第二章:闇に消える者たち
天正十年(1582年)、戦国の世は、織田信長という巨大な光によって照らされていた。
その光の届かぬ場所で、桃太郎たちは静かに、そして周到に、歴史を動かしていた。
信長の中国攻めが本格化する中、彼の陣営では不可解な出来事が頻発した。
それは、まるで漆黒の帳が、歴史の筋道を密かに描き直しているかのようだった。
ー備中高松城の戦い:水と影の奇策ー
梅雨の季節、備中高松城は深い霧に包まれていた。
城を囲む秀吉軍の陣営には、雨が降り続き、兵士たちの足元は泥濘に埋もれていた。
その重苦しい空気の中、桃太郎の密偵たちは、城を囲むように築かれた堤防の完成を待っていた。
「水攻め…か」
桃太郎は、弥助から受け取った地図を広げ、指で城の周りの川の流れをなぞった。
土の湿った匂い、雨に濡れた木の葉の匂い、そして遠くから漂う川の匂いが、彼に戦略を語りかけているかのようだった。
この奇策の裏には、時雨の暗躍があった。
時雨は、夜陰に乗じて、毛利軍の陣営に潜入していた。
彼女の足音は、闇に溶け込むようで、兵士たちの寝息や、雨に打たれる陣幕の音にかき消されていた。
彼女の目的は、毛利軍の伝令を妨害することと、偽の情報を流すこと。
彼女は、毛利の伝令が持つ巻物を、寸分の狂いもなく偽物とすり替えた。
その巻物には、援軍の到着が遅れるという、偽りの情報が記されていた。
時雨は、草むらに身を潜め、偽りの巻物を持たされた伝令が、再び夜の闇に消えていくのを見送った。
彼女の心には、冷たい雨粒とは違う、冷たい感情が満ちていた。
これは、人殺しではない。ただ、歴史を動かすための、一つの歯車に過ぎない。
そう自分に言い聞かせても、彼女の手のひらは、握りしめた短刀の柄でじっとりと汗ばんでいた。
しかし、時雨の暗躍はそれだけではなかった。
彼女は、毛利軍の伝令の癖、立ち回り、会話の内容まで、綿密に弥助の斥候網を通して監視していた。
その情報が、衛門の筆によって精緻な地図となり、桃太郎に届けられた。
桃太郎は、その情報を元に、秀吉軍の陣営に、あたかも偶然を装って情報を流し込んだ。
「毛利軍は、水害で街道が寸断され、動きが取れないようですな」
村人になりすました衛門の密偵が、秀吉軍の兵糧を運ぶ農民に、さりげなくそう語りかけた。
情報が真実であることと、その情報の出所が怪しまれないよう、衛門は細心の注意を払っていた。
この情報を信じた秀吉は、毛利軍の援軍が到着する前に、水攻めを敢行した。
水が渦を巻き、城の周囲は湖と化した。
城は孤立し、兵糧は尽き、城主・清水宗治は自らの命をもって城兵の命を救った。
桃太郎は、遠くからその様子を見ていた。
城から立ち上る白い煙、そして、城主の首を差し出す兵士たちの姿。
それは、一つの命の終わりであり、一つの時代の始まりだった。
この勝利は、秀吉の天才的な閃きによるものだと、誰もが信じていた。
ー荒木村重、闇に消えるー
天正六年(1578年)。
信長の天下統一が目前に迫る中、彼を裏切ろうとする者も現れた。
信長の重臣の一人、荒木村重は信長に反旗を翻し、伊丹城に籠城していた。
歴史上、彼は最終的に姿を消し、その後の消息は不明とされている。
この裏には、時雨の影があった。
伊丹城に潜入した時雨は、城の隅々まで、まるで自分の庭のように知り尽くしていた。
彼女は、夜風の音、鳥の鳴き声、城兵の足音、その全てから情報を読み取っていた。
彼女の肌は、壁の冷たさや、石段の苔の湿り気を敏感に感じ取っていた。
村重の居場所を突き止めた時雨は、彼の居室の前に立った。
部屋からは、筆を走らせる音と、すすり泣くような声が聞こえてくる。
村重は、密かに毛利氏と連絡を取ろうとしていた。
その手紙には、信長への憎悪と、彼の苛烈な統治への不満が、切々と綴られていた。
時雨は、その手紙を掴むと、一瞬にして村重の命を奪った。
短刀は、何の抵抗もなく村重の心臓を貫いた。
血の匂いが部屋に充満し、時雨は、一滴の血も浴びることなく、その場を離れた。
その後、村重の遺体は、地下の隠し通路から運び出され、誰も知らない場所に埋められた。
時雨は、遺体を隠す場所を探す間、心の中で、桃太郎の言葉を反芻していた。
「この国の平和のためには、必要な犠牲だ…」
彼女は、復讐を遂げた後の虚しさを知っていた。
しかし、今回は、憎しみのためではない。
