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泡ガエル①

 休息日も仕事日も、明け六つから朝五つまでの間にやることは変わらない。


 起きたらまず小さな木桶に水を入れて顔を洗い、吹き出物の具合を触って確認する。残念ながら鏡はない。まだ顎の周りがざらついていて、右の額に新しく痛い箇所がある。

 朝からなんて憂鬱なのか。なるべく刺激しないように洗い終えると手拭いで丁寧に拭きとった。


 その後は髪を結って布団を畳んで、端に寄せたら囲炉裏の火を起こす。もし夕飯の残りが鍋にあれば、ここで自在鉤に引っかけておく。無ければ別の鍋で米を用意して引っかける。今日は残り物の日だ。

 ここらで小鬼が起きてくる。


 井戸へ行って手桶に水を汲み、水瓶いっぱいになるまで往復したら鍋の様子を見る。

 残り物なら食べてしまい、米が炊けていれば()()()に移して朝飯だ。このとき、おひつの中に小鬼が隠れていないかひっくり返して確認したほうが良い。それから鍋の代わりに水を入れた薬缶を引っかけておく。

 今日の朝飯は米を炊くのが少なすぎた。軽く済ませて夜の分を残しておく。


 さっさと食べたら湧いた薬缶をよけてから食器と洗濯物を持って井戸に行き、全部洗ってしまう。小鬼が寝ていた手拭いも忘れずに。それを干したら歯を磨き、ちょいと掃除をする。


 これで朝の仕事は終わりだ。あとは蔵で仕事するなり家で過ごすなりでかけるなり、好きにすればいい。


「おはようございます、サトさん。鍵を頂きに来ましたよ」

「ああ、お松さん。おはようございます。ちょいとお待ちください」


 今日は休息日だから、朝五つの鐘が鳴るとサトの代わりの店番をしてくれる婆さんが平屋の方にやってくる。

 お松は町にある髪結いの婆さんで、還暦はゆうに超えているはずだ。背は少し丸まっているがしっかりした人で、いつも朗らかな笑顔を絶やさない。今日も小袖をきちんと着付けて結った髪はおくれ毛一房すら見当たらない見事さだ。

 サトは仕掛け蔵の鍵束と一緒に団子くらいの大きさをした神通力玉を三つお松に渡す。この玉が、サトが不在中に仕掛け蔵を動かす動力になるのだという。その辺りは詳しくないのでよくわからないが。


「お変わりはありませんか?」

「いつも聞きますね。変わりません。辞める気もありません」


 サトの前は、この仕掛け蔵の保守管理が合わず職の定着率が低かったのだという。大体が百日持たずに辞めていくので、サトもそうならないかといつもお松は気にかけている。


「今日は町へ出かけてきます」

「はい、楽しんでらっしゃい」


 仕掛け蔵に向かうお松の後姿を見送る。枕こそ使っていないが、帯もきっちり真っすぐに結ばれていた。


「……私には無理だな」


 出掛けるとはいえ今日もいつもの作務衣(さむえ)姿。この格好の楽さを知ってしまうと、もう小袖に帯を締めて活動する気にはなれない。祭礼用の着物なんて以ての外だ。そもそも、着飾るより先にしつこい吹き出物と肌の赤みをどうにかしたいところ。


「おーい小鬼、出掛けるけど来るか?」


 三匹の小鬼はギャイギャイ鳴いて、火を落とした囲炉裏の周りで追い駆けっこをしている。一匹転んだところに後続の小鬼が躓いて、結局団子になっていた。そのまま相撲に移行するようだ。


「物を壊すんじゃないよ」


 サトは銭の入った巾着を持ち出して懐にしまうと、小鬼を置いて家を出る。

 どこへ行こうかと顎を撫ぜて、やっぱりざらつく感触に眉をしかめた。近々軟膏でも買ったほうが良いかもしれない。気が向いたら薬屋を探そうと町へ足を向けるのだった。



 まほらの里は霊山の南の麓に築かれた里で、帝はもっと東の都にいる。都から長い川で繋がっていて、その川を囲うように発展してきた。行商人や浪人(冒険者)によれば中心部は都に並ぶほどの規模だという。

