第四章:秀吉の台頭と桃太郎の新たな策
天正十年(1582年)、京の都を炎が包み、信長の天下統一に終止符が打たれた。
中国大返しを敢行した秀吉は、歴史を動かす好機を逃すまいと、豪雨の中を駆け抜け、疲弊した軍勢を鼓舞し、瞬く間に光秀を討ち取った。
その後の天下人への道は、秀吉にとって驚くほど順調に進んでいく。
柴田勝家との賤ヶ岳の戦い、徳川家康との小牧・長久手の戦いを経て、秀吉は誰もが認める天下人へと駆け上がっていった。
この秀吉の快進撃の裏には、桃太郎の影が常に付きまとっていた。
しかし、桃太郎の策略は、秀吉をただ勝たせるためだけではなかった。
それは、秀吉という人物に、「天下を自らの力で掴み取った」という強い確信を持たせるための、巧妙な演出だった。
ー秀吉の葛藤と桃太郎の計算ー
「やはり出来すぎている…」
賤ヶ岳の戦いの後、秀吉は自らの陣幕の中で、地図を睨みながら静かに呟いた。
柴田勝家は、信長が唯一認めた実力者だ。
その勝家を、自分は驚くほど短期間で討ち取ってしまった。
戦況は、常に自らに有利な方向に傾き、敵は思わぬ自滅を繰り返した。
それは、もはや天命としか思えないほどに、完璧な流れだった。
秀吉の脳裏に、本能寺の変の前に抱いた疑念が蘇った。
荒木村重の不可解な失踪、備中高松城での水攻め。
そして、自分に都合よく流れてくる情報。
その全てが、まるで誰かに操られているかのようだった。
「桃太郎…」
秀吉は、その名を口にした。
鬼ヶ島から戻った後、病に倒れ死んだと噂される男。
しかし、秀吉は直感的に、その噂が偽りだと見抜いていた。
桃太郎は実在し、その武勇伝は単なる力任せなものではない。
そこには、卓越した知略と、人や獣を意のままに動かす、人智を超えた能力があった。
「もし、奴が実在し生きているとすれば…この流れは、奴の仕業だ」
秀吉は、不敵な笑みを浮かべた。
自らの天下統一が、誰かに操られたものだという事実に、彼は怒りよりも、むしろ興奮を覚えていた。
しかし、彼の内心は、焦燥と疑念に満ちていた。
見えない相手との知能戦。
それは、秀吉が今まで経験したことのない種類の戦いだった。
「…ならば、その桃太郎とやらを、この手で屈服させてくれる」
秀吉は、家臣たちには悟られないように、密かに桃太郎の居場所を探し始めた。
ー小牧・長久手の戦い:勝利の陰に隠された策略ー
天正十二年(1584年)、秀吉は家康との直接対決に臨んだ。
小牧・長久手の戦いである。
この戦いは家康の巧みな戦術が光り、秀吉軍は多くの被害を出したことで知られる。
しかし、これは桃太郎が仕組んだ、新たな舞台だった。
「秀吉殿は、この戦で、一度敗北を味わう必要がある」
桃太郎は、山奥の隠れ家で、地図を広げながら衛門に語った。
火がパチパチと燃える音だけが、張り詰めた空気に響く。
「もし、秀吉殿が何の苦労もなく天下を統一すれば、民は彼を『天命を受けた者』ではなく、『運のいい男』としか見ないだろう。
それでは、彼の統治に正当性が欠けてしまう。
我らの理想である『武力によらない統治』を根付かせるためには、民が心から彼を慕い、彼の統治を喜んで受け入れる必要がある」
桃太郎の声は、静かだが、その言葉には深い信念がこもっていた。
「では、家康殿には、我らが…」
衛門が、桃太郎の言葉を受けて、地図の家康軍の陣営を指差した。
「ああ。時雨には、家康軍の動向に関する偽情報を、秀吉殿に流させる。それは、家康軍の動きを予測させ、秀吉殿の軍が罠にかかるよう仕向けるためのものだ」
桃太郎は、時雨の役目を説明した。
「では、弥助殿には…」
衛門は、弥助の役割を尋ねた。
「弥助には、家康軍の補給路を、絶妙なタイミングで妨害させる。
秀吉殿が完全に敗北しないよう、しかし、苦戦を強いられる程度に…」
桃太郎は、全てを計算に入れていた。
その計画は、まるで蜘蛛の糸のように、歴史の表舞台に張り巡らされていた。
ー忍びの苦悩と使命感ー
時雨は、家康軍の陣営に潜入していた。
夜風が彼女の頬を撫で、遠くから家康軍の兵士たちの話し声が聞こえる。
彼女は、与えられた使命を果たすべく、偽の情報を記した文を、家康軍の密偵に巧妙に渡した。
その密偵は、何の疑いもなく、その文を秀吉陣営へと運んでいく。
時雨は、自分の行動が、これから多くの命を奪うことになると知っていた。
偽の情報によって、秀吉軍は罠にかかり、多くの兵士が命を落とすだろう。
彼女の手は、母として我が子が笑って過ごせる世の中を作り上げるために短刀を握りしめている。
その手に悩みなどなかった。
「全ては喜備丸のため。」
その言葉が、彼女の心を支えていた。
彼女は、愛する者の未来のためならば、どんな犠牲も厭わないと決意していた。
