薬を煎じる
サトの着物と旅人の着物、それから使った手拭いを洗っていると稼吉が町から戻ってきた。大きな紙袋二つと壺、それから風呂敷包みを抱えていて、近くに寄ると独特な生薬の匂いが香る。
「助かった。苦労をかけたね」
「いやあ、俺も良い思いさせてもらいましたぜ」
ホクホク顔の稼吉を見るに、サトの髪は良い値が付いたようだ。
「最近泡ガエルが肥溜め以外の場所にうろつくようになったようで。数が増えすぎたんだろうって、暇な浪人相手に駆除依頼が出ているようですぜ」
「それであんなところに……。あの旅人も災難なことだ」
莚の上で眠っている美人を思い出してため息が出た。風呂に入る手間はなくなるが、いかんせん全身の垢と一緒に皮膚も溶かすカエルだ。あのままサトたちが気付かなければ粘液で窒息するか、逃げおおせても全身大きく爛れて美人が台無しになっていただろう。
稼吉が懐から巾着袋を取り出してサトに見せた。骨ばった長い指が袋を摘まんで、サトの目の前で左右に揺れている。
「これ、今回の釣銭」
「ああ……駄賃にするって言ったろ」
「いやあ、なにぶん額が額なんでねぇ」
猟犬が獲物を主人に自慢するがごとく、何やら得意げに巾着を見せびらかす稼吉。渋々サトが水気を掃った片手のひらを広げると巾着袋がそっと置かれた。それは結構な重量で、予想外の重さにサトの手と腕が下に沈むほどだ。じゃりっと銭がこすれる音はサトの胸を高鳴らせるよりも、眉間にしわを寄せる方へ作用した。
「うわっ」
「しめて角十二枚と丸七枚、粒七つ。元が板銭二枚の角五枚だったんで……まあまあ使いやしたが」
銭は全部で五種類あり、価値が大きい物から大板銭、板銭、角銭、丸銭、粒銭。文字通りの形をしていて、十揃うごとに一つ上の銭一枚分と同等になる。平民がひと月に稼ぐ平均はだいたい角銭十二から十七程度、住み込みの仕事なら角六から八程度なので、まあ髪一束で二ヶ月分給金を得たようなものだ。
まさか自分の髪がここまで高く売れるとは、とサトは巾着の乗った己の手から一歩身を引きたくなる思いがしてしまう。そこそこの額が入っていると知っただけで、草臥れた巾着がなんだか洒落た布地に見えてきた。
「ね、これをまるっと懐にしまうのはちょいと気が引けちまう。まあまあ美味しい思いもしましたんで、これは姐さんに返しやしょう」
満面の笑みを浮かべる稼吉はいったいどんな「美味しい思い」をしたというのか。途中で鰻でも食べたのだろうかと考えながら、サトはもう片方濡れた手を振って水を落としてから自分の巾着を取り出す。稼吉の巾着から角銭十枚と丸銭五枚を自分の巾着に移すと、口を閉めて突き返した。己の眼前へと戻ってきた巾着に、稼吉は笑顔をかちんと固めている。
「じゃあ、これを駄賃にしな」
「おいおい……話聞いてくれたかい姐さん。返すって」
「うるさい、借りは目の前で返さにゃ癪に障んだよ」
ちょいと唇を突き出して目線を合わせないサトから、稼吉はゆったりとした動きで突き返された巾着を受け取る。少し指の動きがぎこちない気がしたが、見ていないサトには些細なことだ。
「礼に夕飯でも振舞いたいけれど、今日は難しい。帰って旨いものでも食えばいい」
「それにしたって多いだろう。花街でそこそこ楽しめちまうぜ」
「……行きたいなら止めないが。色より腹を満たして肉を増やした方が良いんじゃないか」
だらしなく開いた着流しの合間から覗く肋骨。サトの脳内には色事なんてしたら干乾びるんじゃないかという考えと、脳内を干物になった稼吉が歩く。
サトは干物を頭から追い出して重みを増した自分の巾着を懐にしまうと、中断していた洗濯を再開する。目線を派手な小袖に向けて両手を動かすサトを、稼吉はじっと眺めていた。手のひらでは巾着を遊ばせている。暫く銭がこすれる音と布と水が奏でる音が続いた。巾着がしまわれるまで、目線が稼吉に戻ることはなさそうだ。