 日がある時間の町は大賑わいだ。商店もそうだし飯屋も看板娘が呼び込みを頑張っていて、たまに油売りや籠が通り過ぎる。サトは朝にお松へ渡した神通力玉が頭を過ぎって、なんだか団子が食べたくなった。


 一本道を逸れて馴染みの甘味屋に入る。ここの餡子は甘すぎず、豆の味が濃くて旨いのだ。

 店先の椅子には骸骨のように痩せた男がすっかり団子を食べきった串を未練がましく嘗め回している。だらしない着流し姿、傍の皿はからっぽで、注文したその一本を後生大事にしゃぶっているのだ。


「いらっしゃい、幾つにする?」

「あー……みたらし三本、餡子二本。茶も二杯」

「あいよ、好きな席にどうぞ」


 サトが暖簾をくぐって注文すると、外にいたはずの男が上機嫌で空の皿を片手にそっと寄ってくる。まだ席が空いているのにサトの隣を陣取って、串を咥えたまますり寄った。


「やあ姐さん。団子五本たぁ景気が良いね」

「阿保、四つはあんたのだよ。暇なら荷物持ちやってきな」


 稼吉(かきち)という男なのだが、名前のわりにいつも素寒貧でやせ細っている。サトが家を出ようと画策している間に出会い、今の仕事を紹介してくれた男でもある。

 図々しいが愛嬌のあるやつなので、仕事斡旋の恩もあって顔を合わせるたびに何かと理由をつけては食わせているのだ。いっこうに丸くなる気配はないが、なにか患っている様子もなく元気なのでいいだろう。


「ははあ、買い物ですかい。北の古着屋に良い色の小袖が出てましたぜ。野菜なら東の店がいい。簪なら中央……いや、古着屋のはす向かいか……」

「いや水瓶にかける(むしろ)を一枚。嵩張るから持ってくれ」


 稼吉はサトの返事にわざとらしくため息をつく。


「ああ姐さん。あんたも着飾りゃ見違えるってのに」

「うるさいな」


 サトが運ばれてきた湯呑に口をつけると、稼吉も遠慮なく串団子に手を伸ばす。旨そうに舌鼓を打つ姿に今度はサトがため息をついて、食われないうちに餡子の串を一つ確保しておいた。


 稼吉は食べることが好きなようだ。一日二食が主流なのにきっちり三食と八つ時も食べているらしい。素寒貧のわりに会うたび少量でもなにか口にしていて、今日のように団子だったり饅頭の欠片だったり、たまに小さな握り飯だったり。


「岩戸の方へ、質のいい野菜や米が納められたって話はご存じで?そろそろ巫覡(ふげき)選定も佳境と言っていいんですかねぇ」


 町に出ると大体遭遇するが、普段何をしているのかはよく分からない。細いが浪人だったりするのだろうか。


「花街で珍しい花が並んだとか……は、姐さんは興味ねぇか。都の方で新しいおしろいが人気らしいとは聞いたことありますかい?紅も去年より橙がかった色が人気らしくて――」


 情報通で飄々とした、掴みどころのない男だ。物を食べていても舌が落ち着く暇がない。声が喧しくないから聞き流していられるが、これで耳障りの悪い声をしていたら藪蚊のごとく叩いていたところだろう。


「おかみさん、勘定いくら?」

「あいよ、団子六本お茶二杯で粒銭八ね」


 稼吉を見れば、最後の一本の串を咥えて調子よく笑っている。

 良い歳こいた男の健気なぶりっ子に、サトは怒る気も失せて大きく息を吐く。懐の巾着に粒銭は五つしかなく、代わりに丸銭を一枚置いて、釣銭で粒銭二つを受け取った。

 追加された団子一本分は、次のツケにしておこう。



****


 道具屋で莚を見繕っていると、言い値で買おうとするサトをそれとなく止めた稼吉が景気よく値切り交渉をしてくれた。やれここの編みが甘いだとか、端の処理は西の店の方が上手いだとか。

