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第六章:鬼ヶ島、そして真実

 彼らの旅は平坦なものではなかった。

 船を乗り継ぎ、荒波を乗り越え、ついに鬼ヶ島へと向かう。

 海風は肌を刺すように冷たく、桃太郎たちの胸は、これから始まる戦いへの期待と、故郷の悲劇への怒りで高鳴っていた。

 彼らは疑うことなどなかった。

 自分たちが進む道こそが正義であり、辿り着く先で滅ぼす鬼こそが絶対的な悪であると。

 その確信が、彼らの心を燃え上がらせていた。

 鬼ヶ島へ向かう道すがら、彼らは鬼によって滅ぼされた小さな漁村に立ち寄った。

 家々は焼け落ち、炭になった柱からは、まだ煙がくすぶる。

 潮風に混じって、焦げた木の匂いと、生ぬるい鉄の匂いが鼻腔を刺した。

 カラスの鳴き声が、虚しく響く。

 桃太郎は、その光景に言葉を失った。

 彼は拳を強く握りしめ、歯を食いしばる。

 彼の瞳は、怒りと悲しみで赤く燃え上がっていた。

 「鬼め…!なんてことを…!」

 弥助もまた、全身を震わせ、今にも飛び出しそうな勢いで、鬼ヶ島の方角を睨みつけた。

 「この匂いだ…!十兵衛さんの家で嗅いだ匂いと同じだ!」

 弥助は、地面に落ちていた、人の形をした何かの残骸を指さした。

 それは、もはや人間のかけらとも言えないほどに、無残に砕け散っていた。

 「…卑劣な真似を…!」

 衛門は、その光景を静かに見つめていた。

 彼の表情は変わらない。

 だが、その瞳の奥には、冷たい怒りの炎が燃え上がっているのが見て取れた。

 衛門は、鬼は妖怪であるという村の伝説を信じて疑わなかった。

 この惨状もまた、鬼という存在の凶暴さを物語るものだと確信していた。

 時雨は、ただ黙って、村の惨状を記録するかのように、隅々までその光景を目に焼き付けていた。

 彼女は、鬼の正体が人間であることを知っていた。

 しかし、その殺戮と破壊の光景は、彼女が「鬼」と呼ぶ人間たちの下劣さ、そして彼女の復讐の正当性を証明するものだと、冷ややかに受け止めていた。

 一行は船に乗り込んだ。

 漁村の惨状は、彼らの心に重くのしかかっていた。

 張りつめていた怒りの熱が冷め、代わりに沈黙が船を支配していた。

 最初に口を開いたのは、弥助だった。

 「なぁ、桃太郎。本当に、あれは鬼の仕業なのか…?」

 弥助の声は、どこか怯えを帯びていた。

 彼は、今までの戦いで感じた、言葉にできない違和感を思い出していた。

 桃太郎は、弥助の問いにすぐには答えられなかった。

 彼もまた、心の中に拭いきれない疑念を抱えていたからだ。

 「弥助…」

 桃太郎が口を開こうとしたその時、衛門の声が響いた。

 「臆病風に吹かれるな。あれは鬼の妖術だ。人の心を惑わせるために、無残な姿を晒しているに過ぎん。我らの正義は揺るがない」

 衛門の言葉は、桃太郎の心に響いた。

 そうだ、これは正義の戦いだ。

 そう自分に言い聞かせることで、桃太郎は心の均衡を保とうとした。

 しかし、その表情は晴れず、彼の剣を握る手は、微かに震えていた。

 その横で、時雨は黙って空を見上げていた。

 彼女の瞳には、一切の感情が宿っていなかった。

 彼女は、過去の二度の襲撃で既に「人間が鬼になる瞬間」を目撃していた。

 飢えと絶望が、人を狂気へと駆り立てる様を、彼女は知っていた。

 だからこそ、目の前の惨状も、彼女にとっては「鬼」の卑劣な行為に過ぎなかった。

 復讐の炎が、彼女の心を冷酷に燃え上がらせていた。

 海の上でも、鬼の追手はやってきた。

 小さな船に乗り込んだ四十人ほどの男たちが、武器を片手に襲いかかってくる。

 「人間に化けた鬼め!成敗してくれる!」

 桃太郎は怒りに任せ剣を構えた。

 だが、その男たちの姿は、旅の道中で出会った貧しい農民たちと何ら変わらなかった。

 彼らは、飢えと疲労で顔色が悪く、その目は、恐怖と絶望に満ちていた。

 桃太郎は、その違和感をぬぐい去ろうと、自分に言い聞かせた。

 「これは鬼の妖術だ。人の姿に化け、我らを惑わせようとしているだけだ。騙されてはならない、これは正義の戦いだ。」

 弥助もまた、同じ違和感に襲われていた。

 彼は、本能的に相手の殺気や匂いを感じ取るが、この男たちからは、ただ生きることに必死な、弱い者の匂いしかしない。

 それでも、「きっと鬼の恐ろしい妖術だ」と、頭の中で必死に言い聞かせ、木の枝を構えた。


 戦闘が始まった。

 