「……んじゃあまあ、お言葉に甘えましょうかね。薬は家に入れときますぜぇ」
「はいよ、助かった」
観念したため息交じりの、少し弾んだ声を聞き流すサトの口調は変化が無い。自然となんだか眉が八の字を描く。稼吉は口角をキュッと持ち上げてから荷物を置くためサトの家に入って行った。その足音を背後に聞きながら、サトはようやくぬめりが無くなった小袖から水気を絞るのだった。
旅人の小袖は生地が少し痛んだようだが、色落ちはせずに済んだようだ。どのくらい生地がごわつくかは乾かしてみないと分からない。
朝に干した洗濯物をよけて、開いた竿に先程洗った着物をかけていく。小袖と作務衣で随分埋まってしまい、股引と脚絆を引っかけたらもう場所がなくなってしまった。
「仕方ない、か」
全部片付かないのは不完全燃焼といった感じで気持ち悪いが仕方ない。残った手拭いは後日にまわすことにする。一度洗ったし、濡れたままでも今日の入浴に使ってしまってもいいだろう。
手拭いが残った桶を持って家に戻ると稼吉はもう帰ったらしく、小鬼が三匹、もの珍しそうに眠った旅人の傍にたむろしているだけだった。
「起こすんじゃないよ」
桶を下ろすと板間に上がって稼吉が置いて行った紙袋らを確認する。
煎じ薬と薬湯の生薬が大きな袋一つずつ。小さな壺は軟膏で、蓋を取ると薄い茶色の軟膏がたっぷり入っていた。それから風呂敷包みの方には、男物の着流しが一着、褌が二枚。群青の着流しは古着のようだが状態が良い。
「はあ、気が利くことで」
気の抜けた声が口から漏れ出る。やはり角銭二枚分の働きはしているのだ。稼吉本人が何と言おうとあの報酬は妥当なものだと誰にともなく頷く。
これだけ気が利いて要領も悪くないのだから、上手くやれば大店で手代どころか番頭だって務まるだろうに。何故素寒貧で浮浪し続けているのか。
まあ本人の気質もあるのだろうと思考を切り上げて、早速煎じ薬の袋を開けると薬缶に水と一緒に突っ込んだ。囲炉裏にかけておけばそのうち煮だせるだろう。
使っていない匙と小皿を持ってくる。壺から軟膏を山盛りひと匙掬ってみれば、やや硬いようだが人肌で温めれば十分伸びそうだった。量も数日間男一人の全身に塗るには十分すぎる。これだけあれば、少し拝借してサトもヒリヒリとかぶれた箇所に塗っていいだろう。
「そういや、稼吉は洗っていて粘液でかぶれなかったんだろうか?」
見えていた限りでは肌のどこにも赤みが無く、手指もかぶれた形跡どころか乾燥すらなかった。さっと濯いだあとの旅人にしか触れていないというのもあるが、骸骨のような見た目の割に意外と頑丈なのかもしれない。
小皿に軟膏をいくらか乗せ終えると、サトは小皿を持って寝かせた旅人の傍に寄る。掛布団を持ち上げるとぴゃっと小鬼が家の隅に逃げていった。ついでに股にかけていた手拭いも布団と一緒に体の上から退いていた。
旅人の肌は爛れてこそいないものの、全身が発赤して腫れ始めている。夜中には熱も出しそうだ。
軟膏を掬い、手のひらの間ですり合わせて温める。
「歳星聳孤に願い奉る。比和の理、緑の癒水」
軟膏に神通力を籠めてから、丁寧に旅人へと塗り込んでいく。顔が一番丁寧だったのは、恐らく疲れが薄い最初に塗ったからだ。他意があろうと本人は自覚していないので語らずにおこう。
軟膏を追加で手に取るたびに呪文を唱え、全身余すところなくすり込んだ。すんすんと薬缶が湯気を吐くようになると、次第に薬の匂いが充満してくる。軟膏がこすれる粘性の音、たまにサトが呪文を唱える声だけが響く屋内を、小鬼が梁の上から眺めていた。
「はあ、こりゃあ重労働だな」
軟膏を塗り終える頃には、サトはすっかり汗だくだった。これを毎日、少なくとも壺の中身を使い切るまで続けねばならない。少し気が遠くなったが、旅人が目を覚ますまでの辛抱だと頭を振る。起きたら本人にさせればいい。