 あの手この手で店主を狼狽させると、最終的に一畳の莚一枚で丸銭二枚だったのが三枚で丸銭二枚半に化けたのだった。


「ちなみに、莚の相場は一枚につき丸銭一枚ちょいだぜ姐さん」


 言い値で買っていては随分なぼったくりだったのだなあ。サトは感心してしまって、団子のことは水に流してやることにした。

 しかし、三枚も何に使おう。


 三枚分の莚は、それで二貫(約七キロ半)程度の重さがある。稼吉はまとめて丸めたものを軽々と持ち上げてサトの隣を歩いていた。殆ど骨と皮だけの男がいつか折れるんじゃないかと気が気じゃない。

 心配をよそに、稼吉はふらつきもせず運んでいた。


 住み込み先の平屋に着くと、莚は板間に置いてもらう。小鬼はサトが帰ってきたことに気付いて駆け寄ってきたが、稼吉を見るとぴゃっと飛び上がって物陰へと引っ込んでいってしまった。


「おんやぁ、嫌われちまったかね」

「稼吉、茶でも飲んで帰るか?」

「おっありがてぇ」


 心配になるくらい物怖じしない小鬼たちが珍しい、とは思ったが、稼吉の異様な痩せ方に驚いたのかもしれない。稼吉もあまり見ないくらい妖怪を素直に受けて入れている。サトのように昔から交流があって慣れているのかもしれなかった。


 囲炉裏の火を起こしてたっぷり水を入れた薬缶を引っかけていると、ビイイイ、ビイイイと低く腹の底を振動させるような音が聞こえてきた。

 何だと格子窓の方を見れば、丁度トカゲもどきが閉め切っていた障子を器用に舌先で開けたところだった。トカゲもどきは舌を出したまま口を開けて、その喉奥からビイイイ、ビイイイと音を発している。


「なに、お前鳴けたのか?」


 格子窓に近付くと舌がびろん、と伸びてサトの右手首に巻き付く。そのまま格子窓の外に引っ張り上げながら、トカゲもどきは器用に鳴き続けていた。


「阿保、こっからじゃ私は出られないよ。そっちへ回るから待ちな」


 格子の間隔は大体二寸(約六センチ)、いくら胸部が平らでも通り抜けるのは無理がある。トカゲもどきの舌を引き剥がして外へ出ると、当然のように稼吉も着いてきた。

 壁に張り付いて鳴いているトカゲもどきは、サトたちが近づくと案内するように壁から跳ねて近くの木に張り付く。それを何度か繰り返して、平屋の裏手にある林の中へと誘導していった。


「……どうする姐さん?」

「さあ。ついて行ってみるか」


 ビイイイ、ビイイイという鳴き声を聞きながら、トカゲもどきの後を追う。木を十本跳ねて渡ったところでトカゲもどきの動きが止まり、そこから先に行かなくなった。

 周囲には何もなく、トカゲもどきが止まった理由が分からない。


「おい、トカゲ?」


 トカゲもどきはめいっぱい舌を伸ばして林の先を指している。動物の表情なんて分からないが、どうやら何らかに怯えてこの先に行きたくないようだとは読み取れた。渋々、トカゲもどきを放置して先へ進む。その背中を稼吉が追った。

 林は鬱蒼としていて、まだ八つ時前だというのに薄暗い。草をかき分けると土と葉の青臭い匂いが鼻を衝く。少し歩くと草履がぬかるみを捕らえて、慌てて足をひいた。


「うわっ」


 丁度草が無く土が露出したところが濡れていた。土と混ざって泥になり、溜まった水場に泡がいくつも浮いている。


「ああ、こりゃ泡ガエルだ」


 サトの後ろから稼吉が顔を出し、しげしげと顎を撫でている。

 泡ガエルはその名のとおり、全身から泡を出す大ガエルだ。その粘液は大変清潔で、清潔すぎてむしろ毒になる。好物は、汚いもの全般。主に肥溜めに生息する。表皮、消化器粘膜すべてから塩基性の粘液を分泌して、どんな汚泥も瞬く間に溶かして浄化しきってしまうのだ。


