婚約者が連れてきた浮気相手が可愛すぎて、育成沼に落ちた結果がこちらです
私――伯爵令嬢モニカには頭の痛い種がある。
それは婚約者であるリーチ子爵令息の存在だ。
彼は一言で言えば「女好き」である。
二言で言えば「どうしようもない女好き」である。
私と一緒にいるときですら、すれ違った女性にウインクを飛ばす始末。彼の辞書に「誠実」という文字は載っていないし、おそらく彼の人生のページは常に「女」というインクで汚されている。
けれど私は伯爵家の娘。
幼い頃から完璧であることを求められてきた。
感情を表に出さない。
不満を口にしない。
与えられた役割を淡々と、そして完璧にこなす。
それが貴族の娘というものであり、私の生きる道だと教えられてきたからだ。
だからリーチ様が他の女性に目移りしようとも、私は眉一つ動かさなかった。心の中で「この軟派男が」と毒づくことはあっても、顔には出さない。
そう、私は完璧な淑女。
どんなトラブルも涼しい顔で受け流す氷の令嬢。
――そのはず、だった。
今日、この時までは。
休日の昼下がり。
リーチ様から「たまにはデートでもどうだい?」と誘われた私は指定された王都のカフェテラスで彼を待っていた。
珍しいこともあるものだ、と思いつつ紅茶を啜っていると彼が現れた。
――知らない女性を連れて。
「やあ、モニカ。待たせたね」
悪びれる様子もなく笑顔で席に着くリーチ様。その隣には、おどおどとした様子で縮こまっている小柄な女性がいる。
「……リーチ様、そちらの方は?」
私が鉄仮面のまま尋ねると、彼は待っていましたとばかりに胸を張った。
「紹介しよう。この子は子爵令嬢のベラだ。この間の夜会で出会ってね、意気投合したんだよ」
意気投合、ねえ。
貴族社会の隠語辞典によれば、それは『下心を持って近づきました』と同義である。
私はベラと呼ばれた女性に視線を移した。
彼女は私の視線に気づくと、ビクッと肩を震わせてさらに小さくなった。まるで肉食獣の前に放り出されたハムスターのようだ。
「はじめまして、モニカ様。ベラと申します……」
蚊の鳴くような声。
俯き加減で自信なさげな態度。
私とは正反対のタイプだ。
リーチ様は、そんな彼女の肩を抱き寄せて勝ち誇ったように言った。
「モニカ。彼女は君と違って、とても儚くて守ってあげたくなるだろう?俺には彼女のような女性が合っているんだ」
それは婚約者である私への明らかな侮辱であり、浮気宣言だった。
普通ならば悲しみに暮れる場面だろう。水をぶっかけて席を立っても許される案件だ。
しかし。
私の思考は、まったく別の方向へと全力疾走していた。
私はベラさんをまじまじと見る。
穴が開くほど、見る。
震える華奢な肩。
今にも折れそうなほど細い手首。
不安げに揺れる、大きなクリクリとした瞳。
困ったようにハの字に下がった、少し手入れの甘い眉毛。
そして何より――
……顔、ちっさっ!
え、何これ。妖精?
私の握り拳くらいのサイズしかないんじゃないの?
肌も白くてもちもちしていそうで、この生物は何?
その瞬間。
私の中で長年押し殺してきた何かが音を立てて決壊した。
『誰かの味方になりたい』
『この手で誰かを導きたい』
そんな貴族としての「完璧」の裏側に隠していた私の本能的な欲求。
それが堰を切ったように溢れ出し、私の理性を押し流していく。
――これは恋ではない、もっと崇高な何かだ。
理屈じゃない。
この子を見ていると胸の奥がキュンキュンして保護欲がかき立てられるのだ。
「確かに……」
気づけば私は席を立ち、テーブル越しに彼女の手を握りしめていた。
「えっ、あの……?」
ベラさんが目を白黒させている。
怯えた表情すら芸術点が高い。
「確かに可愛いわ!」
私は力強く断言した。
リーチ様は一瞬ぽかんとしていたが、すぐに「そうだろう!」と得意げに鼻を鳴らした。
「やはり俺の選んだ女は最高なんだ!鉄仮面のモニカでさえ認めざるを得ない魅力があるということだな!」
訂正するのも面倒だ。
私は今、この目の前の原石に夢中なのだから。
服の趣味は少し野暮ったい。髪も手入れが行き届いていない。お化粧も自分に合っていない。
けれど素材は極上だ。
磨けば光るどころの騒ぎではない。国が傾くレベルの光を放つに違いない。
ああ、どうしよう。
守ってあげたい。
いや、育て上げたい。
私の手で、この子を世界一の淑女にしてみたい!
