気に召さないでしょう?」
「う、嘘だ——」
「嘘ではありませんわ」
私は再び国王陛下を見た。
「陛下。私の学業成績をお教えいただけますか?」
陛下は頷いた。
「エリアーナ嬢は、王立学院始まって以来の才女だ。全教科首席。魔法、剣術、共に最優秀。その記録は今も破られておらぬ」
大広間がどよめいた。
「さらに言えば——」
陛下は続けた。
「三年前の貿易協定の問題点を指摘した報告書は、エリアーナ嬢が作成したものだ。宰相も舌を巻く出来栄えだった」
「そんな——」
殿下が後ずさった。
「知らなかった——俺は何も——」
「ええ、ご存知なかったでしょうね」
私は静かに言った。
「七年間、一度も私を見ようとなさらなかったのですから」
殿下の顔が蒼白になった。
その時——
「嘘よ!」
金切り声が響いた。
セレナだ。顔を真っ赤にして、私を睨みつけている。
「全部嘘に決まってる! この女は殿下に捨てられたから、でたらめを言って——」
「セレナ様」
私は冷ややかに彼女を見た。
「あなた、さっき私に何とおっしゃいました?」
「え?」
「『下働きとして雇って差し上げる』『床を磨け』——そうおっしゃいましたわよね」
セレナの顔が引きつった。
「よくもまあ、公爵令嬢に向かってそんな口が利けたものですわね」
私は一歩、セレナに近づいた。
「男爵令嬢の分際で」
セレナが後ずさる。
「な、何よ——私はもうすぐ王太子妃になるのよ——!」
「なれませんわ」
私は首を傾げた。
「だって、あなた——間者ですもの」
大広間が凍りついた。
「な——何を——」
「レイモンド子爵。あなたの従兄ですわね」
セレナの顔から血の気が引いた。
「三日前、子爵が国外逃亡しましたわ。隣国への内通が発覚して」
「わ、私は関係ない——!」
「関係ない?」
私は懐から一通の手紙を取り出した。
「では、これは何かしら」
セレナの目が見開かれた。
「あなたが子爵に送った手紙ですわ。私の情報網が写しを入手しましたの」
私は手紙を広げ、声に出して読み上げた。
「『計画通り、王子を手中に収めました』」
大広間がざわめく。
「『あの単純な男は、少し媚びれば何でも信じます。色目を使えばすぐに夢中になる。王家の情報は思いのままです』」
殿下の顔が土気色に変わった。
「『フォルトゥーナの小娘を追い出せば、王妃の座は私のもの。あの陰気な女さえいなくなれば、王宮は我々の思うがままになるでしょう』」
私は顔を上げ、セレナを見た。
「——『ああ、それにしても退屈な茶番。馬鹿な王子の相手をするのも楽ではありません。早く任務を終えて、報酬をいただきたいものです』」
大広間が騒然となった。
「嘘よ! 偽造よ! そんな手紙、書いた覚えはない!」
「あら、そうですか?」
私は微笑んだ。
「では、筆跡鑑定をいたしましょうか。宰相閣下、お願いできます?」
宰相閣下が進み出た。
「すでに鑑定済みです。筆跡はセレナ・レイモンドのものと一致。また、手紙に使用された封蝋は、レイモンド家のものと確認されております」
セレナの顔が蒼白になった。
「そ、それは——」
「さらに申し上げますと」
宰相閣下は淡々と続けた。
「セレナ嬢がレイモンド子爵邸を訪れた日時と、王家の機密情報が隣国に漏洩した日時が、全て一致しております」
「違う! 私は——!」
「セレナ・レイモンド」
衛兵たちがセレナを取り囲んだ。
「国家反逆罪の容疑で拘束する」
「嫌! やめて!」
セレナが殿下にすがりついた。
「アルベルト様! 助けて! 私は本当にあなたを愛して——」
「うるさい!」
殿下がセレナの手を振り払った。
「俺に近づくな! この——裏切り者が!」
セレナが目を見開いた。
「アルベルト様——?」
「お前に騙されていたのか——! 俺は——俺は——!」
殿下は頭を抱え、よろめいた。
セレナの顔が、みるみる歪んでいった。
「——ふん」
嘲笑だった。