 背後で聞こえるビイイイ、というトカゲもどきの鳴き声の合間に、粘着質な水音とややくぐもった悲鳴が耳を掠めた。

 嫌な予感が二人の顔から血の気を抜いていった。首は自然と悲鳴の方、つまり土や草についた粘液が伸びる方へ向くだろう。獣の声であってほしい。


 だって泡ガエルの好物は汚いもの全般。つまり、暫く風呂に入っていない旅人も好物だ。


「――稼吉。買った莚と、風呂小屋近くの八車(はちぐるま)を持ってきて」

「おい姐さん、一人で行く気か?」

「何かあれば神通力がある。力仕事は頼んだ!」


 サトは言うだけ言って駆け出した。近付くほど林に似つかわしくない清潔な匂いが鼻を突き、口で呼吸しても感じられるほどに濃くなっていく。

 粘液でできた道をたどって行けば徐々に叫び声が大きくなる。鮮明になるほど獣の声には聞こえなくなって、サトの顔もより青ざめていく。程なくしてずんぐりむっくりとした大ガエルの尻が見えてきて、米俵五つ分くらいの体躯が背を向けているのが分かった。あれだけあれば人一人楽に呑めるだろう。


 サト側には荷物があちこちに散らばっている。財布、草履、脇差、崩れた風呂敷包み。やはり野生動物などではなく、人が呑まれかけているらしい。


「おい、聞こえるか!なるべく口を閉じて粘液を飲むなよ!」


 弾けるように体が動いていた。思考は殆ど真っ白で、なんとなく知識として蓄えていた泡ガエルの情報をうまい事口から発することができたのは幸運だった。


 サトに気付いた泡ガエルがこちらを向くと、その大きな口から派手な女物の袖と白い腕が伸びているのが分かった。頭がこちら側なら、引っ張ればすぐ顔を出せるはずだ。

 作務衣の懐から手拭いを取り出すと、泡ガエルから伸びる腕に巻きつけ滑り止めにして力いっぱい握り引っ張る。この際、相手の骨が折れても構わないくらい思い切り。カエルの粘液で窒息死するよりましだろう。

 泡ガエルは大きいが、全体が泡を作る粘液で塗れている。食べ物があれなので歯も生えていない。呑まれた旅人も粘液だらけなので、掴めさえすれば摩擦もなくずるりと引き抜くことができるのだ。

 旅人の腕を引くと一気に頭から胸元まで引き抜けた。下を向いて出てきた長い髪を生やした頭が、飲みかけた粘液を吐き出して喘鳴と咳を繰り返す。

 問題は、筋肉の塊でできた長い舌だ。


「ぁぐっ、この……っ」


 再度踏ん張ろうとしたところ、餌を取られた泡ガエルが舌を伸ばして旅人の喉元に巻きつけたので手を止めた。


「くそっ」


 下手に引けば首が締まって、最悪首の骨が折れかねない。腕から手を離し、そのまましゃがんで両手のひらを地面に押し付けるた。背後では近くの木がどんと揺れた音がする。


「――鎮星麒麟(ちんせいきりん)に願い奉る。相剋(そうこく)の理、土剋水(どこくすい)ここに!」


 文字にすればなんてことはないが、サトの声は少し震えて痞えていた。

 稼吉に大見栄張ったはいいが、巫覡候補として霊山で過ごしてきたサトはその実、神通力を学んでも実践で使った経験など皆無なのだから。適切な神通力を知っていても、あくまで文字の羅列のみ。

 本当に効果があるのか?十分な威力を出せるのか?懸念は湧いて止まらない。


 幸い神通力はうまく発動した。泡ガエルの足元が揺れ、ぐわんと波打ったかと思うとその腹を鷲掴みにするように隆起して持ち上げる。勢いよく持ち上がったので腹を押された泡ガエルはその口を開け、ごぽりと旅人と一緒に大量の粘液を吐き出した。

 しかし未練がましく巻き付いた舌は旅人の喉に食い込み緩む気配がない。


「くそ、まだ足りないか……っ」


 その時、重たい音をたてながら脇差がサトの足元まで転がってきた。とっさにつかみ取ると鞘から抜いて、両手で持って舌の中程目掛けて振り下ろす。思考は再度真っ白に染まっていて、ほぼ無意識の行動だった。

 よく手入れされた脇差は、素人の太刀筋でもその切れ味を十二分に発揮してくれた。


 醜い悲鳴が響いて巨体がのたうち回ろうとするが、土はまだ泡ガエルの体を捕らえて動かない。泡ガエルの口から両断された絶と一緒に、旅人は少し離れた場所に吐き出された。

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