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三、泡ガエル②

 女物の派手な小袖と黒の腹掛けは帯で辛うじて繋ぎ止められていた。

 下は脚絆(きゃはん)のおかげで脱げきってはいないが、股引の方はずるりと膝下まで下ろされてしまっている。

 褌は完全に解けて、今は泡ガエルの口から垂れている状態だ。荷物は転がって汚れているが幸い泡ガエルの粘液はかかっていないらしい。


 清潔を極めた粘液に塗れた旅人の、なんと哀れなことか。初めて体験した生きた肉を断ち切る感触。それはサトの瞳を爛々と妖しく輝かせ、息を荒くさせたが、それを長く味わう余裕はなかった。


 脇差を地面に放り投げて旅人を引っ掴むと、さっさと顔を下に向けさせた。そして涎とも粘液ともとれぬ液体をだらしなく垂らしながら咳をし続けるその口に、遠慮なく指を突っ込んだ。


「ぐ、ぅえっ」

「吐け、全部吐ききれ」


 苦しそうな嗚咽(おえつ)の後に大量の粘液が吐き出される。透明な粘液に混じる黄色がかったものは胃液だろうか。酸っぱい臭いはせず、ただ清潔すぎる臭いが鼻を衝く。

 指どころか手首まで喉奥に突っ込んでは吐かせることを何度か繰り返して、時折膝や腕で腹を圧迫した。胃の中身を全部空にするまで淡々とその作業を続ける。

 旅人は辛そうにサトの腕に爪を立てたが、本人のためにも容赦しない。今こうしている間にも粘液は体を蝕むのだから。


「トカゲ、助かった。あとで礼をする」


 背後でビイイ、と泣き声がする。

 トカゲもどきが怯えながらも近くに寄ってきて、その舌でサトの足元めがけて脇差を投げてくれたので泡ガエルと旅人を引き剥がすことができたのだ。垢を好むトカゲもどきにとって、泡ガエルは天敵のようなものなのかもしれない。


 吐くものが少なくなってくると、ガラガラと八車(はちぐるま)を引く音がして遠くから稼吉(かきち)がサトを呼ぶ声が聞こえてくる。旅人はすでに息も絶え絶えといった様子だが、まだ体を震わせながら嗚咽と咳を止められずにいた。


「姐さん、遅れてすまねぇ。桶一杯分だが水も持ってきたぞ」

「助かった。おい、あんた。体を洗うぞ」


 ぐったりした旅人から遠慮なく解けかけの帯と小袖をむしり取るサトに、稼吉が慌てて目を背ける。


「おいおい、姐さん俺を忘れんな?」

「阿保、男だよく見な」


 ぎょっとして稼吉が上半身をひん剥かれた旅人を見れば、まず細く生白い背中が目に入る。確かに骨と筋の感じが男のものだ。小袖を取り払ってしまうとあとは膝まで脱げた股引と脚絆のみ。首筋は梅紫の長い髪で隠れているが、力なくサトにもたれかかる背中から腰、臀部まで丸見えだ。粘液に塗れた肌はなんだか艶めかしく、同性ながら唾を嚥下したくなるような魅力がある。


「稼吉、桶の水ゆっくりかけられるか」

「……おう、まかせな」


 見た目のわりに力のある稼吉が桶を旅人の頭上で傾けて、サトが体を支えながら掛けられる水で粘液を洗い流す。特に顔は重点的に、目元は誤って皮膚を引っ張り瞼が開くことが無いように細心の注意を払った。

 必然的に粘液が混じった水がサトの作務衣にしみこむが、些末なことだ。

 桶の水を半分ほど使ったところで旅人を莚で包んで、稼吉が抱いて八車に乗せる。それから残っていた脚絆を解いて股引もいっぺんに引き抜いた。あとは残りの水で足の方まで洗ってしまう。