「何が『騙された』よ。あなたが勝手に騙されただけでしょう?」
大広間が静まり返った。
セレナは、もう取り繕うことをやめていた。
「ちょっと色目を使えばすぐにデレデレ。『お前は太陽だ』『愛している』——笑わせないでよ。私があなたを愛するわけないじゃない」
「セレナ——!」
「だって、あなた——」
セレナは、心底軽蔑した目で殿下を見た。
「本っ当につまらない男だもの」
殿下が凍りついた。
「自慢話は退屈。顔はまあまあだけど、中身は空っぽ。権力がなければ、誰にも相手にされないような男」
セレナは肩をすくめた。
「エリアーナ様はよく七年も我慢したわね。私なんて半年で限界だったのに」
殿下の顔が、蒼白を通り越して灰色になった。
「あ——」
「連れていけ」
宰相閣下が命じた。
衛兵たちがセレナを引きずっていく。
「離して! ——ああ、そうだ、最後に一つだけ!」
セレナは振り返り、殿下を見た。
「あなたとの夜、全然気持ちよくなかったわよ! 演技するの大変だったんだから!」
その言葉が、大広間に響き渡った。
一瞬の沈黙。
そして——
どこからか、笑い声が上がった。
最初は小さく。やがて、大きく。
大広間のあちこちで、貴族たちが笑いをこらえきれずに肩を震わせている。
殿下は、立ち尽くしていた。
顔は真っ赤で、目には涙が浮かんでいる。怒りなのか、屈辱なのか、悲しみなのか——おそらく、全部だろう。
「殿下」
私は静かに呼びかけた。
殿下がゆっくりと私を見た。その目に、もはや尊大さの欠片もない。
「これが——」
私は微笑んだ。
「殿下がお選びになった『太陽のような女』の正体ですわ」
殿下は何も言えなかった。
「殿下は私を『退屈』とおっしゃいました。『日陰の花』と」
私は一歩、後ろに下がった。
「でも、私は殿下に誠実でしたわ。七年間、一度も嘘をつかなかった。裏切らなかった。殿下のために、自分を殺してまで尽くしました」
殿下の顔が歪んだ。
「それを——それを、お前は——」
「ええ、お捨てになったのですわ」
私は静かに言った。
「ご自分の意思で」
殿下が膝から崩れ落ちた。
「嘘だ——こんなはずでは——」
「嘘ではありませんわ」
私は殿下を見下ろした。
七年間、見上げ続けた相手。今は、私の足元で跪いている。
「殿下、一つ教えて差し上げましょうか」
「……何だ」
「私、ずっと不思議だったんです。なぜ殿下は、セレナ様のような女性に惹かれたのかと」
殿下が顔を上げた。
「でも、今わかりました」
私は微笑んだ。
「殿下は、耳障りの良い嘘がお好きなのね。真実よりも、心地よい幻想を選ぶ。だから私の誠実さより、セレナ様の甘言を選んだ」
殿下の目が見開かれた。
「それは——」
「似た者同士だったのですわ、殿下とセレナ様は」
私は肩をすくめた。
「お互いに、見たいものしか見ない。聞きたいことしか聞かない。——お似合いだったのではなくて?」
殿下の顔が、ぐしゃりと歪んだ。
「エリアーナ——頼む——」
「殿下」
私は遮った。
「私を『日陰の花』とおっしゃいましたわね」
殿下が黙った。
「日陰で咲く花の名前をご存知? ——月下美人、ですわ」
私は深々とお辞儀をした。最後の、そして最高の礼。
「夜にだけ咲き、夜明け前に散る。その美しさを知る者は少ない。でも——」
顔を上げ、微笑んだ。
「太陽の下でしか咲けない花より、ずっと価値がありましてよ」
背を向けた。
「待ってくれ! エリアーナ!」
殿下が叫んだ。
「婚約破棄を撤回する! 俺が間違っていた! だから——」
足を止めた。
振り返らずに、言った。
「お断りいたしますわ」
「なぜだ! 俺は——俺は謝っている! 反省している!」
「反省?」
私は小さく笑った。
「殿下、それは反省ではありませんわ」
「何——?」
「都合が悪くなったから、態度を変えただけ。そうでしょう?」
殿下が息を呑んだ。
