第九章:安堵の光
鬼ヶ島からの帰路、船は静かな波をかき分けて進んでいた。
桃太郎は、懐にしまった遺書の重みを噛みしめ、頭領の最期の穏やかな顔を思い出していた。
その眼差しは、もう泣かないと誓った彼の胸の奥で、決して消えることのない炎となった。
故郷の村に帰ると、村人たちは桃太郎を英雄として迎え、歓喜の声が響き渡る、だがその声はすぐに戸惑いのざわめきに変わった。
桃太郎の背後から現れたのは、かつて恐れられた「鬼」たち。
彼らは誰も武装しておらず、ただ憔悴しきった表情で、怯えるように佇んでいた。
村人たちの間に恐怖が広がり、手にした鎌や鍬を構える者もいた。
「皆、落ち着いてくれ!」
桃太郎が前に進み出て、両手を広げた。
その声は、かつてないほどに強く、村人たちを静かにさせた。
「彼らは、もう我らを襲わない。飢えから解放され、共に生きる道を選んでくれた、哀れな人間たちなのです」
弥助もまた、村人たちに語りかけた。
「島から持ってきた、野菜の種や農具も、すべて彼らが作ったもの。これを皆で使えば、もう飢えに苦しむことはない!」
弥助の言葉に、村人たちの間に驚きの声が上がった。
鬼ヶ島から持ち帰られたのは、金銀財宝などではなかった。
それは、新しい時代を築くための希望の種だったのだ。
桃太郎の指示で、極度の栄養失調に陥っている者たちには、島から持ち帰った新鮮な桃が配られた。
その甘い香りが、人々の心を静かに満たしていく。
特に重症の妊婦たちは、村の庵で温かく迎え入れられた。
村長が、桃太郎の元へとやってきた。
「一体、どういうことじゃ…」
桃太郎は、村長と向かい合い、鬼ヶ島で起こった悲劇と、頭領との対話、そして彼らが村を略奪した本当の理由を語った。
「彼らは、村を襲った罪を償うために、この村で共に生きることを選んでくれました。そして、私が、彼らの村長代表として、この村の未来を共に担う者として、ここへ戻ってきたのです」
村長は、桃太郎のまっすぐな眼差しに、ただ静かに頷くしかなかった。
平和が訪れてしばらく経ったある日。
桃太郎は情報収集能力に長けた時雨を伴い、十兵衛の家を訪れた。
時雨は、桃太郎の意図を察し、彼の後ろで静かに佇んでいた。
「…十兵衛、久しいな」
桃太郎が声をかけると、十兵衛は驚いたように顔を上げた。
「おお、桃太郎!英雄様がおいでくださるとは…」
十兵衛は、桃太郎が鬼ヶ島を平定し、村に平和をもたらしたことを心から喜んでいた。
桃太郎は、鬼ヶ島での真実を十兵衛に語った。
「鬼と呼ばれていた者たちも、飢えに苦しみ、生きるために略奪をしていたのです。ですが、その中に一人だけ、快楽のために殺戮を楽しむ下劣な男がいました。奴は頭領の弟で、時雨が…俺たちの手で打ち取りました」
十兵衛は、桃太郎の話に耳を傾け、静かに頷いていた。
「…わしには、三人の子どもがいたんじゃ」
十兵衛は、ぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「長男の宗助は、山に食料を探しに行った時に崖から落ちて…次女の春は、俺と二人で暮らしていた時に盗賊に…」
十兵衛の語りから、深い悲しみと後悔の念が、枯れた川のように静かに流れ出た。
桃太郎は胸が締め付けられるような痛みを感じた。
彼の村も、十兵衛の村も、同じ飢えの悲劇に苦しんでいた。
「十兵衛…俺も、その気持ちは痛いほどわかる。絶望の淵に立たされて、それでも万が一に祈りを捧げるほど苦しんだ人がいるんだ」
桃太郎は、自分の過去を語り、十兵衛の悲しみに寄り添った。
「俺なんか、箱に詰められて桃と一緒に流されたらしいぞ!誰が流したかは知らんが、俺を流した人もあんたと同じように、絶望の淵に立たされて、それでも俺に生きる希望を託してくれたのかもしれない」
その言葉に、十兵衛は静かに涙を流した。
そして、意を決したように、桃太郎の肩を震える手で掴んだ。
「…まさか…お前が…!」
十兵衛のその言葉に、桃太郎は驚き、言葉を失った。
十兵衛は、大声で泣きながら、すべてを語り始めた。
「…飢饉で、お前と妻、そして三人の子どもを養うことができんかった。お前を、桃と一緒にな…川に流したんじゃ…」