 稼吉が水をかける中、サトはおもむろに旅人の尻肉を割り開く。よく確認してしっかり頷いた。


「よかった、未通だな」


 桃のようなぷりんと肉付きのいい尻たぶ。慰めるように数回叩いてやれば大変いい音が返ってくる。


「やだ!やめてやって姐さん!」

「内臓まで洗われてたら事だろ」


 あっけらかんと言い放つサトの瞳は旅人の尻に向いているので稼吉には見えないが、きっと一片の曇りもない。稼吉は思わず桶を置いて頭を抱えてしまった。


「そうなんだがっ……ううん、俺はこいつが不憫でならねぇよ」


 女物を身に着けていようと旅人は男。被害状況の確認は必要なのだが、その辺りはできれば自分にまかせてほしかったと思ってしまう。同性だからこそ同情が禁じ得ない。


 その後、まだぬるつく旅人はしっかり丸洗いするため持ち帰ることになった。稼吉は一足先に八車を引いて林を引き返していく。

 サトは旅人の荷物を拾っていくことにして、ふと振り返った。未だ土に掴まれたままの泡ガエルが、たまに体をピクリと跳ねさせている。


 手のひらを地面から話した時点で、土剋水(どこくすい)――水を吸う土の神通力は停止していた。死んではいないようだが、泡ガエルは水分をいくらか取られて弱っているようだ。だらりと垂れた舌は中程で断ち切ったところから血だまりを作っている。もう自力で移動することはできないだろう。


 僅かに迷った。時間にしたら十秒にも満たないくらい。


 勝手ながらまた脇差を拝借することにして、荷物の代わりに手にした土塗れの脇差を握り、深い呼吸を数回繰り返す。それから、泡ガエルの胸めがけて背中から串刺した。

 カエルが脱力しているせいか、或いはよく手入れされた脇差の切れ味のおかげか、難なく刃が通って生々しい肉の感触が伝わる。舌を両断したときとは比べられない程鮮明で、喉の奥が引き攣った。

 カエルは大きく痙攣したのち、ぱたりと動かなくなった。


「……祓へ給ひ清め給へと白す事を、畏み畏み白す」


 震えを抑圧したいつもより低い声が木々の間に響く。あとには風で枝葉がこすれる音だけが残った。

 脇差を抜き取り、改めて荷物を持って踵を返した。濡れた刃は鞘に戻していいものか分からないので抜身のままだ。

 泡ガエルは大きくてサトには持てそうにない。ひと段落したら埋葬しようと、巨体はそこに置いて帰路についた。



****


 林を抜けて我が家の井戸に寄ると、傍では早くも稼吉がせっせと旅人を洗っているところだった。旅人を八車に乗せたまま容赦なく水をかけている。疲れ切った旅人は気を失っているのか、冷たい水をいくらくらっても起きないようだ。


「どうだ、稼吉」

「うーん、素手じゃなかなか落ちねえなぁ。ああ、水はたらふく飲ませましたぜ」

「わかった。もう少し頼んでいいか?」

「任せてくんなせぇ」


 サトは家に入ると拾った荷物を中に置き、ふと放置していた囲炉裏を見た。囲炉裏は火が静かになっていて、吊るしたままだった薬缶も縁に置いてある鍋敷きに移動されていた。


「小鬼、薬缶移動したのお前たちか?」


 箪笥の上で相撲を取っていた小鬼たちは揃って首を横に振る。


「稼吉か?」


 今度はブンブンと勢いよく首を縦に振って、それから相撲を取りに戻って行った。三匹一緒に相撲を取るので、どちらかというと取っ組み合いのようだ。


 しかし、稼吉は随分と気の利く男だ。ひと段落したら何か礼をしたほうが良いかもしれない。

 サトは小鬼が相撲を取る箪笥から手拭いをあるだけ、それから櫛と細工用の小刀を取り出す。引き出しを閉じた衝撃で小鬼が三匹みんなひっくり返っていた。

 気にせず三和土(たたき)近くに腰かけると、まずは旅人の荷物から脇差を取り出して粘液と泡ガエルの血を綺麗に拭きとる。それから、やはり判断がつかないので鞘には戻さずに、手拭いを広げて敷いた上に安置した。……逃避とも言える時間はすぐ終わった。