桃太郎が守ろうとしている、喜備丸の未来のために。
村重が逃亡したかのように偽装されたことで、信長は激怒した。
彼は、村重の裏切りを許さず、伊丹城を徹底的に攻撃した。
そのことで、信長の「天下統一の意志」はさらに強固になった。
桃太郎は、信長が自身の力で道を切り開くという信念を揺るがさないよう、周到に事を運んでいた。
ー桃太郎、戦場の影に立つー
桃太郎自身は、戦乱のど真ん中を飛び回っていたが
彼の存在は敵味方の常に裏を取っていたが故に風の噂にすらならなかった。
彼の姿を見た者は数日中に何らかの形で命を落としていたためだ。
彼は、敵の斥候部隊を撹乱し、信長軍と鉢合わせさせたり、毛利氏に偽の情報を流したりと、その行動は変幻自在だった。
ある日、桃太郎は、毛利軍の伝令を追っていた。
伝令は、疲労困憊で、足元もおぼつかなかった。
桃太郎は、伝令の背後から静かに近づき、一撃で彼の首を刎ねた。
伝令は、何が起こったのかも分からず、そのまま地面に倒れ伏した。
桃太郎は、伝令の首から血が流れ出るのを見つめていた。
その血の匂いは、かつて斬った「鬼」たちの匂いとは違っていた。
それは、ただ、死の匂いだった。
「…俺は、何をしているんだ…」
彼は、両手で顔を覆い、静かに呟いた。
かつて、正義のために剣を振るっていた少年は、今、歴史の裏側で、無数の命を奪う「鬼」になっていた。
その日の夜、一人になった桃太郎は、村の裏手にある小さな丘に登った。
そこからは、月明かりに照らされた、安堵の村が一望できた。
かつて飢えと略奪に苦しんでいた村人たちは、今、穏やかな寝息を立てている。
その平和な光景が、桃太郎の胸に刃のように突き刺さった。
彼は、誰にも聞こえないように、静かに泣いた。
この決断しかできない自分を、心底恨んだ。
鬼を斬った時と同じだ。
あの時も、目の前の悪を排除することで多くの人々が救われると信じていた。
だが、その裏には悲しい真実と罪なき人々の犠牲があった。
…今回も…同じだ…
天下統一という大義名分の裏で、無数の命が失われるだろう。
理想を捨てることでしか、理想は守れない。
それが、この時代を生き抜くための答えなのだろうか。
ー三人の決意、一つの誓いー
その桃太郎の姿を、衛門、弥助、時雨は、少し離れた場所から見守っていた。
その背中は、あまりにも孤独で、そして重苦しそうだった。
衛門は、かつて仕えた主君の苦悩を思い出し、弥助は、兄と慕う桃太郎の痛みを我がことのように感じていた。
そして、時雨は、自らの手で愛する者を孤独に追いやっているという罪悪感に胸を締め付けられていた。
「…桃太郎殿…」
衛門が、静かに桃太郎の名を呼んだ。
その声は、夜の闇に吸い込まれるように、しかし確かに響いた。
桃太郎は、振り返ることなく、肩を震わせた。
「こんな場所まで、どうして…」
桃太郎の声は、かすかに震えていた。
弥助は、桃太郎のそばまで駆け寄ると、その背中にそっと手を置いた。
弥助の手は、温かく、桃太郎の背中にじんわりと熱を伝えた。
「一人で背負うなよ、桃太郎。俺たちがいるだろう」
弥助の声には、偽りのない兄弟愛がこもっていた。
時雨は、何も言わずに、桃太郎の前に立った。
彼女の瞳は、月明かりに照らされ、静かに輝いていた。
その瞳には、かつて彼女を救ってくれた桃太郎への、深い感謝と、そして愛が宿っていた。
「喜備丸が笑って過ごせる日々を、共に作ろう」
衛門が、桃太郎の隣に腰を下ろし、静かに言った。
その言葉は、桃太郎の心に深く突き刺さった。
彼は、自分が一人で抱え込んでいると思っていた重荷を、三人が共に背負おうとしていることを知った。
「桃太郎、提案なのだが」
衛門は桃太郎の方の力が少し抜けたタイミングで口を開く
「桃太郎の過去の功績は伝説として言い伝えられているのは知っているか?」
桃太郎は衛門の言ってる事の意味を理解できず首を傾げる
「お主は自分の事となると本当に疎いのぉ!巷では桃太郎は大きな桃の中から不思議な力を纏いて生まれ、犬、猿、雉を引き連れて鬼退治に向かい悪を滅ぼして村を救った英雄、と言われてるぞ!その上記を逸した話から伽話として知られてるらしい」
衛門は大声で笑いながら桃太郎伝説について話をした
