表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/18

十五、対大泡ガエル①

 招集された先でやることなんて、お前ら戦場に行くか行かんか決めろと問うだけだ。半鐘の音に応じた段階ですでに「行く」と意思表示したも同然で、世間知らずな新人が三人ほど逃げて終わった。

 出発前、富嶽(ふがく)がぶっきらぼうに投げ渡した足袋を履く。


「水辺に棲むケダモノの脂は防水性が強イだろ。足袋に吸わせりゃァ、気休め程度になるんじゃねェの」


 倉庫を圧迫していた在庫の処分がてら、レンと松風(まつかぜ)の分まで脂をたっぷり染みこませた足袋を用意していたらしい。失敗を予測して拵えた予備だと言い張っていたが、レンたちと富嶽では大きさが見るからに違うだろうに。

 あからさまな嘘に噛みつくのも野暮かと、レンたちは良い顔をして「ならありがたく」と受け取ったのだ。


 乾ききらなかった脂が素足に付くのが、歩き始めは不快だった。しかし成程、粘液と泥が滲みてきても肌に付いた脂が膜になるようだ。これなら長期戦になっても他生の我慢がきくというもの。招集という緊急事態でも、レンと松風は幾分か明るい心持で戦場に臨んだ。


 粘液なんぞ、親玉の前では些細な問題だったのだが。


「うおおぉん、うおおぉん――」

「ぎゃああああっ」


 目の前の水饅頭は何であるのか?それを理解しようと苦心している間に、仲間は随分数を減らした。

 無理に開かれた林ででっぷりと鎮座する泡ガエルの母体は、事前に告知されていようと衝撃的であることに変わりはない。ケダモノ討伐を浪人生活の主軸とする富嶽すら、数歩後退る足を止めることはできなかった。


「こりゃァ、ヤベェ……」


 笑い混じりの声が絞り出せたのが不思議だった。短刀を握る手が震える。乾いた喉が飲めもしない唾を流し込もうと、大袈裟に動く。

 我が子ごと死体を呑み続けたどどめ色の腹は、きっと武士連中が見つけた当初よりその禍々しさを増していた。カエル型の半透明の皮、身じろがずとも歪に蠢く餡は、それぞれ別の生き物にも思えるのだった。


 おくら様という神が関わっているらしいと知らない富嶽も、なにか得体の知れない存在をどどめ色の奥に見出していた。

 ごくたまに、似た存在を山奥で見かけることがあるからだ。その時は跳ね回る心臓を必死になだめて気配を殺し、挑むなんて考えず逃走一択だった。

 恐怖に呑まれて狼狽えれば一瞬で彼岸の先に送られるだろうから。

 今回は逃走が生存に繋がるかどうか。いや、富嶽は生き延びるだろう。別の里へ逃げてしまえばいい。貸し蔵の中身は惜しいが置いて行ったって良い。暫くひもじいが、直ぐ立て直せる。

 問題は、良心の方だ。このまま放置すればまほらの里は、もっと悲惨なことになる。


「――」


 レンの方は、親玉ガエルに釘付けになっていた声も出せずにいた。呼吸もできているか怪しい。両足はその場に根を張って、隣で甲高く上げられた金切り声もどこか遠くに感じているのだろう。


 レンは生憎、恐怖というものに強くない。特に人ならざるものが牙をむいたとき、或いは悪意なき力が及んだとき、それがいかに怖ろしく醜悪な結果を生むのか。それを身をもって知っている。

 目の前に鎮座する水饅頭は、成程神の手が加わってるのだとよく解る醜悪さだ。


 ねえ、彼女の意志はどこへ行ってしまったの?人とカエルの区別もつかず、我が子と死骸の区別もつかず、口に入るものをただ嚥下して座るだけなんて、あまりにも。

 本人の意を介さず背中から産まれ落ちる命は、本当に望んで産まれたの?

 今滑り落ちた坂が母の背中だと理解しているの?

 そこに、親子の愛や情があるの?


