第一章:血と泥の子守唄
西暦1552年。
幸【さち】が十兵衛【じゅうべえ】の元に嫁いで10数年が経った。
夫婦の間には長男の宗助【そうすけ】、長女の春【はる】がいた。
そしてその年、新たな命が幸のお腹に宿った。
子どもたちは素直に喜んでいたが、十兵衛と幸は、家族が増える喜びと不安が入り混じった複雑な心境だった。
ちょうどその頃、全国的に干ばつや洪水が多発する「天文の大飢饉」と呼ばれる災害が日本を襲っていた。
日照り続きで作物はまったく育たず、村の食糧庫も残り少ない。
十兵衛は宗助を連れて山に入る日々を送るが、最近は山のものもめっきり採れなくなっていた。
風は冷たく、頬を刺すようだった。
川には、飢えや疫病で命を落とした人々の遺体が、供養されることなく流れていく。
まるで、この世の苦しみを象徴するかのように。
そんな中、十兵衛の不安は現実になってしまった。
盗賊が村を襲撃し、わずかに残っていた食糧庫の蓄えまで奪い去ったのだ。
一家の生活は容赦なく追い詰められていった。妊婦である幸は日に日に痩せ衰え、体調を崩して床に伏せることが多くなった。
土間の囲炉裏では、長男の宗助と長女の春が小さな土鍋をかき混ぜていた。
土鍋の底には、ごくわずかな芋の切れ端と、山で採れたキノコが入っているだけだった。
湯気と共に、土と草の匂いが立ち込め、かろうじて腹を満たすための粥が作られていく。
「お母ちゃん、大丈夫かなぁ…」
春が不安げに、土鍋をかき混ぜる宗助に話しかけた。
その声は、自分自身に言い聞かせているかのようだった。
「大丈夫だよ、母ちゃんは強いから。明日こそは栄養のあるもの探してくるからな」
宗助は静かに頷き、春の頭を優しく撫でた。
その言葉に、父として何もしてやれない十兵衛の胸は締めつけられた。
11月下旬、朝から降り続く冷たい雨が枯れ木を揺らし、家屋を叩く。
家の奥から聞こえる母の咳は、日を追うごとに弱々しくなっていた。
夕刻、雨に濡れた十兵衛が帰宅した。
濡れた体を火で温めながら、彼は土鍋の粥を四つの椀に等しく分けた。
「今日は、こんなものしか採れなかった」
十兵衛が申し訳なさそうに言うと、宗助が明るく言った。
「いいんだ、父ちゃん。明日は俺も山に行くから。明日は一緒に頑張ろう!」
宗助のさりげない優しさに、十兵衛は何も言えず、ただ無言で粥を口に運んだ。
その味は、冷たく、土の味がした。
翌朝、雨は雪へと変わり、あたり一面を白く染めた。
雪は山肌の崖を脆くし、危険な状況が続いていた。
「宗助、今日はやめておこう。この雪では…」
十兵衛は宗助を心配し、山へ行くのをやめさせようとした。
しかし、宗助は十兵衛の目をまっすぐ見て、静かに言った。
「父ちゃん…俺は昨日、春と約束したんだ。それに母ちゃんとお腹の赤ちゃんにも栄養のあるもの食べさせたいんだ。それに…最近父ちゃん、飯ほとんど食べてないだろ?だから、俺がみんなに栄養のあるものを食べさせたいんだ。父ちゃん、頼むよ…」
十兵衛は宗助の強い意志に何も言えなかった。
彼は宗助の背中に自分と同じ家族を守ろうとする覚悟を見たからだ。
十兵衛は黙って頷き、二人は再び山へと入っていった。
雪が降り積もる山は、音を吸い込み、すべてを静寂の中に閉じ込めていた。
二人は慎重に足を進めるが、山の斜面は滑りやすく、時折バランスを崩した。
「父ちゃん、もう少しだ。あの崖の向こうに、まだ食料が残ってるかもしれない」
宗助が一歩足を踏み込んだ次の瞬間、地面が崩れ宗助は姿を消した。
崖の底から、かすかに宗助の声が響いた。
足場の崩れた崖を滑り落ちた宗助は、足を複雑に折り曲げ、顔を土と血で汚していた。十兵衛は必死に手を伸ばすが、宗助には届かない。
「宗助っ!もう少しだ!もう少し手を伸ばせ!」
十兵衛の言葉に、宗助は力なく首を横に振った。
「父ちゃん、無理だよ。俺はもう…動けない」
その言葉は、まるで悟ったかのように穏やかだった。
宗助は、十兵衛の顔をじっと見つめた。
「父ちゃん、俺がこうなったのは、運命だよ。でも、俺は後悔してない。…父ちゃんの背中を見て、俺、頑張ってこれたから…」
宗助の瞳から、静かに涙が一筋流れた。
「母ちゃんと妹を頼む。そして…お腹の新しい命を、どうか大切にしてあげておくれ」
宗助は笑顔を見せ、十兵衛にしか聞こえないほどの声でつぶやいた。
「父ちゃん…俺、ちゃんと兄貴やれてたかな…ごめ…」
その瞬間、崖の足元が大きく崩れ、宗助の体が谷底へと消えていった。
「宗助っ!宗助ぇっっっ!!」
十兵衛の叫び声は、降りしきる雪に吸い込まれ、誰にも届かなかった。
十兵衛は、長男を失った絶望と、何もできなかった自分への怒りで、正気を失いかけた。
残された家族のためにも、ここで諦めるわけにはいかない。
「宗助…!必ず、必ず戻ってくる!」
十兵衛は死に物狂いで崖をよじ登った。