「もしセレナ様が間者でなかったら。もし私に価値がなかったら。——殿下は、今の言葉をおっしゃいましたか?」
沈黙。
「それが答えですわ」
私は歩き出した。
「待て——待ってくれ——!」
殿下が這うようにして追いかけてきた。
「俺は——俺はお前が必要なんだ! エリアーナ!」
「殿下」
私は足を止め、肩越しに振り返った。
「私は、もう殿下のものではありませんわ」
殿下の顔が絶望に染まった。
「エリアーナ様」
声をかけてきたのは、国王陛下だった。
「少々、お待ちいただけますかな」
私は足を止め、振り返った。陛下が玉座から降り、殿下の前に立っている。
「父上——」
「アルベルト」
陛下の声は、氷のように冷たかった。
「そなたは本日、取り返しのつかないことをした」
「違います——俺は——」
「敵国の間者に誑かされ、公衆の面前で王家の恥を晒した」
陛下が一歩、殿下に近づいた。
「そして、この国の至宝であるフォルトゥーナ公爵家の令嬢を——七年間誠実に仕えた婚約者を——『退屈』と切り捨て、『下働きにでもなれ』と嘲笑うのを黙認した」
殿下が震え上がった。
「お、俺は——セレナが勝手に——」
「止めなかったのはそなただ」
陛下の一言に、殿下は言葉を失った。
「フォルトゥーナ家がなければ、王宮の魔道具は動かぬ。騎士団の精鋭は去る。国庫の三割が消える」
陛下は淡々と告げた。
「そなたは、王国の半分を失わせかけた」
「父上、お願いです——」
「アルベルト」
陛下が手を上げた。
「本日をもって、そなたを廃嫡とする」
大広間がどよめいた。
廃嫡。王位継承権の剥奪。それは王子にとって、死刑宣告に等しい。
「お待ちください! 父上!」
殿下が跪き、陛下の足元にすがりついた。
「俺は反省しています! これからは心を入れ替えます! 何でもします! だから——」
「遅い」
陛下は殿下を見下ろした。
「そなたに与えられた七年間の猶予を、そなたは無駄にした」
「そんな——」
「エリアーナ嬢は、そなたに何度も忠告しただろう。意見を述べ、助言を与え、そなたを正しい道に導こうとした。だが、そなたは耳を貸さなかった」
殿下が凍りついた。
「『女が政治に口を出すな』——そう言って、全てを退けた。違うか」
殿下は何も言えなかった。
「自業自得だ」
陛下は背を向けた。
「そなたに、もはや王族の資格はない。明日より、辺境の修道院で一生を過ごすがいい」
「そんな——父上——!」
殿下が絶叫した。
だが、陛下は振り返らなかった。
大広間の貴族たちが、冷ややかな目で殿下を見下ろしている。
さっきまで殿下に媚びを売っていた者たち。殿下の取り巻きだった者たち。彼らは今、一歩も殿下に近づこうとしない。
「殿下、お気の毒に」
誰かが、わざと聞こえる声で言った。
「身から出た錆とはいえ、あそこまで落ちぶれるとは」
「しかし、まさか七年間も騙されていたとは。愚かにも程がある」
「エリアーナ嬢を手放すなど、正気の沙汰ではありませんな」
「ははは、『退屈な女』でしたか。自分の目が節穴だったと、今頃気づいたのでしょうな」
笑い声。嘲笑。軽蔑。
殿下は床に手をついたまま、動けなかった。
その姿を見て、私は思った。
七年前、婚約が決まった日。殿下は高らかに言った。
「お前は俺のものだ。光栄に思え」
あの時の傲慢な笑顔は、もうどこにもない。
今、殿下の目に浮かんでいるのは——
絶望だ。
全てを失った者の、底なしの絶望。
私は静かに背を向けた。
「エリアーナ——」
殿下のかすれた声が聞こえた。
「俺は——俺は、お前を——」
私は振り返らなかった。
「さようなら、殿下」
静かに告げた。
「どうぞ、お元気で」
大広間の扉が開く。
背後で、殿下の嗚咽が聞こえた。
私は、振り返らなかった。
---
王宮の庭園。
夜風が頬を撫でる。七年ぶりに、肺の奥まで空気が届く気がした。
満天の星空の下、噴水の音だけが静かに響いている。
「——終わったな」
振り返ると、カイルが立っていた。