 結い上げていた髪を解くと腰に余裕で届く長さがある。数回櫛を滑らせてから根元で束にして掴み、一度深呼吸をする。

 この髪とは長い付き合いだった。長さに苛立ちながら清めて結い上げること幾年。ただでさえ重いのに何度祭礼衣装の髪飾りをつけたことか。


 短い間物思いに耽ったのち、小刀を使って襟足の辺りからばっさり切り落とした。黒々とした髪の束を見て、自然と漏れたため息は知らぬふりをする。


「うん、白髪は混じってないな」


 サトの髪には一筋だけくっきり白い髪がある。生まれつき前髪にだけ一筋白が通っていて、それが幼い頃から目立って嫌だった。位置が位置なのでないだろうとは思っていたが、誤って前髪を分け損ねて、他の場所に混じっていないようで安心した。

 長い髪をぐるりと一つにまとめて、未使用の手拭いに包み込む。一緒に真珠大の神通力玉も一つ入れた。こういうことは勢いよく、手を止めず最後までやり切ったほうがいい。


 髪を包んだ手拭いとただの手拭い一抱えを持って外に出ると、稼吉はまた井戸から水をくみ上げているところだった。


「稼吉、いいか?」

「へえ」


 筋張った細すぎる腕が釣瓶を掴み、足元の桶に水を注ぐ。それから振り返ると、ものの見事に歪な短髪に変わったサトが立っているわけだ。稼吉の両目がそりゃあもう大きく開いたのは仕方のないことと言える。


「町へ使いに行ってほしい。駄賃は弾むから」


 サトが髪を包んだ方の手拭いを稼吉の胸元に押し付ける。反射で受け取った稼吉はごわっとした感触を知り、顔を歪めた。


「あ、姐さんあんた……」

「稼吉なら髪を買ってくれる店も知ってんだろ。神通力玉も入れてある。良い値をつけてもらってくれ」


 何を言おうとすでに髪は切られている。どうせ捨てるくらいなら、確かに売った方がいいのだ。それでも稼吉は「もったいない」と言わずにはいられなかった。


「金ができたら、泡ガエルの粘液に効く薬を……飲むのと塗るの、それから薬湯もあれば多めに買ってきてくれ。余りは駄賃でいい」


 つまり髪がいくらで売れたかの報告はいらないし、「多めに買う」の裁量は稼吉に任せるということだ。神通力持ちの髪がどれだけ高値で売れるのか、知らないはずもないだろうに。

 稼吉はサトと出会ってからというもの、乞食紛いの態度しかとってきていない。強いて言えば職の斡旋をしたくらいか。口が悪い朴念仁に見えて、意外と身内へ認定する垣根が低いというか、食い物をやればすぐに懐く子猫のようだ。見かけどおり酸いも甘いも知らぬおこちゃま。


「へえ、いっちょ行ってきますよ」


 食い物は強請っても律義者で通す稼吉は、しかとサトの髪を包んだ手拭いを掴んで町へ走った。


 ちょっとしてから「俺と変わったということは、あの旅人の男を丸洗いする役目を姐さんがやるのか」と気が付いてしょっぱい顔になる。まあ、どうせ尻の隅々まで見られたのだ。もう何も言うまい。

 それを匙を投げると言ったりする。


 サトは稼吉を見送ると、男の体を洗おうと足元の桶を持ち上げた。

 (むしろ)を敷いた八車に乗ったままの男は、今や一糸まとわぬ姿で仰向けにされている。酷い咳も落ち着いて静かに眠っているが顔はだいぶ青ざめていた。僅かに上下する胸元を無視すれば、死体と見まごう血の気の無さだ。

 桶を八車に乗せ、サト自身も乗り込んで旅人の隣にしゃがみ込む。改めて頭から粘液を洗おうと柄杓(ひしゃく)で水をかけながら、手櫛で髪をすいた。


「……きしむな。さて、どこまで戻せるもんか」


 自分の足を一本枕にして長い髪を丁寧に洗う。梅紫に近い髪は粘液で荒れて、手櫛を通すたびに絡みついた。勿体ないものだ。高い金をかけて手入れし直すより、いっそ短く切ってから伸ばし直した方が早い気がするくらいにきしんでいる。

 頭皮までしっかり洗い終えて櫛を通すと、今度は手拭いを湿らせて顔に目を向ける。


 その相貌を直視した一瞬、目の前がカッと明るくなった気がした。


 随分と整った顔立ちをした男だ。形良く整えられた眉はやや太く、血の気が失せて雪のように白い肌が形よく隆起している。薄く開いた唇だけは数回吐いたせいか赤みが強く、閉じられた瞼に沿って生える睫毛のなんと長いことか。瞳がどんな色をしているか気になる。梅紫に合わせるなら、黄色か緑、いや真っ赤もいいかもしれない。