体中が痛みに悲鳴を上げ、吐き気がこみ上げてくる。長男の遺体を回収しなければならない…せめて、土をかけてやらないと。
十兵衛は家に戻り、急いで食料と水を準備し、再び山に向かった。
しかし、雪は既に降り積もり、崖の上からは宗助の姿を確認することはできなかった。
十兵衛はただ、崖の上から土を被せ、祈ることしかできなかった。
帰宅後、十兵衛は家族に宗助の死を告げた。長女の春はただ静かに涙を流し、幸はショックで更に衰弱していった。
十兵衛は、時代と自分の無力さを呪い、ただ一人、怒りに震えていた。
その後も生きるのにギリギリな環境が続き、月日は流れた。
翌年6月
幸は最後の力を振り絞り出産に入る。
家の奥から、幸の苦しそうな声が聞こえてくる。
十兵衛はただ、その声に耳を澄ませるしかできなかった。
自分の無力さに打ちひしがれ、土間に座り込み、両の掌を固く握りしめた。
やがて苦悶の声が止まり赤子の産声が響き渡った。
十兵衛はその産声を聞いて初めて、安堵の涙を流した。
村の助産師が十兵衛に報告してきた。
「おめでとう!元気な男の子だ!」
十兵衛は扉を破壊する勢いで開け、幸の元へ駆け寄る
幸は、産まれたばかりの我が子を抱き、安堵の表情を見せた。
「幸!よくぞ…よくぞ産んでくれた!」
十兵衛は涙を堪えていたが、その目は赤くなり今にも溢れ出そうになっていた
幸はその顔をみて笑みを浮かべた
「この子は私達の希望…光【ひかり】と名づけましょうか…この子をどうか、よろしく…」
幸の言葉は、激しい息切れと共に途切れ途切れだった。
十兵衛は、生まれたばかりの子どもを抱き、幸のそばに座り込んだ。
幸は、最後の力を振り絞り、満面の笑顔で十兵衛の頬に触れた。
「今まで…ありがとう…十兵衛…先に逝く私を…お許しください…」
幸は、大量の汗を流しながら、そのまま静かに息を引き取った。
「幸!幸っ!」
十兵衛の叫び声は、家中に響き渡った。
彼は、愛する妻を失い、ぶつけどころの無い怒りに発狂した。
この世の理不尽さを、そして自分の無力さを呪った。
その後、十兵衛は残された子どもたちのために、必死に働いた。
山を駆け回り、わずかな木の実やキノコを探す日々。
だが、生活は改善されず、飢えは彼らの命を蝕んでいく。
特に、生まれたばかりの光は栄養を満足に与えることが出来ず、日ごとに痩せ細っていった。
春は母の代わりに光を抱き、懸命に世話をした。
だが、授乳ができない彼女は光の弱々しい鳴き声を聞くたびに、胸が締めつけられる思いだった。
夜になると光を抱きながら一人、こっそりと涙を流していた。
「母ちゃんがいたら…母ちゃんがいたら、この子を助けられたのに…」
春の心は徐々に疲弊し暗闇に沈んでいった。
鏡を見るたびに、そこに映る自分は母とは似ても似つかない、やつれた顔をしていた。
十兵衛もまた、娘の様子に気づいていた。
彼は、春の心身が限界に達していることを悟った。
そして、このままでは、全員死んでしまうと…。
ある夜、十兵衛は春を起こし、囲炉裏の前に呼んだ。
「話がある」
十兵衛の顔は、憔悴しきっていた。
彼は、震える声で話し始めた。
「このままでは…皆、飢えで死んでしまう。…だから…」
十兵衛は、生まれたばかりの光を、春からそっと受け取った。
「…この子は…川に流そう」
その言葉を聞いた瞬間、春は息をのんだ。
「この子は…もう、育たない。…母乳も飲めず、日ごとに弱っていく。…近くに母乳が出る人もいない…俺たちにこの子を育てることは、不可能なんだ…どうか、許してくれ…」
十兵衛の言葉に、春は静かに涙を流した。
「…お父ちゃん…」
春の声は、か細く震えていた。
「…私たち…お母ちゃんとの約束守れないのね…このまま頑張ってもひと月と持たない…」
春の言葉に、十兵衛は顔を上げた。
「子どもたちを、どうかよろしく」
と託された幸からの言葉。
十兵衛は、その約束を守れなかった自分を呪った。
「…宗助もこの子を助けるために、命を懸けた…」
十兵衛は、亡き妻と息子に顔向けができないと感じ呆然とした。
「川の伝説に命運を託そう…光は まだ衰弱して苦しんでいる…せめて安らかに…」
十兵衛の言葉に、春は静かに頷いた。
「…わかった、父ちゃん。…」
十兵衛の胸は締め付けられた。
9月。 山にはたくさんの桃が熟れて落ちていた。
十兵衛は、倒木を切って箱を作り、光を入れる。
春は桃を埋葬のお供えとして拾い集め箱に敷き詰め、真夜中に赤子を川に流した。
「どうか、神様、もし存在するならばこの子に安らぎを…もし可能なら幸福をお願いいたします」
十兵衛は、川と桃に祈りを捧げて木箱を流した。
木箱は、月の光を浴びながら、静かに川を下っていく。
十兵衛は、愛する我が子を流した罪の意識と、わずかな希望を胸に、ただ立ち尽くしていた。
春は自分の無力さを悔やみ、喉が潰れるまで泣き続けた