十兵衛は、桃太郎を捨てた実の父だったのだ。
十兵衛は、桃太郎の肩を震える手で掴むと、大声で泣きながら許しを懇願した。
「…餓鬼のように泣く声が、今も耳から離れんのじゃ…許してくれ、頼む…!」
だが、桃太郎には捨てられた悲しみは一つもなかった。
彼は、父の顔に刻まれた深いシワと、涙に濡れたその目を見て、彼が味わった苦しみと葛藤を理解した。
「父上…」
桃太郎が初めて口にしたその呼びかけに、十兵衛はさらに声を上げて泣いた。
「もし、あの時私を捨ててくれてなければ、今のこの平和はなかった。あの桃があったからこそ、私は優しい爺様と婆様に出会え、多くの人の悲しみに触れ、この道を進むことができたのです」
桃太郎は、父の肩を優しく抱き、感謝の言葉を口にした。
時雨は、その光景を静かに見守っていた。
十兵衛の絶望、桃太郎の寛容な心、そして二人の間に生まれた愛に、彼女の心は温かさに満ちていた。
その時、十兵衛が時雨に気づき、深々と頭を下げた。
「嫁さんか…この度は、桃太郎と一緒にきてくださり、ありがとうございます。父親なんて言えた柄ではないが、どうか、どうかよろしくお願い…」
桃太郎は焦り、必死に手を振った。
「誤解だ!十兵衛!ちょっと待ってくれ、時雨はまだ…!」
桃太郎が言い訳をしようとするが、時雨は十兵衛の言葉に、静かに微笑み、二つ返事で「はい」と答えた。
桃太郎の意図を汲み取った時雨は、彼の代わりに、十兵衛の絶望を安堵へと変える決意をしたのだった。
その後、桃太郎の実の父である十兵衛も、老夫婦と一緒に暮らすことになった。
貧しさはまだ残っていたが、家族が増え、生活は少しずつ安定し始めた。
ある日、時雨は婆様の元を訪れ、きび団子の作り方を教えてほしいと頼んだ。
お爺さんとお婆さんが四十歳になる年だった。
二人は、もうそれほど長くは生きられないことを悟っており、桃太郎が愛した故郷の味を、誰かに継承したいと願っていた。
「わしらももう年じゃ…お前さんなら、きっと桃太郎も喜ぶじゃろう」
婆様は、時雨の手を握り、優しく微笑んだ。
時雨は、婆様の温かい手のひらに、桃太郎への愛情と、老夫婦の深い願いを感じた。
そして、桃太郎と時雨は夫婦となった。
小さな村で、ささやかな祝言が挙げられた。
老夫婦と十兵衛は、二人の幸せな姿を見て、心から喜んだ。
一年後、二人の間に、元気な男の子が生まれた。
「喜備丸」
桃太郎は、その子の頬を撫でながら、そう名付けた。
喜びに満ちた桃と、備えの丸。
彼の旅の始まりと、これから築いていく安寧の世を象徴する、この上ない名前だった。
老夫婦は、桃太郎の結婚と、愛する孫の誕生を見届けた後、静かに息を引き取った。
その最期は、桃太郎と時雨、そして喜備丸に囲まれ、穏やかな安堵に満ちたものだった。
そして、桃太郎に寄り添い、共に生きた時雨は、復讐の炎を鎮め、愛を育んだ。
彼女は桃太郎の妻となり、村を支えることで、かつて手を汚した自分の罪と向き合った。
彼女の復讐の物語は、やがて桃太郎の伝説の中に静かに埋もれていった。
時代は、安土桃山時代へと移りゆく。
山から桃を流し、安堵の土地を手に入れたこの話を象徴するように、この新しい時代を人々は「桃の時代」と呼んだ。
その光は、やがて日本全土を照らし、やがて戦乱の世を終結させる力となった。
後に、時雨はこう語っていた。
桃太郎は武力で天下を獲った信長や秀吉のように歴史の表舞台に立つことはなかった。
彼の真の物語は安寧の地を築き、人々の心に寄り添うこと。
その真実をそのまま伝えることは、彼が守り抜いた平和を脅かすかもしれない。
私は彼の望まない形で、この物語を語り継ごう。
その後、時雨の語る物語は逸話が重なり、少し変化した。
飢饉の時代に生まれ、親がやむなく川に運命を委ねた桃太郎は、大量の桃と一緒にお供え物として流され、下流で老夫婦に拾われた。
成長して悪さを働く鬼を退治すべく犬、猿、雉を引き連れて旅に出る。
そしていつの間にか、川から大きな桃が流れてきて、桃を切ったら中から元気な赤子が生まれたといわれるようになった




