八雲、みたび
レンの療養はまあまあ順調に進んでいった。
始めは泡ガエルの粘液による炎症と発熱、それから穢れが体内に溜まっていたせいで疲弊が激しく、一日の殆どを眠って過ごす日々だった。基本は夕七つから宵五つの間に起きることが多くて、その僅かな間に厠を済ませ、軟膏を塗り、薬を飲み、それから食事を摂らなければならない。
レンは治療に意欲的だった。ならばとサトも看病に力が入る。
「……吐き気がするなら無理しない方が」
「い、いいえ。食べるわ。食べなきゃ治るもんも治らないのよ……っ」
青い顔をして一分粥を匙半量ずつ胃に流し込む。病的な美しさが目に毒だが不思議と視線が吸い寄せられた。
「うぐぅっ」
「そら、急須一杯まであと……うん。あと七割はあるぞ」
死にそうな顔をして苦みえぐみの塊のような煎じ薬を飲み込む。潤んだ瞳が艶っぽいので喉が渇く心地がした。
「うっわ、体柔らかいな」
「なによ。柔軟さは怪我する可能性をぐーんと減らすのよ」
軟膏を余すことなく塗りたくる。生白い肌が赤らんでいるのは眼福かと思いきや、炎症の赤みは逆に心配が勝って見るたび心が痛んだ。
「ひっどい臭い!」
「薬だから我慢我慢。……うわくさ。これで本当に治るんだろうか?」
「それじゃアタシが臭いみたいじゃない!」
「いや実際おまえに塗りたくってるからおまえから臭うよ」
「もーっ!」
煎じ薬の残りで髪を洗い、薬臭さを我慢して眠る。麗人から臭い薬の匂いが漂うのが笑えて、拗ねた表情は可愛らしさが強かった。
日を追うごとに体は元の健康と美しさを取り戻していく。サトの目もよく保養されていく。目が覚めた旅人に人見知りしたのか、小鬼たちとトカゲもどきがあまり顔を見せないのも功を奏したのだろう。レンは妖怪が間近にいることに気付いていないようだった。
もちろん苦労はあったが、美麗な顔を拝むがてらお松が布団一式を持ってきてくれて、サトの切りっぱなしだった髪を整ええてくれたり――布団と散髪費用はしっかり相場を支払った――看病の心得を教えてくれたり――レンの様子を見る口実で態々仕事が無い日にきて、気が済むまで顔を目に焼き付けていった――と、お松にも大層助けられた。
「きっとそのうち万病に効くようになりますわね」
こんなことを言っていたがどこまで本気なのか。最近お松の肌が艶を増した気がするのは、手入れのせいか、はたまた美人が本当に健康に作用したのか。
「レン、風呂は苦手じゃないか?」
「大好き!ここ、お風呂もあったの?」
「うん。入れるなら薬湯を用意するから」
十日もすれば身を起こせる時間も増えてくる。この頃には発熱も落ち着いていて、皮膚の腫れだって随分とましになってきた。薬湯も併用すればより早く治るだろう。
視力は相変わらずなので湯浴みが済むまでサトが付き添うことになるが、まあ尻からナニから隅々まで見たあとだ。気にせず介助して湯の心地よさと薬の匂いの不快さに絶妙な顔をするレンを楽しんでいた。
熱が完全に引いて体力が戻り、日中に十分活動できるようになるまで三週間、目が治るまでさらに一週間がかかった。
「祓え給い、清め給え」
完全に視界を取り戻した日をレンは生涯忘れられないだろう。
目元を覆い、術をかける温いサトの手が下ろされて、長い睫毛を震わせながら瞼を開いた。長い間不明瞭でぼやけた輪郭しか捉えられなかった瞳が元通りになって初めて見たのは、ずっと献身的に支えてくれた恩人の顔だった。
見ず知らずの旅人を助けて連れ帰って、高価な薬を用意してくれた人。使い物にならない目のせいで体力が戻っても碌な手伝いができず、手のかかるヒモのようだった己を文句ひとつ言わず世話してくれた人。
これからは体力が戻るまで家のことを少し引き受けつつ、大恩にどう報いればいいのか考えさせてもらうことで話がついている。