最後に旅人をごろごろ動かしながら着流しに腕を通させる。褌は着け方が分からないし、帯も寝たきり相手に締めるのは難しいので一先ず省くことにした。体が隠れたらいいかと前を閉じる。これだけでも十分目に毒な感じはなくなった。
あとは煎じ薬が冷めたら何とか飲ませるだけだ。薬缶を火からおろして、旅人から離れた場所で胡坐をかいて一息つく。
全身に鉛を張り付けたような倦怠感がまとわりついて、特にせっせと動かし続けた両腕が痛んで仕方ない。口に含まずとも苦いだろうと分かる薬の匂いが濃く漂って、汗の臭いが気にならないのは幸いと思っていいだろうか。
「はあ……」
サトの目線は美しい顔をして眠る旅人に向いて動かない。炎症で赤みを帯びた肌が蠱惑的に思えて、正面から見ていないのに何となく喉が渇くような心地がする。ぺろりと舌が動いて唇を舐めていたことに、どうやらサト自身も気付かなかったようだ。
「ギャインッ」
どれだけ眺めていたのか知らないが、少なくとも日はそれほど動いていない。
悲鳴と共に落っこちてきた小鬼が囲炉裏の向こう側に叩きつけられて、サトの肩が思い切り跳ねた。続けて梁の上から二匹の鳴き声が喧しく聞こえて、どうやら上で遊んでいて足を踏み外したようだと理解しため息が漏れる。
「阿保、気をつけな」
立ち上がり板間でもんどりを打つ一匹を拾うと、自在鉤を伝って降りてきた小鬼二匹に合流させる。怪我はないようで少しの間ぎゃいぎゃい騒いだあと、気を取り直したのか今度は箪笥に登って団子になり始めた。
いつもと変わらない小鬼の様子に、なんだか気持ちがまっさらになったようだ。倦怠感も少しだけマシになっている。立ち上がったついでにぐっと全身を伸ばして、日が暮れないうちに風呂を準備することにした。
「まあ、水と薪を用意しているうちに薬も冷めるか」
サトは三和土に降りて手桶を持つと、水を汲むため井戸に向かった。
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温くなった薬を眠りこける旅人に飲ませるのは至難の業だった。かといって、飲ませなければ内臓が荒れて酷いことになる。旅人を抱え起こしどうにか背中に片足をねじ込んで固定したところで、急須を吸い飲み代わりにして旅人の唇を割り開いて突っ込んだ。口内を湿らす程度に加減しながら注いでいけば、形のいい眉を苦みとえぐみで顰めながらも嚥下してくれた。
急須一杯分を三回に分けてじっくり飲ませる。ようやく十分な量を与え終わる頃には、男一人の体を支えていた足は大変な苦痛に苛まれていた。それも寝こける顔を見るだけですうっと引いていく気がするのだから、美人というのは不思議なものだ。
暮れ六つの鐘が鳴ると、程なくしてお松が仕掛け蔵の鍵を返しにやってくる。
「お邪魔しますね」
遠慮なく戸を開けて三和土に入ったお松が見たのは、ぐっすり眠る男と囲炉裏の前に草臥れた様子で座り込むサトの姿だ。しかも髪がバッサリ短くなっている。まあまあ異様な光景に少し面食らっていたが、年の功かすぐに持ち直して板間にあがってきた。
眠る旅人は美しい顔や体のあちこちを赤くしているが、軟膏と神通力が効いたのか腫れもかぶれも酷くない。しかし荒れた内臓のせいか青ざめてもいるので、大変複雑な顔色をしている。それでも絶世の美貌は曇ることなくそこにある。
目の当たりにしたお松が乙女のように頬を染めるのは、まあ無理もないことだ。
「まあまあ、別嬪さんだこと。どうなさったの?」
「泡ガエルに食われてましてね。吐き出させましたがこの通りで」
疲れ切ったサトは行儀悪くも胡坐をかいて動けずにいる。
肥溜めに汚物を運ぶ者が泡ガエルに襲われることがままあるので、町人は慣れっこだ。お松も例外ではない。
「あらあら、可哀想に」
お松の目線は旅人の顔をじっくり堪能したあと、乾いて手触りがより悪くなった髪に向く。梅紫の髪は艶を無くして絡まっていた。きっと櫛を通すのも苦労するだろう。
