夕食
午後六時。
母はだいたいこの時間に料理を始める。日によって異なるが、だいたい午後七時前後に完成する。料理中はいつもエプロン姿だが、エプロンを汚したところはほとんど見たことがない。どんな料理でも出来上がる時間はほとんど変わらない。多分、父が帰る時間にあわせて食事できるように意識的に時間を調整している。一連の作業工程をじっくり見たことはほとんどなかったが、今日は見よう。そんな気分になっている。
今朝僕が「朝食はいらない」と言ったときの母のなんとも言えない顔は、まだ記憶に残っている。直接言ったのは自分じゃなかったけど。
すぐに悪いとは思ったけど、謝るほどのことでもないと思った。大した事じゃない、と。それに、母もやたらと人に食事をしっかりと摂るように勧めるのも悪い。健康の心配をしているのはわかるが、太らせようとしているとしか思えない。男子高校生にも外見を気にするそれなりの事情がある。
好きな子に「将来は力士?」と言われたショックがどれだけ大きいか、わかってほしい。痩せたいと思うのは当然だろう。もちろん母が知るはずもないし、自分から言うつもりもない。好きな女の子がいることを知られるのは恥ずかしいし、自分の心を他人に知られるのは恥ずかしい。自分の心が恥ずかしいと思うのは、自分に自信がないのも原因だろうけど。
父とタイミングが重なってしまい、ついでに言ってしまったのも悪かった。
台所で調理をしている母に変わったところは見受けられない。いつも通り手際良く作業をしているけど、母が何も考えてないとは思えないし、今朝のことを全く気にしてないように見えるが、見えるだけだ。表情や態度には出さないけど、それもいつものことだ。母は静かに怒る。怒らないふりをして怒る。怒らないから、と言う時でも怒る。だから今もきっと怒っている。多分怒っているだろう。怒っているに違い無い。怒っていなくても怒っているとしか思えない。
母は僕の方を見ようともしない。僕に期待していないのか料理に集中いるのか怒って見たくもないのか、それもわからない。
幼い頃は台所に一緒に立って何か手伝えることがないか尋ねたこともある。肉を捏ねたり皿を準備したり冷蔵庫から何かを取り出したりなど、簡単なことしかさせてもらえなかった。幼い僕は母に軽く扱われているように感じて、それが嫌でいつの間にか手伝わなくなった。自分は認めてもらえない、と感じたからだ。
今思えばただ心配なだけだったのだろう。けど、一度手伝いをやめるともう一度手伝いを始めるのは難しい。恥ずかしいのも有るが、一度身に付いた習慣はなかなか変えられない。謝るタイミングを一度逃してしまうと、2回目はハードルが上がる。時間が経つとさらに難易度は上がり、最後には諦める。
昔と比べると母は小さくなった。そのぶん僕が大きくなった。見上げるだけだった母の背中が、今では立ち上がれば見下ろすようになっている。言ったら怒るだろうけど、皺も増えた。歳をとった。見てわかるぐらいにはおばさんになっている。
いずれ母も死ぬ。それがいつになるのかはわからない。ずっと先のことだと思いたいけど………明日、いや今すぐかもしれない。その時に僕は、今日のことを後悔する。そんな想いが不思議なぐらいに急速に膨らんでいった。理由は分からない。
動かないといけない。やるべきことをやろう。立ち上がり、母に近づく。
声をかけようとしたところで、玄関のドアが開いた。
「ただいま」
父の声だった。今日は定時だ。妙に力がない声だった。出足をくじかれたこともあり、玄関へ向かう。
どことはいえないが、いつもと違う顔だ。会社で何かあったことは想像できるが、正直どうでもいい。
ちらっとこちらを見て「ただいま」と一言だけ言って自室へと向かった。
仕事の都合なのかそれとも他の理由なのか、家に帰るのは遅い日が多い。休みの日も基本的には家にいない。家庭や家族をどう思っているんだろう?こんな父親にはならないようにしよう。
しかし、悔しいことに我が家の生活の中心は父だ。毎日の朝食と夕食の時間は父の行動を基準にしている。金を稼ぐ人間が父一人なのも理由だろう。父がいないと生活できない。だから、父を一番に考える。
父と母の仲は悪くはないと思う。ときおりけんかもするが、いつの間にか仲直りしている。
そういえば父も朝食をとらなかったはずだ。二人で一緒に謝れば、一人で謝るよりも効果はあるはずだ。
父の書斎の扉をノックする。「どうぞ」と言うのを聞いて中に入る。
父はすでに部屋着に着替えていた。ぼんやりとした瞳で僕を見て声をかける。
「どうした?」
「ちょっと話があるんだけど…」そう言って今朝のことを二人で謝ろうと持ちかけた。
「ああ、ちゃんと謝ろう。母さんには悪いことしたな」
話が早い。父も僕と同じように気にしていたのだろう。いや、僕よりも気にしていたのかもしれない。母を怒らせた回数なら僕より圧倒的に多いはずだ。
「まあ、謝れば許してくれる…とは限らないがな」
なぜか笑顔で自信満々に言う。大丈夫だろうか?許してくれなくても謝ることに変わりはないけど。
「許してくれるかどうかなんて、どうでもいい。悪いと思って謝りたいから、謝る。それだけだろ?まあ、許してくれたほうがありがたいけど、期待はするな」
さすがに何度も母を怒らせている人は違う。何度も許されなかったんだろう。……まだ離婚はしていないのだから実質的には許されているのか?。妥協しているだけかもしれない。
母から父への不満がどれだけ溜まっていても、わからない。殺意まではないだろう。殺そうと思えばいつでも殺せるのだから。………食事はみんな同じ物を食べているから毒などは入れてないだろう、多分。
父の笑顔を見ると殺されてもかまわない、とか考えてそうだ。生命保険があるはずだから、お金はなんとかなりそうだけど。
父が死んだら、悲しい……とは思うが困らない。金さえあれば。母が死んだら、悲しいうえに困る。
生まれてから一度も父が母の家事を手伝っているのを見たことがない。やればできるとは思うけど、そもそもやらない。やる気もない。
母から父の愚痴を聞いたことはない。言わないだけだろうけど、本当はどう思っているのだろう?