ここで、レンは一つ大きな思い違いをしていた。
大まかな輪郭と色、光しか捉えられなかったレンの両目。映っていたのは、とても短い散切り頭で作務衣を着た、胸の平たい痩せぎすの人物。頭一つ以上背が小さいし声が高いが、体に直接触れる看病にためらいが無い。まあ、そういう誤解が生じていたのだ。
期待に染まる緑の目に、サトの姿が鮮明に映る。
肩に届かない、一筋白が走る短髪。吹き出物が目立つ赤ら顔。生地が程よく草臥れた作務衣。不健康そうな痩せぎすの――。
「あんた、女の子だったの……?」
「は?」
あ、失言だったわ。
後悔とはことが起きた後に感じるから後悔なのだ。つまり、時すでに遅し。
もう目の前では年下の女の子が怒りと哀しみと諦念を混ぜ込んだような顔をして、視線を捨てるように斜め下へと下ろすところだった。
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「だっはっはっはっはっは!」
「ちょっと、笑い事じゃないのよ!」
「目が使えないなら仕方ねぇですってぇ……あっはっはっははーっ」
レンは笑い転げる稼吉の腕を抓ってやったが、コリッとした骨の感触に驚いてすぐに指を引っ込めた。しかし中途半端な抓りで溜飲が下がることはなかったので、その後頭を強かに叩いてやったのだが。
今日も仕掛け蔵ではサトがせっせとお勤め中。あの日の心からの謝罪は「まあ、無理もないし」という一言で受け止められて、目線が合わなくなってから丸二日が過ぎた。
現在八つ時、場所はサトの平屋。サトの紹介で再開した稼吉とレンは、サトが用意していった饅頭を相方に世間話に興じていた。未だに傷つけた恩人に頼りきりで、情けないやら悔しいやら。
「もう、どうして声で分からなかったのかしら。失礼にも程がある……」
「姐さん女の中じゃ低い声してますからねぇ。平たいし。丁稚とでも勘違いしたんじゃあないですか」
まさにそのとおり。
ちなみに丁稚とは、商家で勉強がてら働いている年少者のことだ。
「でぇ、その失礼な兄さんは、今日はなにを?」
「とりあえず薪割り。体調は戻っても、一度落ちた体力はなかなか戻らないわね」
連日レンのために焚かれた薬湯のせいで、底をつきかけた薪の補充を済ませたところだ。一先ず詫びもかねて、暫くの間置き場がいっぱいになるまで薪を割っておくつもりである。
「ははあ、兄さん浪人だから力はあんのか。俺はてっきり、良いところのお坊っちゃんか役者だと思ってましたぜ」
稼吉はいい塩梅に冷めた茶を啜る。
「馬鹿ね、平民よ」
揶揄いが混じった稼吉の声には鼻を鳴らして応えた。
饅頭を食べ終えた稼吉は鼻歌を響かせながら平屋を出る。ただレンと顔を合わせるためだけに来たようだ。助け出された礼をすると申し出てみたが、ものの見事に暖簾に腕押し。礼はサトに十分貰ったと、取り付く島もない。
「ただ兄さんを運んで買い出ししただけで、角銭三枚近く貰ったんでね。俺には十分すぎる」
その言葉どおり、困ったような笑い顔は心の底から「十分すぎる」と物語っている。レンはそれ以上何も言えず、その分サトへの礼に反映しようと決意した。
さて稼吉が帰ったあと、手持ち無沙汰になったレンは湯舟に水を溜めるため手桶片手に井戸に向かった。風呂小屋はいつも何かの気配がして、気味が悪いので明るいうちに済ませておきたかったのだ。
井戸は仕掛け蔵と平屋の丁度中間にある。距離はあまり開いていない。なので、だばだばと品のない足音の後にかけられた元気のいい大声が聞こえたは当然と言えた。
「やい醜女!今回は話聞いてもらうぞ!」
二日前、患っても傾国具合を保つ美男子に放たれた一言は思ったより鋭く刺さっていたようで、それ以来サトの胃の辺りに何かが燻っていて刺激には過敏に反応する。
「煩いくたばれ劣等生幸信殿に言いつけるぞ」
「ごめんなさい」