◇
それからというもの、私の生活は一変した。
中心にあるのは婚約者ではなく、その浮気相手(予定)のベラさんだ。
リーチ様がいる時もいない時も、私は常にベラさんを呼び出し構い倒した。
「ベラさん、その髪型も素敵だけれどハーフアップにしてみない?絶対似合うわ」
「えっ、でも私なんか……」
「『私なんか』は禁止よ。さあ、こっちへいらっしゃい」
私の屋敷に招き、侍女総出で彼女を磨き上げる。
髪を整え、肌を保湿し、ドレスを着せる。
「ほら、見てご覧なさい!」
鏡の前に立たせると、そこには見違えるような美少女がいた。
ベラさんは自分の姿を見て、信じられないというように目を見開いている。
「とっても可愛いわ!」
私が微笑むと、彼女は顔を真っ赤にして、涙目で私を見上げてきた。
「ありがとう、ございます……お姉さま!」
ズキュン。
胸の奥で何かが撃ち抜かれる音がした。
お姉さま。なんて甘美な響きだろうか。
そして、私たちの仲睦まじい様子を見ていた周囲の貴族たちは困惑の色を隠せないようだった。
「あれ?ベラ嬢は確かモニカ嬢の婚約者の……」
「浮気相手、だよな? なんで二人が仲良さそうにしているんだ?」
ヒソヒソという噂話が聞こえてくるが、そんなものは私の耳には届かない。
ベラさんの実家は失礼ながら大した資産もなく、教育もあまり受けられていなかったようだ。
いつも自信なさげに受け答えし、何を聞かれても「すみません」と謝ってしまう。
そんな彼女を放っておけるはずがない。
「じゃあ、一緒に勉強しましょう!」
私は彼女専用のカリキュラムを作成した。
礼儀作法に、歴史、文学、ダンス、そして美容。
最初は「私には無理です」と尻込みしていたベラさん。
しかしある日、休憩中のお茶の時間にぽつりと漏らした。
「お姉さま、私……もっと本が読みたいです」
聞けば実家では本を買う余裕もなく、文字を読む機会も少なかったという。ずっと勉強や物語の世界に憧れていたのだと恥ずかしそうに語ってくれた。
「任せてちょうだい!」
私は家の図書室を彼女に開放した。
最初はただ最低限の体裁を整えさせるつもりだったのだ。貴族として恥ずかしくない程度に。
しかし、ベラさんは教えれば教えるほど素直に知識を吸収していった。
まるで乾いた砂が水を吸い込むように。
――ああ、もっと高い場所へ連れて行ってあげたい。
彼女の見える世界を広げてあげたい。
それは教育係としての、いや、一人の「ファン」としての自然な情動だった。
そんな私とベラさんの様子を見て、周囲の評価も少しずつ変わり始めた。
「モニカ嬢があそこまで入れ込むなら、あのベラ嬢はただの泥棒猫ではないのかもしれない」
「確かに最近のベラ嬢は洗練されている。原石だったということか」
そして、一部の貴族たちがそわそわと近づいてくるようになった。
「ベラさん、これは私があなたくらいの歳の頃に使っていた教材なんだけど……よかったら使ってくれないかしら?」
「この間買った香水が余っちゃって。あなたのイメージにぴったりだと思うんだけど……」
「うちの領地で採れた最高級の茶葉です。勉強の合間にどうぞ」
なんと、周囲の貴族がどんどんベラさんへの支援を申し出てくるようになったのだ!