フォルトゥーナ家の騎士。私の幼なじみ。
十年前、私が屋敷の庭で泣いていた時、黙って隣に座ってくれた少年。王妃教育が辛くて逃げ出した時、何も聞かずに付き合ってくれた少年。
「ずっと扉の前にいたの?」
「当然だ」
カイルは私の隣に並んだ。
「お前が何か仕掛けるのは、わかっていた。五日前に『建国祭が楽しみだわ』って妙に晴れやかな顔で言っていたからな」
思わず笑ってしまった。
「そんなにわかりやすかった?」
「幼なじみを舐めるな」
カイルも笑った。でも、すぐに真顔に戻った。
「最悪、殿下を斬る準備はしていた」
「それは困るわ。騎士の地位を失ってしまう」
「お前のためなら安い」
何でもないように言う。でも、その目は真剣だった。
「……七年間、ずっと見ていた」
カイルは夜空を見上げたまま言った。
「お前が我慢しているのを。笑顔の下で泣いているのを」
胸が詰まった。
「覚えているか? 三年前の夜会の後」
「……ええ」
忘れるはずがない。
殿下に「女が政治に口を出すな」と言われた夜。屋敷に戻って、自室で一人、声を殺して泣いた。
すると、窓の外からカイルの声がした。
「泣くな。聞こえてるぞ」
窓を開けると、彼は木の枝に座っていた。
「見張りの途中だ。たまたま通りかかった」
嘘だとわかっていた。私の部屋は見回りの経路から外れている。
「お前は間違っていない」
カイルは、そう言った。
「あの馬鹿王子がおかしいだけだ。お前は何も間違っていない」
その言葉だけで、私は救われた。
だから、もう少しだけ頑張ろうと思えた。
「あの時——」
私は言った。
「あなたの言葉がなかったら、私は壊れていたかもしれない」
「大げさだ」
「本当よ」
私はカイルを見上げた。
「何度も、もう駄目だと思った。もう耐えられないと思った。でも、あなたがいたから——」
言葉が詰まった。
カイルは黙って私を見ていた。
「……何度、殿下を殴ってやろうかと思ったか」
静かな声だった。
「お前が泣いているのを見るたびに。お前が理不尽に耐えているのを見るたびに。俺は——」
カイルの拳が、かすかに震えていた。
「でも、殴らなかった」
「ああ」
「なぜ?」
「お前が望んでいなかったからだ」
カイルは私を見た。
「お前は自分で決着をつけたかった。誰かに助けてもらうのではなく、自分の意思で終わらせたかった。——違うか?」
「……ええ」
私は頷いた。
「誰かに守られるのではなく、自分で自分を守りたかった。自分の力で、あの鳥籠から出たかったの」
「知っていた」
カイルは静かに笑った。
「だから待った。お前が自由になる日を、ずっと」
花火が上がった。
建国祭のフィナーレ。色とりどりの光が夜空を彩り、歓声が遠くから聞こえてくる。
「なあ、エリアーナ」
「……何?」
「お前はもう、王子の婚約者じゃない」
「ええ」
「俺は騎士だ。身分は低い。財産もない。お前に釣り合うものは、何一つ持っていない」
カイルが私の手を取った。
その手は温かかった。
「でも——」
カイルが私を見る。花火の光が、その瞳に映っていた。
「お前を幸せにしたい。誰よりも。何よりも」
涙が溢れた。
七年間、ずっと堪えていたものが、一気に決壊した。
「……ずるいわ」
「何が」
「こんな時に——こんな完璧なこと——言うなんて——」
声が震える。涙が止まらない。
「返事、まだ聞いてないぞ」
「——ええ」
私は涙を拭い、笑った。
「喜んで」
カイルが私を抱きしめた。
強く、優しく、確かに。
夜空に花火が咲き続ける。
王子が差し出した王妃の冠より、この腕の中の方が何万倍も価値がある。
七年間の檻が消えた。
新しい人生が始まる。
あの日、アルベルト殿下がくれた婚約破棄。
それは——
間違いなく、私の人生で最高の贈り物だった。
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