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第四章:衛門(桃太郎物語の犬)

 桃太郎が母が丹精込めて作ったきび団子を腰に下げ、弥助と共に山を下り始めた時だった。

 春の柔らかな日差しが木々の間から降り注ぎ、鳥たちの囀りが響く初陣にはよき日であった。

 旅の道中、二人の前に見慣れない男が倒れていた。

 半ば遠足気分で旅に出る期待に胸を膨らませていた桃太郎は、その男の顔を見て息をのんだ。

 土埃にまみれた顔には深い疲労と絶望が刻まれ、その痩せこけた体からは、かび臭い古い着物の匂いと、微かな血の匂いが混じり合って漂っていた。

 「弥助、放っておけない。庵に連れて帰ろう」

 桃太郎はそう告げ、弥助と二人で衛門を担ぎ上げ、急いで来た道を引き返した。

 庵の扉を勢いよく開け放ち、桃太郎は叫んだ。

 「ばっちゃん!大変だ!」

 「おや?早いご帰宅だねぇ、もう負けたのかい?」

 祖母は楽しそうに笑いながら、心配する孫の顔を見ていた。

 しかし、その視線が桃太郎の背後にいる弥助と、彼らが運んできた男の姿を捉えると、表情が凍り付いた。

 「この人が道端で倒れてたんだ。とにかく早く手当てをしないと!」

 桃太郎の必死な声に、祖母は素早く指示を出した。

 「おやじさん!水を頼む!桃太郎、その人を奥の部屋へ運びなさい!」

 祖父も慌てて駆けつけ、三人で協力して衛門を部屋の布団に寝かせた。

 祖母は慣れた手つきで衛門の着物をはだけ、傷を丁寧に洗い始めた。

 桃太郎と弥助は、祖母の真剣な表情を前に、ただ黙って見守るしかなかった。

 三人は、衛門の回復を祈りながら、温かい土壁の庵で幾日もの時間を過ごした。

 数日後、衛門はゆっくりと意識を取り戻した。

 弱々しい声で「…なぜ、助けた」と問いかける衛門に、桃太郎は小首をかしげ、純粋な瞳で彼の顔を見つめた。

 「そりゃ、目の前で倒れてたら助けるだろ?」

 桃太郎のあまりに当たり前すぎる言葉に、衛門は一瞬呆気にとられた。

 乾いた声なき笑いが漏れ、やがてそれは心からの笑みへと変わっていった。

 「悪いんだけど、俺たちは鬼によって村が大変なことになっててな、二人で鬼を討つために行かなければならぬ。無理はせずしっかり回復してくれ」

 桃太郎は村が鬼に襲われ、人々が苦しんでいる現状と、自分が鬼を討つために旅に出るつもりだったことをまっすぐに話した。

 衛門は、桃太郎の純粋な心に触れながらも、その言葉を遮った。

 知略に長けた彼の眼力は、桃太郎と弥助の未熟さを瞬時に見抜いていた。

 「今行っても死ぬだけだ」

 衛門が静かに言い放ったその刹那、彼はまるで別人のように動き、二人の背後に素早く回り込んで取り押さえた。

 桃太郎は驚きに目を見開き、剣を構える暇もなく、弥助は身をひるがえす間もなかった。

 二人の顔に浮かぶのは、圧倒的な力の差を目の当たりにした戸惑いだった。

 「あと二年鍛えねば、村を守るなど夢物語で終わるわ!」

 衛門の言葉に、桃太郎は悔しそうに歯を食いしばる。

 しかし、すぐにその表情は真剣なものに変わった。

 「二年であんたにも勝てるんだな!あんたの技を教えてくれ!」

 「衛門えもんだ。よろしく頼む。」

 衛門は二人の真っ直ぐな瞳に応え、彼らの師となった。

 こうして、三人の厳しい修行の日々が始まった。


 ー山での修行と三つの力ー


 衛門は、桃太郎に武士としての剣術や戦の知略を教える師となった。

 日の出と共に稽古は始まり、衛門の指導は厳しかった。

 竹刀が空を切る音、桃太郎の息づかい、弥助の素早い足音が、静かな山に響き渡る。

 「おい、桃太郎!踏み込みが甘い!もっと腹から声を出せ!」

 衛門の厳しい声が響く。

 桃太郎は何度も倒れ、手のひらに血豆を作りながらも、ひたむきに剣を振った。

 衛門はまた、弥助の独特な戦闘スタイルにも目を向け、その俊敏性をさらに活かす方法を教えた。

 しかし、知略についてはお手上げで、「勉強」と聞いた瞬間に、弥助は風のように姿を消してしまった。