貢ぎ物の山である。
なにせベラさんは庇護欲をくすぐる天才なのだ。
もらったものに対して「えっ、こんな素敵なものを私なんかに……?大切にします!」と、花が咲いたような笑顔でお礼を言う。
それを見た貴族たちは一撃で陥落する。
「ぐはっ、可愛い……」
「もっとあげたい……」
そうして私が主導している「ベラ嬢育成劇」を面白がる貴族がどんどん増えてきた。
もはやお祭りのような状態だ。
「私の知り合いに礼儀作法の達人がいるんだ。ベラ嬢に付けてあげよう」
「僕の師匠である大学の教授は教えるのが上手くてさ。あの人の授業を受ければベラ嬢もなんだって分かるようになるよ!」
はじめは私が少し教えたり、一緒に勉強したりしていただけの教養や礼儀作法。
それが今や各分野のスペシャリスト、貴族の中でも最高レベルの支援が集まり、王族もかくやという英才教育が施されるようになっていた。
しかし、問題も出てきた。
ベラさんの魅力が周知されるにつれ、不純な動機で近づこうとする輩も増えてきたのだ。
「ベラ嬢とはどんな人なのか?」
「ちょっと顔を見てみたい」
「あわよくば、俺のものに……」
そんな下心丸出しの視線を感じるたびに私が立ち塞がる。
「ごきげんよう。何か御用かしら?」
氷の微笑みで威圧すると、男たちは「ひっ」と悲鳴を上げて退散していく。
「見世物じゃありませんわ!」
いつの間にか私は彼女の教育係兼警護係になっていた。
背後でベラさんが「お姉さま、かっこいい……!」と目を輝かせている気配がする。
ふふん、悪くない気分だ。
◇ ◇
ベラ嬢育成プロジェクトが軌道に乗り始めた頃、ある男の様子がおかしくなった。
私の婚約者であり、全ての元凶であるリーチ子爵令息だ。
「やあ、ベラ。今度僕と一緒にデートしない?」
ある日、我が家でのお勉強会を終えたベラさんを待ち伏せしていた彼はそう言い寄ってきた。
その顔には以前のような余裕たっぷりの笑みはない。どこか焦燥感が滲んでいる。
「やはり俺が見込んだ通りだ。俺が君をあの日連れ出したから今の君があるんだよ。感謝してほしいな」
……は?
お前、何かしたっけ?
彼女をアクセサリー感覚で連れ回し、私の前で晒し者にした以外に何か貢献した記憶が?
私の脳内メモリを総検索しても、彼の功績など「反面教師」としての役割しかヒットしない。
どうやらリーチ様は焦っているようだ。
当初、彼はベラさんに対して「守ってあげたい」と言っていた。
それは裏を返せば「自分より弱く、自分がいないと何もできない存在」として彼女を見ていたということだ。
支配欲や優越感を満たすための道具として扱っていたに過ぎない。
けれど、今のベラさんは最高峰の講師陣によって気品のある貴族へと変貌を遂げつつある。
彼女が高貴な教養を身につけ、自分と同等以上の存在へと「格上げ」されていく。
その事実を目の当たりにし、彼は「支配できる対象を奪われた」と感じたのだろう。
だからこそ、今さらになってベラさんに強く執着し始めたのだ。
それは愛情ではない。所有権の主張だ。
子どもが飽きて放り投げていたおもちゃを、他の子が綺麗に直して遊び始めた途端に「それ僕の!」と騒ぎ出すのと変わらない。
残念ながらリーチ様は理解していなかったようだ。
自分が求めていたのは共に歩む「対等な伴侶」ではなく、常に縋ってくれる都合のいい存在だったということを。
そしてベラさんが高みへと引き上げられた瞬間、彼は「置いていかれる男」になってしまったということを。
そんな彼の浅ましい誘いに対し、ベラさんは小首を傾げて答えた。
「うーん……せっかくのお誘いですけれど、今はモニカお姉さまたちと遊んだり、お勉強したりしている方が楽しいかな?」
その「かな?」の語尾の可愛さで破壊力が増しているわ!
