第二章:凍える冬の夜
彼は長い旅の末、とある城下町の片隅にたどり着いた。
中心部のような活気あふれる喧騒は、もはや彼のいる場所には届かなかった。
ひっそりと寂れた路地は夜の闇に沈み、吹きつける風は肌を刺すように冷たい。
足元の雪が彼の歩みから音を奪い、凍てついた空気が肺を焼く。
忠助の体は寒さと飢えで限界に達していた。
これまでの輝かしい過去は、まるで遠い夢のように彼の心を支配した。
天下人の寵愛を一身に受け、忠助という誇らしい名で呼ばれていた日々も、今ではその名も高価な首輪も、すべて捨ててきたのだ。
首元の毛を撫でる冷たい風の感触だけが、彼の現実だった。
忠助の孤独は、城を飛び出した日から始まったのではない。
それは、平和な世が訪れた瞬間から、静かに彼の心を蝕んでいた。
戦場で主を守るという明確な使命を失った彼の存在は、日ごとに価値を失っていく。
城の奥で暖かな食事を与えられ、安らぎの日々を過ごしながらも、彼の心は満たされなかった。
かつて感じた戦場の血と泥、そして人間たちの争いが生み出す冷たい憎悪の匂い。
それらは彼の五感に深く刻み込まれ、彼を安らぎから遠ざけていた。
ー桃太郎の予知、そして宇喜多秀家の葛藤ー
忠助が主である秀吉の元を離れたのは、小牧・長久手の戦いで、深い崖下に転落した時、奇跡的に怪我一つなく、森の奥で気を失っていた彼を介抱してくれた男、桃太郎の言葉があったからだ。
桃太郎は、彼にこれからの世の動き、そして彼が生きるべき道について、三日間にわたって語り続けた。
その言葉は、まるで未来を予見しているかのようだった。
「忠助、お前にはこの世の不条理をなくす使命がある」
桃太郎の声は、静かだったが、その言葉には深い信念がこもっていた。
彼は、忠助の頭を優しく撫でた。
忠助は、その手の温かさに、彼が戦場で感じていた人間たちの冷たさとは違う、慈愛に満ちた温かさを感じた。
「これからは、人の争いから遠ざかり、お前の五感を研ぎ澄ませ。お前のその力は、戦のためではなく、見捨てられた者たちのために使うのだ。まずはお前を、私の友である宇喜多秀家のもとへと導こう。 彼は、秀吉殿の側近として、この世の光と影を誰よりも知っている。だが、根が真面目すぎるがゆえに、お前の面倒は見ていられないだろう。お前の存在が、殿や彼にとって負担になりかねない。だからこそ、城下町に降りるのだ。運命がお前を導くだろう」
そして、桃太郎は忠助を、かつて桃太郎がそうであったように、人の争いから遠く離れた、清らかな沢のある場所へと導いた。
そこで忠助は、戦闘の訓練ではなく、「安らぎ」というものを教わった。
それは、水の音、風の音、鳥の声。
自然の音に耳を澄ませ、五感を研ぎ澄ますことで、心の奥底に眠っていた、本当の自分と向き合うことだった。
その時に教わった、五感の研ぎ澄まし方、そして、心穏やかに過ごすための術。
それは、忠助の心に深く刻み込まれた。
桃太郎の言葉に従い、忠助は宇喜多秀家の屋敷へと向かった。
屋敷の門の前で、彼の鼻が、遠い昔に嗅いだことのある匂いを捉えた。
それは、桃太郎と共に旅をした、あの男の匂い。
秀家は、忠助を見て、すぐにその正体を見抜いた。
「…やはり、お前だったか、忠助。殿の忠犬として、その名を轟かせたお前が、なぜここに?」
秀家は、忠助を屋敷へと招き入れ、彼の話を聞いた。
忠助は、言葉は話せないが、彼の瞳は、これまでの苦難の道のりを雄弁に物語っていた。
秀家は、忠助の苦しみを理解し、彼を抱きしめた。