「して提案なのだが、お前の存在は実在するのか、それとも作り話なのかと意見が割れておる。動物を三匹引き連れると言われてるということは我々3人も存在自体は知られていない。どの勢力も我々の事は噂で聞いた事がある程度の知識だろう。だが秀吉、こやつは桃太郎の実在を肯定しておる。だから桃太郎は実在したが鬼ヶ島から戻って2年後に永眠したと噂を流そうと思っておる」
桃太郎はその不確定な要素はいずれ役に立つと考えニヤリと笑った
その場にいた全員が桃太郎の笑みを理解し、それぞれ肯定派が現れたら噂を流すよう心がけようと違う
ここで弥助が明るい声で喋り出し場を和ませた。
「しかしよー!犬と猿と雉とは、噂の出所どこだよ!俺が猿で、衛門が犬で時雨が雉か?こりゃ愉快だな!」
一同は楽しいひとときを笑いながら過ごしていた
そこで時雨は、懐から一つずつ、きび団子を取り出した。
それは、村を旅立つ時に、桃太郎が持たせてくれた、思い出のきび団子だった。
「さあ、皆で食べましょう」
時雨の声は、優しく、そしてどこか懐かしい響きを持っていた。
ー団子を囲んでー
四人は、静かにきび団子を口にした。
砂糖の優しい甘さが、彼らの心の渇きを潤していく。
そして、その味は、彼らが再会した頃の記憶を呼び覚ました。
「…弥助って、本当にチョロチョロしててな!素早いんだ」
桃太郎が、少しだけ声を弾ませて言った。
「桃太郎殿が鬼ヶ島へ行くって言った時、俺は真っ先に弥助殿を誘いましたからな。素早いし、頭も切れる。…ただ、勉強となれば逃げ出してたな!当時の俺でも追いつけなかったわ」
衛門が、楽しそうに弥助の過去を語った。
弥助は、頬をかきながら、照れくさそうに笑った。
「だってよぉ、文字なんて読めなくたって、獣と話せれば生きていけるんだ。衛門殿は真面目すぎなんだよ」
弥助の言葉に、三人は笑い声をあげた。
その笑い声は、この数ヶ月、彼らが忘れていた、本当の自分たちの声だった。
「…時雨なんて、最初、本当に無口で怖くてなー」
弥助が、少し悪戯っぽく時雨に視線を向けた。
「目が合うだけで、斬られるんじゃないかって、毎日怯えていたわ」
弥助の言葉に、時雨は静かに微笑んだ。
「あの頃のことは、忘れたい過去だわ。復讐しか頭になくて…周りの何も見えてなかった」
時雨の声は、かすかに震えていた。
彼女は、かつて、憎しみに囚われていた自分を思い出し、胸が苦しくなった。
その時雨の後悔を打ち消したのは、またも弥助である
「きび団子初めて食べた時の時雨って、少女だったよな!一口食べた瞬間に目を見開いて頬に手を当てて、目がキラキラしていたよ」
ケラケラと腹を抱えて笑う弥助に周りも笑みを浮かべた。
「だが、その忘れたい過去の先に今の喜備丸がいる。…悪いことばかりではあるまいて」
衛門が、静かに時雨に語りかけた。
その言葉は、時雨の心に温かい光を灯した。
「そうだな。もしも、あの時、時雨が俺の元に現れなければ今のこの時間も存在しなかっただろう…俺は喜備丸もという宝も手に入って幸せだ」
桃太郎は、時雨の手にそっと自分の手を重ねた。
時雨は、桃太郎の手の温かさに、涙がこみ上げてくるのを感じた。
「俺は、お前たちに救われたんだ。そして今も、こうして、俺を支えてくれる。…本当に、ありがとう」
桃太郎は、心からの感謝の言葉を口にした。
四人は、再び静けさの中に戻った。
しかし、その静けさは、もはや孤独なものではなかった。
彼らは、互いの存在を確かめ合うように、きび団子をかみしめた。
その甘さは、彼らの決意を、そして未来への希望を、より確固たるものにしていた。
新たな誓い
月明かりの下、四人の影が一つに重なり合った。
彼らの心には、「喜備丸が笑って過ごせる世の中」という、一つの共通の願いがあった。
「俺たちは、この世の『鬼』になる。喜んで、闇の中を歩いていこう」
桃太郎の声は、もう震えていなかった。
彼の瞳は、月明かりに照らされ、静かに、しかし力強く輝いていた。
「この先、どんな道を選ぼうとも、我らは常に、桃太郎殿と共にあります」
衛門が、真摯な眼差しで桃太郎を見つめた。
「俺は、お前を一人にはしない。絶対に」
弥助は、固く拳を握りしめ、桃太郎に誓った。
「私も…」
時雨は、静かに、しかし確固たる決意を込めて言った。
彼らは、再び、きび団子を口にした。
その甘さは、彼らの決意を、そして未来への希望を、より確固たるものにしていた。
彼らは、孤独な「鬼」ではない。
彼らは、愛する者の未来を守るために、共に「鬼」になることを選んだ、真の仲間たちだった。