彼女はやんわりと、しかしきっぱりと拒絶した。
その言葉に嫌味がないことが余計にリーチ様には堪えたらしい。
顔を引きつらせて黙り込んでしまった。
その様子を遠巻きに見ていた周囲の貴族たちも冷ややかな視線を送っている。
「ベラ嬢に軽薄な男が近寄っているな」
「少し馴れ馴れしすぎるが……元々の知り合いだろうか?」
「高潔なベラ嬢にあのような男、釣り合うはずもない」
……皆さん、記憶喪失ですか?
そもそも彼が浮気相手として連れてきたのが始まりなのですが。
どうやら周囲の貴族の脳内では、すでに「ベラ嬢=深窓の令嬢」「リーチ=そこにたかる羽虫」という図式に書き換えられているらしい。
人の噂とは移ろいやすいものである……
◇ ◇ ◇
そんなある日、王城で盛大なパーティーが開かれることになった。
隣国の賓客を招いての、国を挙げての大夜会だ。
当然、貴族である私たちにも招待状が届く。
「お姉さま」
招待状を手に、ベラさんが私の部屋を訪ねてきた。
「こんな大きなパーティー初めてで、すごく不安なんです。だからお姉さまも一緒に来てくださいませんか?」
上目遣いで、不安げに揺れる瞳。
両手で私の手を握りしめて懇願するその姿。
断れるわけがない。
「ええ、もちろんよ。私に任せてちょうだい」
私は即答した。
隣国の賓客も来るのなら、これはベラさんを国際的な社交界にデビューさせる絶好の機会だ。中途半端な真似はできない。
周囲の貴族たちも盛り上がり、最高の布陣が敷かれていった。
予約が数年待ちと言われる伝説のメイクアップアーティストが招かれ、王室御用達のデザイナーによる特注のドレスが届く。
……ちょっとやりすぎ感が否めないが。
当日。
支度を終えたベラさんを見た瞬間、私は言葉を失う。
透き通るようなシルクのドレスは淡い月光のような色合い。
繊細なレースと宝石が散りばめられ、彼女が動くたびに星屑のように煌めく。
プロの手によって施されたメイクは彼女のあどけなさを残しつつも、大人の女性としての艶やかさを引き出していた。
「……お姉さま、どうでしょうか?」
恥ずかしそうに頬を染める彼女。
私は震える声で答えた。
「……最高よ。国宝に認定しましょう」
そして私たちは王城へ向かった。
会場の扉が開かれ、従僕が私たちの名前を告げる。
私たちがホールに足を踏み入れた瞬間。
ざわめきすら消え、静寂が訪れた。
そして一拍の後、割れんばかりの拍手喝采が巻き起こった。
まるで観劇のクライマックスで主人公が現れたかのような熱狂。
「なんと美しい!」
「女神か?」
「いや、天使だ!」
隣国の賓客である貴族たちも目を丸くして囁き合っている。
「誰だ?この国の王女でも来たのか?」
「いや、紹介がなかったぞ。だが、あの気品はただ者ではない」
混乱しながらも、彼らは惜しみない拍手を送っていた。
そんな視線の集中砲火の中、ベラさんは背筋を伸ばして堂々と歩を進める。
かつては私の後ろに隠れて震えていた小動物のような姿はもうどこにもない。
挨拶を求められれば、流暢な言葉遣いで完璧な礼儀作法を披露する。
私が口を挟む幕など、もう必要なかった。
私はその姿を見て胸の奥が熱くなるのを感じた。
誇らしい。本当に誇らしい。
けれど、同時に。
胸が締め付けられるような鋭い痛みも感じていた。
これは何だろう。
嬉しいのに、寂しい。
恋とは違う。友情とも少し違う。
単なる後援者としての満足感だけでは説明がつかないこの感情。
自分だけの宝物だったはずの彼女が私の手を離れ、広い世界へと羽ばたいていく。
もう、私が守ってあげなくても彼女は一人で輝けるのだ。
ああ、これが「巣立ち」を見送る親の気持ちなのだろうか。
この感情に名前があるなら、誰か教えてほしい。
私がそんな感傷に浸っていると、空気を読まない男が視界に入ってきた。
リーチ様だ。
彼はベラさんの注目度に目をつけ、ここぞとばかりに近づこうとしていた。
「ベラ!ここだ!」
親しげに手を振る彼。
しかし、その手はベラさんに届くことはなかった。
「なんだお前!」