「お前は、この世に安寧をもたらす使命を負っている。だが、私もまた、殿の天下統一を支えるという使命を負っている。お前をこの屋敷に留め置くことは、私の立場上、殿に無用な詮索をさせることになる。それは、お前にも、そして殿にも、負担をかけることになる」
秀家は、そう言って、忠助の首元の毛を優しく撫でた。
その手は、温かかった。
忠助は、その温かさに、安堵を感じた。
秀家は、忠助に、旅の餞別として、小さな革袋に入
った干し肉と、水を満たした水筒を与えた。
「行け、忠助。運命がお前を導くだろう。我らの使命は、場所が違えど、同じなのだ」
忠助は、秀家の言葉を胸に、再び旅に出た。
彼の心は、もはや孤独ではなかった。
彼の旅は、「安らぎ」を探す旅ではなく、「運命」を追い求める旅へと変わっていた。
忠助は、城下町へ向かう途中で、多くの不条理を目にした。
飢えに苦しむ人々、病に倒れる人々、そして、彼らを食い物にする、冷酷な人々。
そのたびに、彼の心は痛み、戦場で感じた、血と泥の匂いが蘇った。
しかし、彼は旅の道中で、人の温かさにも触れた。
ある日、忠助は、道端で倒れている一人の子供を見つけた。
子供は、高熱を出し、意識を失っていた。
忠助は、子供に駆け寄り、その体を温めた。
すると、一人の老婆が、忠助と子供に気づき、駆け寄ってきた。
「ああ、なんて可哀そうな…」
老婆は、忠助と子供を、小さな家へと招き入れた。
老婆は、子供に温かい粥を与え、忠助にも、握り飯を与えた。
忠助は、老婆の優しさに、涙を流した。
老婆は、忠助の頭を撫で、優しく微笑んだ。
「お前は、なんて優しい子なんだ…」
その言葉は、忠助の心に深く刻み込まれた。
彼は、この世には、まだ温かい心が残っていることを知った。
寒さと飢えが彼の体力を奪い、雪にまみれて倒れそうになった時、彼の鼻を温かい味噌の香りがかすめた。
それは、かまどから漂う、優しい香りだった。
忠助は、その匂いを頼りに、ふらふらと一軒の小さな家へと向かった。
凍える心、そして安らぎ
家の戸が開くと、優しい顔をした老夫婦が、驚いた顔で忠助を見つめていた。
その顔には、貧しいながらも、優しさが満ち溢れていた。
「こんなに寒いのに、どこをさまよっていたのかね…」
老夫婦の夫である善兵衛と、妻の花乃は、衰弱している忠助を見て迷わず家の中へと招き入れた。
忠助は、老夫婦の家に入ると、その温かさに、凍えていた体がじんわりと溶けていくのを感じた。
囲炉裏からは、薪が燃えるパチパチという音が聞こえ、部屋は、温かい火の光に照らされていた。
忠助は、その光に、これまでの人生で感じたことのない、安らぎを感じた。
「この子は…」
花乃は、震える手で忠助を抱き上げた。
忠助の小さな命の温かさが、彼女の凍える心を温めてくれた。
それは、幼い頃に生類憐れみの令で愛犬タロを奪われ、心を閉ざしていた彼女の、深い心の傷を癒していくようだった。
「大丈夫だよ…もう、一人じゃない」
花乃の声は、悲しみと、そして深い愛情に満ちていた。
その声を聞いた善兵衛は、妻がタロを失って以来、初めて見せた安堵の表情に、静かに涙を流した。
老夫婦は、忠助に温かい粥を与え、凍えた体を優しく拭いてくれた。
忠助は、その温かさに、これまでの血と泥にまみれた過去が癒されていくのを感じた。
「この子は、シロ、と名付けよう」
善兵衛がそう言うと、花乃は優しく頷いた。
忠助は、その日から「シロ」という新しい名を得て、老夫婦の実の子のように可愛がられた。
それは、戦闘の犬として活躍していた彼が探し求めていた、本当の安らぎの場所であった。