勇み足で三和土に踏み込んできた八雲は、反射的に巫覡候補らしい大変美しい最敬礼で応えた。
「か、勘弁してくれしこ……えっと、さ、えっと。サ、さ……第五分家次女っ」
「うわ……」
見事に染まった八雲の顔面は今にも湯気を発しそうだ。垂れ目が涙を蓄えて潤いを増している。
罵倒交じりの大声に驚いて駆けつけたレンは、思いのほか親しげというか、気安い会話の応酬に気付くと足を止める。頭にカッと登っていた血が降りていき、しかし蔵の中には踏み入れることはできず。結果的に、盗み聞きのような体勢になった。
「だ、黙っててくれよぉ、しこ、サ、……ううんっ。……前回、抜け出したのがバレて赤茄子三昧だったんだ」
「……まず私がどうやったら幸信殿に告げ口できるか考えてみな劣等生。無理に決まってんだろ」
本気で焦っていた八雲はサトの言葉を少しの間反芻して、それからただの脅し文句だったと行き着く。巫覡候補を降りて山を下りた者が第四分家の当主においそれと連絡を取れる立場があるわけないのだ。忙しいことに、今度は怒りで顔を赤くしている。
蔵の中で遊んでいた小鬼三匹は、八雲が来たと気付いて野次馬のため柱の陰から三和土を伺っていた。また面白い動きをしたなら真似て遊ぶつもりだ。図らずしもレンと同じ体制を取ったことになるが、双方知らぬことである。
「で、用件は?一ヶ月前も来てたなそういや」
以前サトの質問に答えただけで満足してにやけ顔で去っていたことを思い出す。そりゃああんな顔して帰れば厳格な第四分家当主はお冠だろう。むしろ赤茄子食わされただけで済んだのかと驚きだ。第五分家ほど折檻は酷くないらしい。
サトの声にはっとした八雲が、気を取り直すように咳ばらいを一つ。
「こほん。し……お前!おれは巫覡候補に戻れと言いに来た!」
巫覡候補。レンはその言葉に目を見開いて、後ろめたさで去ろうとしていた足をその場に留めることを選択した。
「落ちたんだって言ったろ。第五分家はあね様が受かったんだ」
呆れた様子のサトに八雲は大きく首を横に振る。
「詩はだめだ。大神の声が聞けてない。それに……大神が選定する気をなくしてる」
八雲は両手を胸の辺りで合わせ、指を絡ませ握り込んで黙り込む。巫覡候補や術者の癖だ。幼い頃から祈る習慣が根付いているので、何か不安があると無意識に胸元で手を組みたがる。
あね様の小細工は八雲にもバレているのか。
頭が痛むような気がした。サトは胡坐を組み直すと、改めて八雲を真っすぐ目に捉える。
「どうして?十二年に一度の巫覡選定は古くからの慣例。天活津日大神と五行一門で結んだ契りだ」
「……第二選抜に残った奴らに気に入ったのがいない、らしい。棗がそう聞いたって。候補から選ぶより、葵様の任期を延長した方がまし、だとか」
棗というのは第一分家の三男坊、葵は当代の巫覡だ。選定の最中、サトはその棗が次代の巫覡に選ばれるだろうと踏んでいた。当時こそはっきりと言葉を聞き取れていたわけではなかったが、八雲が言うとおり今明瞭に大神の声を聞けているのなら、十分な実力があるはずなのだ。
怪訝な顔でさらに質問を重ねる。
「第二選抜を通ったのは誰だ?」
「俺と、八柳兄者、詩、棗、甘楽、リコだ」
八雲は快活に答えて口を閉ざした。
十八人いた候補から合格を勝ち取った六人。その中ならやはり、棗の実力が抜きんでている。サトの見立てでは次点で八雲の兄・八柳、第三分家の長女・甘楽と続くだろう。全員巫覡を目指して幼い頃から教育を受けてきた者ばかり。実力と共に心根も整えられてきただろうから、大神が拒む要因が分からない。
八雲だって、三割程度しか言葉を聞き取れないだけで巫覡としての心得は十分にある。大神が選んで籠を与えたなら、最終的には正確に神の言葉を理解できるはずなのだ。
なぜ、大神は今代の巫覡を選ぼうとしない?