「ベラ様に無暗に近づくな!」
壁のように立ちはだかったのは彼女のファンである貴族たちだ。
「ぼ、僕は知り合いだ!僕こそが彼女を最初に見出したんだぞ!」
リーチ様がそんなカッコ悪いことを必死に叫ぶ。
「知らん知らん」
「お前のような軽薄な男が近づくとベラ様が汚れる!」
「下がれ下がれ!」
聞く耳を持たれないどころか、ゴミを見るような目で見られて追いやられていく。
哀れ、リーチ様。
かつて自分が「守ってあげる」と見下していた存在の輝きに、今のあなたは目が眩んで近づくことすら許されないのだ。
自業自得である。
そうこうしているうちに会場の空気が再び変わった。
隣国の賓客の中心人物、容姿の整った王太子殿下がベラさんの前に歩み出たのだ。
「美しいお嬢さん。一緒に一曲、いかがですか?」
スマートな所作で差し出された手。
絵になりすぎる光景に周囲からため息が漏れる。
これは国を代表する歓迎のダンスだ。断ることなどできるはずがない。
「……喜んで」
ベラさんは優雅に微笑み、その手を取った。
ベラさんのダンスは完璧だった。
それはそうだ。彼女についたのは、かつて王妃様の教育も担当した超一流のダンス講師なのだから。
ドレスの裾が花びらのように舞い、二人の世界を作り上げていく。
周囲の貴族たちはただうっとりとその光景に見惚れるしかなかった。
曲が終わると王太子は満足げに頷き、ベラさんの手を取ったまま言った。
「素晴らしい。ダンスの腕前もさることながら、その立ち居振る舞い……あなたは相当な気品と教養をお持ちだ。高位の貴族とお見受けした」
王太子の言葉に会場が静まり返る。
「ぜひ、あなたのような素晴らしい女性を、我が国に迎えたいものだ」
それは求婚に近い言葉だった。
再び巻き起こる拍手喝采。
シンデレラストーリーの完成だ。
――しかし。
その状況で顔面蒼白になっていた人物が約一名。
我が国の国王陛下である。
王様は冷や汗をダラダラと流していた。
なぜなら彼は知っているからだ。
ベラさんの実家は高位貴族どころか、資産もない没落寸前の下級貴族であることを。
もしここで「いえ、その娘はあなたと釣り合うはずもない下級貴族です」などと言ってしまえばどうなるか。
王太子のメンツは丸潰れだ。「お前は下級貴族と高位貴族の区別もつかないのか」と恥をかかせることになる。
かといって、嘘をつくわけにもいかない。身分詐称は重罪だ。
それに、今ここで急に爵位を上げるような真似も貴族院の手続き上不可能。
詰んだ。
いや、まだだ!
国王陛下が決死の形相で叫んだ。
「その娘は、我が国の『特別カリキュラム』によって教育された才女である!」
……はい?
「身分こそ高くないが、その才能を見込み、国が総力を挙げて英才教育を施した、我が国の至宝なのだ!」
王様、苦し紛れにも程があります!
何ですかその「特別カリキュラム」って。初耳ですけど!?
しかし、王がそう断言してしまった以上、誰も異を唱えることはできない。
隣国の王太子は「なるほど、貴国の人材育成は素晴らしい!」と感心しきりだ。
もはや私が「放っておけないから一緒に勉強を始めたんです」などと言い出せる空気ではない。
私の功績は国家の機密プロジェクト(捏造)として吸収されてしまったようだ。
そして、この王の発言が決定打となった。
結果として数日後。
ベラさんは隣国の王太子に見初められて正式に婚約してしまうことになったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
王城の豪奢な謁見室。
隣国の王太子殿下から正式に求婚の言葉を贈られたベラさん。
周囲の誰もが頬を染めて「はい」と頷く美しい光景を想像していた。
しかし。
ベラさんは即答しなかった。
「……王太子殿下。一つ、お願いがございます」
彼女は鈴を転がすような、けれど芯の通った声でそう切り出した。
緊張が走る室内。
私は彼女の斜め後ろに控えていたが、内心ヒヤヒヤしていた。まさか「おやつは一日三回までですか?」とか聞くんじゃないでしょうね?