 耳の皺まで丁寧に洗う手は止まらなかったが、サトの目線は暫く、その美貌に釘付けにされていた。


「――いかん。さっさと洗わないと」


 顔を拭き終えたら乾いた手拭いで旅人の目元を隠して作業を続ける。他意はない。少なくともサトに自覚はない。

 そこからは無心で洗い続けた。あとで肌が火傷してはいけないと、あらぬところまですっかり綺麗になるまでそれは続けられた。


 作業を終えると、一度家に戻って莚を一枚広げる。なんとか旅人を背負って家の中に運び込むときは、トカゲもどきや小鬼が態々寄ってきて力を貸してくれた。手のひらに乗れる大きさをした小鬼の助力はともかく、トカゲもどきが舌で旅人の体を引っ張ってくれたので思いのほかすんなり背負うことができた。

 まあ、重いものは重いが。


「くそ、木行の術を鍛えておくんだった……」


 ぶつくさ言いながらもなんとか運び込み、先に敷いていた莚に寝かせる。足先を引きずったので少し土で汚れたが、まあまた拭けばいいだろう。

 乱暴だが旅人を乗せた莚を引きずって部屋の奥に移動させ、濡れた体を軽く拭きあげたら隅に積んでいた掛布団を広げる。ちょっと迷って、股間に手拭いを一枚被せてから布団をかけた。


 一息つくと体中の疲れを自覚してしまって、一気に全身が重怠く、動くのが億劫で仕方なくなってしまった。それでもこれ以上泡ガエルの粘液と水がしみ込んだ作務衣を着続けるのはよろしくない。すでに濡れた箇所の下にある皮膚がヒリヒリと痛みだしていた。


「ああ、面倒くさい」


 もし来ていたのが小袖だったなら奥まで濡れずに済んだかもしれないが、その場合ここまで機敏には動けなかっただろう。それにこっちの方が脱ぐのも楽だ。

 稼吉が帰る前に着替えてしまおうと作務衣を脱ぎ捨てて、水が滲みた腹掛けも取り払って箪笥を開ける。残念ながら小袖しか入っていなくて、思わず顔にぐちゃりと皺が寄ってため息が漏れた。脱ぐより先に物干し竿を確認して来ればよかった。

 粘液に触れて赤くなった肌が痛むので無意識にあちこち擦る。背に腹は代えられないかと小袖に手を伸ばしたところで、小鬼の鳴き声がして顔を上げた。


「ギャイ、ギュイッ!」


 三匹並んで窓の格子にぶら下がり、楽しそうに揺れていた。障子が開ききっていて、外壁に張り付いたトカゲもどきが朝に干した作務衣を舌で持って揺らしている様子が丸見えだ。


「乾いてる?」

「ビイッ」

「でかした。今日は念入りに垢を落とすよ」


 ひときわ嬉しそうな声を出したトカゲもどきから作務衣を受け取り、さっさと袖を通す。自分たちにも何かくれと騒ぐ小鬼が足元をウロチョロするので動きにくいが、なんとか着替え終えた。


「分かった分かった、ちょっと待ってな」


 ギャイギャイ煩い小鬼たちを踏みそうになりながら箪笥に向かい、小物の中から金平糖が入った袋を出す。小鬼一匹につき三粒と、その場で真珠大の神通力玉も作って一つずつ渡した。


「はいよ、駄賃だ」


 一段高くなった声を尻目に格子窓に近寄る。両手を結んでちょっと長めに力を籠めれば、団子二つ分くらいの玉ができあがった。


「トカゲ、お前はこっち」

「ビイイ!」


 差し出した玉を器用な舌が攫って行く。鼻歌のように調子をつけて鳴く姿を見て、礼に不満はないようだと胸を撫で下ろした。

 稼吉はまだ戻らない。

 サトは脱いだ作務衣から登って遊ぶ小鬼を摘まみ上げて回収すると、もうひと仕事だと気合を入れて外へ出た。

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