「煎じ薬か薬湯はあるかしら。余ったら、それを水で薄めて髪を洗ってあげなさい。少しましになるでしょうから」
「はあ、そんな使い方ができるので?」
「三軒隣の旦那さんが粘液を浴びたときに、残り少ない髪が惜しいと泣きながら駄目元で頭に塗っていたの。抜け毛もせず元通りになっていたようですよ」
身近で例があるなら試してみてもいいだろう。この美貌だから丸坊主になろうが似合うかもしれないが、やはり惜しいものは惜しい。
有益な助言に礼を言うと、お松は品よく笑って蔵の鍵をサトに差し出した。
「明日もお休みなさるかしら。私は用事が無いから、構いませんよ」
「……いえ。薬は飲ませましたし、付きっきりになる必要はないでしょうから。明日はきちんと仕事をしますよ」
「髪はどうなさるの?」
「言われたとおり薬を……ああいや、私のことか」
切りっぱなしの歪な髪は左右で長さも違うし、お世辞にも整っているとは言えない。ガシガシと無遠慮に後頭部を掻いて、目が何もない宙を泳いだ。
「ま、次の休みに何とかします」
サトが鍵を受け取ると、お松は少し名残惜しそうにもう一度旅人を眺めてから家を出て行った。随分と年上の女も生娘のようにときめかせる顔面が、なんだか恐ろしく思えてしまう。
受け取った鍵を箪笥にしまうのも億劫で暫く茣蓙をかいていた。もうこのまま食事も抜いて寝てしまおうかと旅人を眺めていると、ぎゃいっと小鬼の声がして目線を動かす。
「……」
「……」
「……分かった分かった。入るから」
格子窓の向こうにトカゲもどきが顔を出してこちらをじっと見ていた。小鬼はそれに気付いて大袈裟な悲鳴をあげたのだ。
暮れ六つの鐘が鳴ったあとはすぐに日が沈んでいく。風呂を焚くなら、まだ空が辛うじて橙色を残すうちに済ませるべきだ。岩のように重たく硬い手足を動かしてようやっと立ち上がると、鍵を箪笥の引き出しにしまって提灯を用意する。その間トカゲもどきは風呂小屋に戻らず冷めた視線をサトに送り続けていた。
十能という、炭を運ぶための道具を手に持って囲炉裏から炭を一つ二つ乗せる。そこでようやく、トカゲもどきは本格的に風呂に入るのだと理解したのか格子窓から離れていった。
「怖い怖い。妖怪はせっかちでいけない」
トカゲもどきが姿を消したので余裕を取り戻した小鬼三匹が、並んで寝そべって炭を弄るサトを眺めている。楽しそうにたまに散る火花を目で追っては指さして、一匹は腹ばいのまま前進して囲炉裏の縁で灰を弄りだした。
「散らかすんじゃないよ」
手頃な炭を選べたら囲炉裏の火を少し小さくして、それから十能を持って慎重に家を出る。空は橙色を浸食し、夜が優勢になっていた。
「夕飯、面倒だな。茶漬けでいいか」
風呂を沸かしたらトカゲもどきと約束したとおり念入りに垢を落として、それから赤くなった肌に軟膏を塗りこまなければいけない。明日の朝は干した洗濯が乾いていれば取り込むところから始めて、旅人に軟膏を塗り込み、朝五つの鐘が鳴ったら蔵の番をしに行く。米を炊いている時間があるだろうか。
風呂を焚いて入り終える頃には宵五つの鐘が鳴り終わっていた。薪の始末をして栓を抜いて、水が流れていく様子を今か今かと待つトカゲもどきを放置して家に戻る。水が抜けたら勝手に垢を舐めだすだろう。
この頃にはもう茶漬けのために湯を沸かす気力すらなくて、結局水を数杯飲んでから敷布団を敷いた。
「狭いな……」
一人用の家屋に二人は流石に窮屈な心地がするが、旅人はともかくサトの寝相は良いので囲炉裏に落ちる心配はないはずだ。掛布団は旅人に使ってしまっているので、小袖を一枚箪笥から取り出して腹にかけた。
いつもと違う床でも、疲れ切った体は微睡みに誘われるまますぐ眠りに落ちていく。まさか夜八つの鐘が鳴る前に起こされるとは露知らず、サトは束の間の穏やかな睡眠を享受するのだった。