ベラさんはおずおずと、しかし真っ直ぐに殿下を見つめて言った。
「私はモニカお姉さまと離れたくありません」
……はい?
「お姉さまは私に自信と教養を与えてくださった、誰よりも大切な方です。今の私があるのは全てお姉さまのおかげなのです」
ベラさんはそこで言葉を切ってくるりと振り返ると、私の袖をギュッと掴んだ。
その瞳は潤み、破壊力抜群の表情を浮かべている。
「ですから――お姉さまも一緒でなければ、私は参りません。絶対にイヤです」
シーン、と謁見室が静まり返った。
国を挙げた縁談の条件が「お姉さまのセット販売」!?
しかし、王太子殿下は目を丸くした後、肩を震わせて笑い出した。
「ははは!なるほど。あなたにとってそれほど大切な方なのですね」
そう言って、殿下が頷いた。
「良いでしょう。あなたの心が安らぐのなら、彼女も賓客として招きましょう。我が国としてもあなたのような才女を育て上げた教育係の手腕には興味がありますからね」
王太子殿下の寛大な対応に、真っ先に反応したのは我が国の国王陛下だった。
「聞いたかモニカよ!これは王命である、ベラ嬢のためにもぜひついて行ってくれ!」
王様の目が血走っている。
それもそのはず、隣国からは莫大な外交的利益と支援金が積まれているのだ。ここで破談になれば、王様の胃に穴が開くどころでは済まない。
「ですが陛下。私にはリーチ子爵令息という婚約者が……」
「そんなもの、今ここで白紙に戻してやる!」
陛下は即座に叫んだ。
「国家の利益と天秤にかければ子爵家の婚約など些末なこと!破棄だ破棄!」
……哀れ、リーチ様。
彼はその場にいなかったが、彼の意思など1ミリも介在せずに私との婚約は藻屑と消えた。
元浮気相手(予定)のベラさんを王太子に奪われ、あろうことか婚約者であった私まで隣国へ持っていかれる。
踏んだり蹴ったりとはこのことだろう。
こうして、私はベラさんの付属品として、隣国へと移住することになったのである。
隣国の王城での生活は、思いのほか快適だった。
ベラさんは環境の変化に不安があるのか、以前にも増して私に懐いている。
「お姉さま、お姉さま!」
「はいはい、ここにいますよ」
私のドレスの裾を摘んで歩く姿は国宝級の愛らしさだ。
ああ、やっぱり見ていて飽きない。異国の地に来て大変なこともあるけれど、この笑顔が見られるならば私はどこへだって行ける気がする。
そんなある日、一人の男性が私たちに近づいてきた。
「ベラ嬢、それにモニカ嬢。こちらの生活には慣れただろうか」
現れたのは王太子殿下の兄君である大公――ビアス様だった。
華やかで太陽のような王太子殿下とは対照的に、彼は月のような雰囲気を持つ美丈夫だ。真面目で誠実そうで、少し堅物そうな印象を受ける。
彼は私に向き直ると、真剣な眼差しで切り出した。
「モニカ嬢。君に折り入って相談がある」
「はい、何でしょう?」
「いずれ王妃となるベラが姉と慕う君は彼女を立派な淑女に育て上げた。その卓越した手腕と見識を、ぜひ我が国の貴族教育にも活かしてほしいのだ」
……私は大したことを教えることはできないが。
しかし、断るわけにもいかない状況だ。
「私でよろしければ、喜んで――」
「ついては、二人きりで打ち合わせがしたい。場所を変えよう」
ビアス様は私の手を取り、なぜか人気のないサロンへと足早に向かった。
ずいぶんと熱心なことだ。教育改革に燃えているのね……と思いながら席に着くと、彼は周囲を警戒するように見回し、懐からそっと「何か」を取り出した。
それは桐箱に入った最高級の宝石――ではなく、チョコレートだった。
「……あの、これは?」
「……ベラ嬢は甘いものが好きだろうか」
ビアス様の耳がほんのりと赤くなっている。
「……は?」
「実は彼女にこれを食べてほしいのだが……いきなり強面の私が渡しては怖がられるのではないかと思ってな。君に相談したかったのだ」
……はい?