 桃太郎と弥助の攻撃は、正確に相手を捉えていた。

 しかし、彼らが斬り倒した「鬼」は、悲鳴をあげ、血を流し、まるで人間のように息絶える。

 「鬼め!なんて卑劣!ここまで擬態されたらやりにくい!」

 桃太郎は叫んだ。

 それは、相手への怒りではなく、自分の心に巣食う違和感を打ち消すための、悲痛な叫びだった。

 その時、一人の男が桃太郎の前に立ちはだかった。

 男は武器を構えるのではなく、震える手で懐から小さな布を取り出した。

 それは、幼子が喜びそうな、明るい桃色の着物の切れ端だった。

 「た…頼む…これだけでも…!娘に…」

 男は、か細い声でそう懇願し、桃太郎にその布を差し出そうとした。

 だが、桃太郎は躊躇った。

 その一瞬の隙に、衛門の剣が男を貫いた。

 「桃太郎!気を散らすな!」

 衛門の声に、桃太郎はハッとした。

 倒れた男の目からは、静かに、けれど熱を持った、後悔の涙が流れ、その顔は、恐怖と後悔に歪んでいた。

 男の最後の言葉は、桃太郎の心に深く突き刺さった。

 ほとんど無傷で鬼ヶ島の中枢部へとたどり着いた桃太郎たちは、自分たちの勝利に疑いを抱いていなかった。

 しかし、そこで彼らが見たのは、想像とは全く違う光景だった。

 食料を好き勝手に飲み食いする盗賊の姿はなく、そこには飢えと疲労で今にも倒れそうな老人や、痩せ細った子供たちがいた。

 ひび割れた大地から生えた雑草を口にする子供、凍える体で互いに寄り添い合う老人たち。

 彼らは、桃太郎たちを見て震え上がり、母親にしがみつく小さな子どもが、か細い声で泣き叫んだ。

 「かぁちゃん、怖いよ…鬼が攻めてきた…」

 その言葉が、桃太郎の頭の中で、雷鳴のように響き渡った。

 「鬼…?」

 その瞬間、桃太郎の脳裏に、これまでの旅路の光景が走馬灯のように駆け巡った。

 村の飢饉、十兵衛の死、そして、自分たちが斬り倒してきた「鬼」たちの悲鳴…。

 そして、船上で男が差し出した、幼子の着物の切れ端。

 すべての記憶が、一つの真実を突きつけた。

 桃太郎自身が「鬼」と呼ばれた。

 その言葉は、彼の信じてきた「正義」のすべてを、音を立てて崩壊させた。

 衛門もまた、その事実にたどり着いた。

 彼は、鬼の正体を人間だと知っていた。

 しかし、桃太郎が「鬼」と認識されたその瞬間に、彼は自らが信じてきた「鬼の伝説」さえも、この悲劇的な現実の前では無力であることを悟った。

 弥助も遅れて、真実を理解した。

 彼は、目の前の光景が、これまでの戦闘で感じた違和感の正体であることを悟った。

 彼らが斬り倒してきたのは、鬼の姿をした人間ではなく、ただ生きるのに必死な人間だったのだ。

 時雨は、目の前にいるのが、破壊と殺戮を好んで行う集団ではなく、飢えに苦しむ罪なき人々であることに気づいた。

 彼女は、盗賊たちが持ち帰った水や食糧で飢えを凌ぎ、剥ぎ取った衣服で寒さを凌いでいる人々を見た。

 彼女の復讐は、思っていた敵との対峙ではなく、ただ生きるのに必死な貧民を相手にしていたという事実を突きつけられた。

 その瞬間、彼女の心に後悔と絶望の波が押し寄せた。

 桃太郎たちは、自分たちが滅ぼしてきた「鬼」が、ただ生きるのに必死な貧困民だったことを悟る。

 そして、彼らが信じてきた「正義」が、この悲劇的な現実の前で、いかに脆く、不確かなものだったかを突きつけられた。

 桃太郎は、自分が手にかけた人々のことを思い出し、その場で膝から崩れ落ちた。

 「…俺は…俺は一体…何を…」

 その声は、震えていた。

 彼の瞳からは、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。

 彼は、自分が背負ってきた「正義」が、どれほど空虚なものだったかを悟った。

 その脳裏には、十兵衛の悲劇が重なった。

 妻子を守ろうとして飢えと絶望に苦しみ、幼子を手放した十兵衛。

 その悲痛な叫びは、まさに今、目の前で自分たちに「鬼」と叫び、家族を守ろうとしていた人々と重なった。

 あの時、娘の死を目の当たりにして絶望した十兵衛の顔は、自分たちが殺めた男の最期の顔と何一つ変わらない。

 むしろ、自分たちが十兵衛の絶望を、幾度となく生み出してしまっていたのだと気づいた。

 桃太郎は、自分たちが船上で討ち取った男の、最後の懇願を思い出した。

 「た…頼む…これだけでも…!娘に…」

 あの時、桃太郎は躊躇った。

 そのわずかな隙に衛門が男を斬り捨てた。

 桃太郎は、その男が差し出した桃色の布が、娘に与えるためのたった一つの宝物だったと悟った。

 そして、自分たちが、その宝物を奪い、家族の希望の光を消し去ってしまったという事実に、吐き気を催した。

 これまで、村を守るという「正義」を信じ、鬼を討つことに非情になれた。

 しかし、その正義は、自分たちを餓えから救ってくれた「桃」のように、誰かの悲劇の上に成り立っていた。

 自分たちが「鬼」と呼んだ者たちもまた、生きるために必死だった。

 彼らが略奪したのは、彼らにとっての「希望」だったのだ。

 桃太郎は、自分の喉からこみ上げてくる嗚咽を抑えきれなかった。

 自分たちが斬り捨てたのは、悪鬼羅刹ではなく、ただただ生きることに必死な、十兵衛と同じ哀れな人間だった。

 彼らは自分たちの村を守るための鬼であり、自分たちは、彼らにとっての鬼だった。

 この矛盾が、桃太郎の心を容赦なく打ち砕いた。

 時雨もまた、深い後悔に打ちひしがれていた。

 復讐の炎に燃え、父と母の仇を討つことだけを信じてきた。

 だが、彼女が追い求めた復讐の正体は、思っていた敵との対峙ではなく、ただ生きるのに必死な貧民を相手にしていたという事実だった。

 そして更に、彼女の心に大きな後悔と絶望の波が押し寄せた。

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