 時々、弥助が顔を出しては衛門から剣術を学ぶこともあったが、彼の集中は長く続かなかった。

 「お前の相棒は面白いな。知略は苦手だが、動きはまるで風のようだ」

 衛門が感嘆の声を漏らすと、桃太郎は笑って答えた。

 「ハハハ、だろ?弥助は山の子だからな。実は俺も剣術は独学でな!教えてもらったのは、師匠が初めてだ」


 「師匠…か…」


 衛門は、桃太郎の純粋な言葉に少し照れた。

 だが桃太郎が師と敬ってくれる事よりも実は、衛門本人が桃太郎へ忠義を尽くそうと誓っていた。

 桃太郎を弟子としてではなく、主として見ていたのだった。

 彼らが持つ異なる才能を理解し、尊重するようになった。

 衛門は桃太郎に剣術を、弥助は桃太郎に野生の勘と知恵を、互いにないものを教え合い、三つの力は旅立ちの日に向けて磨かれていった。


 ー衛門の回想:砕け散った誇りー


 ある晴れた日の昼食時、厳しい稽古を終えた三人は、庵で食事をとっていた。

 衛門は、桃太郎ときび団子を頬張る弥助の楽しそうな様子を静かに見つめていた。

 その日の食事は、お婆さんが作ってくれた具沢山の汁物で、湯気からは香ばしい味噌の香りが漂っていた。

 衛門は温かい汁をすすりながら、遠い昔の記憶を語り始めた。

 

 「俺は、都で名の知れた武士だった。主の盾となり、多くの戦で武功を上げてきた。故郷から離れ、家族にもなかなか会えなかったが、妻と幼い息子の笑顔が、俺の生きる意味だった…」


 衛門がそう語り始めると、二人は静かに耳を傾けた。

 

 「俺は、主の命により、日ノ本の行く末を左右する重大な密書を託されていた。しかし、敵対する派閥の罠にはまり、その密書は偽物とすり替えられた。偽の密書には、主が敵国と内通していたという濡れ衣が書かれていた。俺は主の潔白を証明するために奔走した。だが、誰も俺の言葉を信じなかった。かつて俺を称賛した者たちは、冷たい目で俺を見下し、『裏切り者の犬め』と罵った。俺の持っていた名誉も、地位も、身分も、すべてが剥奪された。俺はただの罪人となり、都から追放された。生きる希望も、守るべき家族も、夢も、すべてを失った。俺はただの、名のなき男になったのだ…」


 衛門は、その時の絶望的な孤独を語った。

 道中、飢えと疲労で倒れ、汚れた姿で人々の嘲笑を浴びた。

 かつて誇り高かった武士の姿はどこにもなかった。

 故郷にたどり着くこともできず、ただ、死に場所を求めてさまよっていた。

 そして、この村にたどり着き力尽きたのだ。

 

 衛門が静かに語り終えると、庵の中に重い沈黙が満ちた。

 桃太郎は、固く握りしめた拳を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で衛門を見つめている。

 弥助は、いつもは悪戯っぽく輝いている瞳から光が消え、ただ黙って彼の話を聞いていた。

 二人の心には、衛門の言葉が深く突き刺さっていた。

 「そんな…」

 桃太郎が、絞り出すような声で呟く。

 衛門が都でどれほどの苦しみと絶望を味わったのか、桃太郎には想像することしかできなかった。

 衛門の誇りが、家族の笑顔が、一つ残らず踏みにじられた話は、桃太郎の心を締め付けた。

 「そんな俺を、お前たちは助けてくれた。俺が失ったものが、ただ着飾った栄光に過ぎぬと悟らせてくれた。礼を言う。」

 衛門は、温かい汁物が入った器を両手で包み込み、桃太郎と弥助をまっすぐに見つめた。

 彼の目に宿る光は、かつての絶望の影を拭い去り、新たな希望に満ちていた。

 「俺はもう、名もなき男ではない。お前たちの、そしてこの村の衛門だ」

 衛門の言葉に、桃太郎は涙をぬぐい、力強く頷いた。

 弥助は静かに立ち上がり、衛門の肩にそっと手を置いた。

 その手には、言葉以上の確かな連帯感がこもっていた。

 三つの異なる才能を持つ三つの魂は、今、一つになった。

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