思考には神おろしをしたあの日、しかと目を合わせてきた大神の笑みが蘇る。サトはその顔を散らすように以前より軽くなった頭を掻いた。
「そもそも、私は養子だろうに」
「……うん。でも、実力は一番ある」
どこまでも真っすぐな八雲の言葉が胸に刺さった。居心地が悪くて胡坐の下で尻がもぞもぞと動く。
八雲は知らないことだが、サトの実母は葵の先代の巫覡だった。
サトを産み、役目を終えてからは俗世へ帰らないことを選んだ人だ。彼女は巫覡が守る岩戸の向こう、ヒラサカ街道を下ったその先へと行ってしまった。なので、産声をあげてからというもの、サトは母の顔を見たことがない。
「そりゃあ、私に素養はあるだろうさ」
サトは母の友人だった女の家で、使用人見習いとして庇護を受けた。その環境に愛情は無いが、食うに困ることはなかった。小鬼たちとはその頃からの付き合いだ。
ぎゃいぎゃいと鳴く自由気ままな小鬼を見ながら育って十年。
サトの出自を知る者は女と巫覡補佐の数名以外いなかったはずだが、第五分家当主はどこで知ったのか。娘一人しかいないあの男は予備を欲しがって、十歳の元日に連れ出されて養子となった。
「俺だけじゃない。兄者と棗と……葵様も同じ意見だ」
巫覡になるものかと今まで思って生きてきた。だって、きっと母は巫覡になったせいで娘を捨てる薄情者になったのだと、サトを庇護した女が言っていたから。母の元でサトが育たなかったのも、母の影を見る女の視線を浴び続けたのも、母が巫覡を勤めたせいなのだと――そう思うことにしたから。
何のために幼い頭で当主とやりあって契約を結んだのか。何のために小細工をして、巫覡候補から外れたのか。
小鬼緩く過ごしていく、平穏な生活を望んだからだ。
神事の稽古を忘れて、やりたいことをやって過ごしたかったからだ。
化粧で痛む肌を憂うことがない日々を羨んだからだ。
重くて堅苦しい衣装と無縁でいたかったからだ。
母の面影が薄い場所を、何度も妄想したからだ。
今は全て叶ってここにいる。毎日同じ時間に起きて、同じ仕事をして、たまに町を歩いて、退屈な日々を――。
でも、目の前の昔馴染みはそれで困っているらしい。
「……私は戻らない」
「そんなっ」
「そもそも戻れないだろ。おまえは候補生であって巫覡じゃないし、巫覡にだって次代巫覡を決める権限はない!」
「そうだけど!」
「帰れ!……無駄足なんだよ。おまえに何言われても、戻れないんだから」
三和土に背を向けて、足早に帳場を出ると蔵の奥へ向かった。足音はいつもより大きく、通り過ぎた柱に寄りかかっていた小鬼が二匹ころんと尻もちをついている。一匹は強く壁に張り付いて踏ん張っていた。
「っばか醜女!」
両手を握って叫ぶ八雲はサトの言うことが正しいと分かっている。しかし、兄も自分もひと目見たときから、巫覡になるならこいつだと確信していたのだ。連れ帰り、自分と合格不合格の枠を入れ替えることができまいかと、劣等生なりに真剣に考えてここに来た。
罵倒に反応は返ってこない。入り口近くで立ち尽くしていた人影に気付かないまま、八雲は静まり返った蔵に背を向けて走り出した。
まだ艶が戻らない梅紫の髪はじっとり汗ばみ、息は無意識に浅くなっていたらしい。もとより白い肌は血の気が無くて深夜の雪のように青白い。
こめかみに浮いた冷汗を拭い取りながら、レンはどこか遠くを睨んでいた。