彼女は桃太郎の指示を、ただの命令としてではなく「未来への祈り」として受け止めていた。
ー弥助の活躍と情報の流れー
弥助は、家康軍の補給路にいた。
彼は、山に潜む獣のように、気配を消し、静かに獲物を待っていた。
補給部隊の足音、馬の嘶き、荷車の軋む音。
その一つ一つが、弥助の耳に正確に届いていた。
彼は、家康軍の補給路を、絶妙なタイミングで寸断した。
荷車を転倒させたり、道を塞いだり。
しかし、それは、家康軍が完全に補給を失うほどのものではなかった。
あくまで、「苦戦」させるための、絶妙な妨害だった。
「桃太郎殿は俺に『補給路を妨害しろ』とは言わなかった。
ただ『秀吉殿に苦戦を強いる』とだけ言った。俺はその言葉の真意を汲んで、この行動をとった」
弥助は、心の中でそう呟いた。
桃太郎たちは互いに言葉を交わさずとも、その意図を完璧に理解し合っていた。
秀吉は、弥助の妨害に気づいていた。
しかし、その妨害が誰の仕業かまでは分からなかった。
秀吉は、その妨害が家康軍の巧妙な罠だと勘違いし、さらに家康軍の深部に踏み込んでいく。
「…人智を超えた…」
秀吉は、桃太郎の存在を確信していた。
しかし、その存在を掴むことはできなかった。
桃太郎たちが用いる、人知を超えた情報の伝達方法に、秀吉は翻弄されていた。
ー吉備の村の知恵と勇気ー
吉備の村は、秀吉の支配下で、再び年貢を納め、兵を出し続けた。
しかし、衛門の交渉術と、裏で桃太郎が指示する戦略的な情報操作により、村の被害は最小限に抑えられていた。
「この村は、信長様に忠誠を誓い、秀吉様に尽くすことを決意いたしました。しかし、これ以上兵を出せば、村の存続が危うくなります。何卒、ご慈悲を…」
衛門は、秀吉軍の家臣に、村の窮状を涙ながらに訴えた。
その言葉は、悲しみを装ってはいたが、その目の奥には、決して屈しないという、固い決意が宿っていた。
村に残った元「鬼」たちは、秀吉の戦に駆り出されたが、彼らは桃太郎への忠誠を誓い命を落とさぬよう、しかし戦場では誰よりも勇猛に戦い続けた。
彼らは桃太郎が築き上げた「武力によらない統治」の理想を、その身をもって守り抜く戦士たちだった。
「桃太郎様は、我らを信じてくださった。今度は、我らが桃太郎様の理想を守り抜く番だ」
彼らは、そう心の中で呟き、戦場を駆け抜けていった。
ー秀吉の勝利、そして桃太郎の優位ー
小牧・長久手の戦いは、歴史通りに収束した。
秀吉は、苦戦を強いられながらも、最終的には家康を圧倒した。
秀吉は、家康との戦いを終え、自らの陣幕に戻った。
彼は、疲労困憊していた。
しかし、その顔には、勝利の喜びに満ちていた。
「…勝った!この俺が、あの徳川家康に勝ったのだ!」
秀吉は自らの才覚と苦難を乗り越えて掴んだ勝利に心から満足していた。
彼の中にあった誰かに操られているかもしれないという疑念は、その勝利の喜びに塗りつぶされていった。
しかし、秀吉は気づいていなかった。
その勝利こそが桃太郎の計算通りだったことを。
桃太郎は秀吉の天下統一を確固たるものにするために、あえて彼に「苦労」をさせたのだ。
それは勝利をより甘美なものにし、秀吉の統治に揺るぎない正当性を与えるための巧妙な演出だった。
桃太郎は遠く離れた村の丘の上で月明かりに照らされながら、静かに秀吉の勝利を眺めていた。
「秀吉殿…あなたは、この国の平和を築くための、最高の道具だ。そして、私は、その道具を動かす『見えない手』となる」
桃太郎の声は、風に乗り、夜の闇に吸い込まれていった。
ー物語は、次の舞台へー
秀吉は、自らの力で天下を統一したと信じ、さらなる高みを目指す。
しかし、その裏で、桃太郎の知能戦は、静かに、しかし確実に、続いていくのだった。
ー4人の絆ー
その夜、桃太郎は、再び村の丘に登った。
そこには、衛門、弥助、時雨が待っていた。
彼らは、桃太郎の顔を見て、何も言わなかった。
ただ、静かに、桃太郎の隣に腰を下ろした。
桃太郎は、懐からきび団子を一つ取り出し、静かに口に運んだ。
衛門、弥助、時雨も、それに倣う。
甘さがじんわりと広がり、彼らの心に安らぎを与えた。
「……俺は、…俺たちはこの国を動かす『見えない手』となる」
桃太郎が、静かに、しかし確固たる声で呟いた。
その言葉は、もはや迷いを一切含んでいなかった。
衛門は、その言葉に力強く頷いた。
弥助は、固く握りしめた拳を見つめ、決意を新たにする。
時雨は、桃太郎の横顔を静かに見つめ、その瞳に宿る光を、信じるように見つめていた。
彼らは、言葉を交わす必要はなかった。
互いの心は、すでに一つとなっていた。
愛する者の未来のため、「裏側」を生きることを選んだ四人の物語は、静かに、しかし確実に、進んでいく。