ポカンとする私に、彼は咳払いをしながら早口で続けた。
「あのリスのように頬張る姿を遠くから見たとき、私は衝撃を受けたのだ。なんという愛らしさだろうか、と」
……大公?
「どうにかして彼女に餌付け……いや、贈り物をして、あの笑顔が見たいのだが、不審がられずに渡す方法はないだろうか」
真顔で何を言っているんですか、この大公閣下は。
教育論云々はただの建前で、実は彼もベラさんの可愛さに脳をやられていた「隠れファン」だったのである!
でも。
その気持ち。
痛いほど分かるわ!
「閣下、そのチョコはカカオの含有量が多すぎます。ベラさんはミルクたっぷりのまろやかな方がお好みですよ」
「そうだったのか!やはり専門家の意見は貴重だ」
それからというもの、私たちは度々「教育談義」という名の密談を重ねた。
「昨日の夜会でのベラ嬢のドレス、見ましたか?」
「ああ。あの淡いピンクは至高だった。歩くたびに花が咲くようだった」
「分かってらっしゃいますね!あれは私が選んだのです」
「さすがだ、モニカ嬢。君のセンスには感服する」
私たちはベラさんの素敵なところについて語り合い、意気投合した。
まさか隣国にこれほど話のわかる「同志」がいるとは。
ビアス様は見た目通りの誠実な方で、ベラさんへの感情もあくまで「愛でたい」「守りたい」という尊いものだった。
私と同じだ。
この気持ちを共有できる仲間が、まさか王族にいたなんて。
そんなある日。
いつものように熱く語り合っていると、ふとビアス様が真剣な眼差しで私を見つめてきた。
「モニカ。……単刀直入に言おう。私と結婚してくれないか」
思考が停止した。
え、今、なんて?
「け、結婚ですか?なぜ私と?」
戸惑う私に、彼は理路整然と、しかし熱っぽく語り始めた。
「ベラ嬢が安心して王妃になるには慕っている姉君が近くにいた方がいい。それに、王族と婚姻すれば王族のみの晩餐会にも参加できる。つまり、毎回の食事をベラ嬢と共にできる」
な、なんだってー!?
それは魅力的すぎる提案だ。ベラさんの食事風景を毎日最前列で拝めるなんて、どんな特権階級だ。
ぐらっ、と心が揺れる。
しかし、それだけで結婚というのは……と私が躊躇していると、彼はふっと表情を緩めて優しく微笑んだ。
「それに……」
「それに?」
「ベラ嬢の話をしている君を見ていると、楽しいんだ」
大きな手が私の手をそっと包み込む。
その体温がじんわりと私に伝わってくる。
「君は聡明で、行動力があって、そして何より情熱的だ。君と話していると時間が経つのを忘れてしまう。……君自身もとても面白い女性だ。だから、これからもずっと私の話し相手になってほしい」
その言葉に、私の胸がドキンと高鳴った。
かつての私なら『家のため』や『与えられた役割』として、条件の良い大公との結婚を淡々と受け入れていただろう。感情など挟まずに。
でも、今は違う。
私は、自分の意志で、この人といたいと思った。
ベラさんのためだけじゃない。
私という人間を見て、面白いと言ってくれたこの人と、これからの人生を歩んでみたい。
「謹んで、お受けいたします。……ビアス様」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その後、私とビアス様の結婚は速やかに執り行われた。
「お姉さま!これからは本当の義姉妹になれるんですね!」
ベラさんは泣いて喜んでくれた。
王太子殿下も「兄上がこんなに楽しそうなのは初めてだ」と祝福してくれた。
今、私は大公妃として、夫であるビアス様と共に王妃教育に励むベラさんを温かく(時には熱狂的に)見守っている。
毎日のお茶会は賑やかで、夫とは夜な夜なベラさんの成長記録について語り合い、そして互いの愛を深めている。
こうして、私の波乱に満ちた令嬢育成計画は想像以上の幸福な結末と共に幕を下ろすことになったのであった。