仲がいいと思っているのは自分だけかもしれない。
「どうした?」
父が自分の顔をのぞき込んでいた。自分が思っているより長い間考えていたようだ。
父の顔をじっくりと見つめてみる。あちこち皺が目立つ。剃り残しのひげも目につく。髪も薄くなっている。疲れたおじさんの顔だ。おまけに最近はお腹も出てきた。とても女性に好かれるとは思えない。
………こうなる前に母と結婚できたのは幸運だったのだろう。自分でもできるだろうか?そのためにも痩せないといけない。早く。
「いや、なんでもない」
「じゃあ、行くか」
母はまだ相変わらず台所で料理中だった。いつもより時間がかかっているように思える。
父と自分が台所に入って来たのを不思議そうな顔をして見つめていた。
「「ごめん」」ほとんど二人同時だった。
「………どれのこと?」一瞬の間の後、母は二人の顔をじっとみつめている。
父と顔を見合わせる。正直、思い当たることはいくつかある。それは父も同様だったようだ。
朝のことだけでなく、他にもいろいろとやらかしている自覚はある。………しかし、その全てがバレているとは思わない。思いたくない。よけいなことは言わないほうがいい。
特に父の車を勝手に動かしたことは黙っておかないといけない。もちろん免許なんてないのだから。あと18禁の動画を見たことも黙っておかないと。まだ16なのだから。父のお酒をこっそりと飲んだことも駄目だ。……まだまだあるけど、まあ全部駄目だ。
「とりあえず朝は悪かった」父が先に口を開いた。流石の一言だ。自分では言えない言葉だった。
「………とりあえず、ね」母は父の顔色をうかがっている。続きの言葉を待っているようだ。
父は………どれを話すべきか、話さないべきか、悩んでいるようだ。汗が凄い。もちろん、自分も同じような状態だ。何も言えない。
浮気はしてないと思うけど、あんまり自信はない。隠し子がいても驚かない自信はある。まあ、あんまり女性に好かれる人間ではないだろうから、心配はしてない。
母はまだ変わらず黙って続きを待っている。
「他もまあ………悪かった。すまない」父は言葉を濁した。言えないことがあるのだろう。良くわかる。
母は目を閉じしばらく考え込む。やや間があって深くため息を吐く。
「もういいわよ。気にはするけど」
「ありがとう。………本当にすまない」
父に続いて礼を言う。
「ありがとう」
「じゃあ夕食の準備手伝ってくれる?」
母から手伝いを求めるのは珍しい。男二人が断る理由はない。
母が作っていた料理は、カレーだった。我が家のカレーは具材に決まりがある。肉や野菜や魚など何でもいいから、余っているものを入れる。朝食を食べてなければ朝食もその中に含まれる。
幸いなことに、カレーはほとんどあらゆるものを受け入れる。玉子焼きも例外ではない。
カレーは中に何が入っていてもちゃんとカレーになる。あらゆるものを受け入れてもなお自分を見失わないさまは、尊敬すべきものがある。
結果は良いものも悪いものもあるけど………まあ問題ない。食べられないことはない。
カレー作りなら、だいたいわかる。父も同様で、一緒に母の手伝いもちゃんとできていると思う。
家族そろって料理をする機会なんてなかなかない。……とはいえ、和気あいあいといった雰囲気にはならない。必要最低限の会話による事務的なものだ。無理な会話はしない。気を緩めたらボロが出そうだ。それは父も同様だろう。
父と母はときどきアイコンタクトをしている。残念ながら自分には意味がわからないが、お互いには通じ合っているように見える。良い雰囲気には見えないけど。
当たり前だが、父と母は自分が生まれる前からずっと一緒に生活している。その間にはいろいろとあったんだろう。想像する以上に。
そんなことを考えている間にカレーが完成した。
皿を持ってきてご飯とカレーを盛り付ける。自分の分はややカレー多め。付け合わせのサラダも一緒にテーブルへと運ぶ。
家族全員がそろって、お互いの顔を確かめながら席に着く。いつもの夕食。なんでもない一日の夕食だ。
父がちょっとした失敗談を話す。人前で見せてはいけないところを見せたらしい。母が笑っている。父も恥ずかしそうに照れながら笑っている。自分も笑う。 さっきまでとは雰囲気が違っている。
父と母が内心どう思っているのかはわからないけど、自然な笑顔に見える。「もういいわよ」はもう諦めて父を受け入れたのだろうか。
父も母も最初から今のような関係ではなかったんだろう。昔はもっと仲が良かったのかもしれない。確かめようがないけど。
自分もいつか好きな女の子と結婚して家庭をもつ日が来るのだろうか?
そのためにもまずは痩せようと思うのだけど………今日のカレーはいつもより美味しい気がする。とはいえ、大皿三皿でやめれば良かったのかもしれない。明日から気をつけよう。