 虚ろな眼がどこでもない方を見ていた。半開きの唇。溜まっていく一方の唾液。ああ、零れそう。顎を伝っているのが涙か唾液かは知らないが、どちらにしても体液だ。

 そんな有様を晒すのは、果たしてレンなのか、親玉ガエルなのか――。


「起きろレン!」


 強烈な音と衝撃を食らって目の前に星が散ったかと思うと、レンは着物を思いきり引っ張られて後ろに転ぶ。右頬がジンジンと痛むことを自覚する前に、正面へ泡ガエルが一匹勢いよく飛び込んできた。それを富嶽が荒っぽく仕留めている。


「え……」


 星が落ち着いた視界は一気に開けていく。熱を持った頬を撫でた。


「寝惚けてんじゃねェ!さっさと刀抜けェ!……松、オイ松風ッ!オメェもだよ!」


 一人正気を保っていた富嶽が、続けざまにもう一匹カエルを仕留めている。恐怖から帰ってこられない松風の肩を掴んで揺さぶっている。その背に迫るカエルを捉えてようやく、レンの体が跳ねるように動き出した。握り慣れた脇差は無心に振っても相手を難なく両断する。


 ようやく耳に音が帰ってきた。松風の絶叫、周囲の恐慌、前線の武士の雄叫び。冷えた芯が一本通された心地がして、それに正気を縫い留める。

 もう、悍ましく変えられた水饅頭を見たって問題はない。


「……ごめんなさい!取り乱したわ」


 突きと薙ぎ払いを繰り返しながら、絶叫に寄ってくるカエルを切り捨てていく。


「オはよォさん女顔ッ 起きたんなら、松風どうにかしろ!」

「アタシみたいに引っ叩きなさいよ」

「阿保抜かせ、女の顔叩けっかァ!」

「アタシの顔は遠慮なく行ったくせに!きっと美しい顔にアンタの紅葉がくっきりつたわ!」

「綺麗だろうがオメェは男だろうがよォ!男振りがアがってよかったな!」


 泡ガエルを切って切って、やいのやいのと騒ぎ合う。松風はその間にも、喉が切れんばかりの金切り声を止めない。


 これでは消耗するばかりだ、と二人が断じるのは早かった。富嶽は松風の手から無理やり大太刀を捨てさせ、血の気が引いて硬い身体を担ぎ上げる。腹が圧迫されて叫びが途切れ、変な声を漏らしたのは一旦無視しよう。


「どうせアンタの刀じゃ短くて役に立たないわ。尻尾巻いて帰りなさい!」

「ハンッ、オマエだけに良い恰好させっかよォ」


 富嶽は松風と共に退却することを選ぶと、飛び掛かってきた泡ガエルを蹴り飛ばした。そのまま脇目もふらず、人一人抱えているとは思えない速度でビュンッと駆けていく。

 足腰の強さに定評のある男だ。すぐに戦場を抜け出して、安全な場所で松風の助けになるだろう。


 一人残ったレンは、親玉ガエルの周囲で起こる惨劇を改めてよく見た。レンのようにひと目で恐慌に陥った者たちが、立ち直れずにいた末路はただ一つ。死んで、怖いあの水饅頭にぺろり、だ。


「……死んでも御免よ、あんな醜い最期」


 松風の大太刀を比較的ぬかるみがマシな土に投げると、血と粘液塗れの脇差を振るって踏み込んだ。

 あれを生かしておくわけにはいかない。一秒でも早く、腹を裂いて眠らせるべきだ。


「覚悟しへ、蛙ども」


 まず跳んで向かってきていたカエル三匹を切って捨てた。泥を蹴って前進しながら刀を振るい、邪魔なカエルだけを始末する。進むことだけに注力すれば、あっという間に武士が多くいる水饅頭周囲の戦場に到達した。


「ぬ、浪人か!」

「助太刀感謝する!気を付けろ、ここは沼の上と思え!」


 攻めあぐねていた武士の声を聞き、なぎ倒された樹木の上で一息つく。樹木はレンの重みで少し泥に沈んだ。


「成程、言い得て妙ね」


 親玉ガエルの巨体から滴る唾液と粘液が広がってできた毒の沼。姿勢を崩して転がろうものなら、あっという間に動きが鈍ってお陀仏だ。

 残っている武士は、この泥と粘液をひたすら避けている者か、割り切って着物を脱いで戦っている者ばかり。後者は火傷のように全身爛れ始めている。レンとしては、前者に倣い回避に重きを置いた戦術を取りたいところだ。


「……サト、来てくれるのかしら」


 来なくてもいい。いや、来ないほうが良いかもしれない。あんな醜悪な存在を、年下の女の子の目に写すのは酷なことだ。

 足場を見極めながらさらにカエルを五匹仕留める。動きが完全に止まる前から別のカエルに回収されて、親玉ガエルの口に運ばれてしまう。死骸の山を築いて足場にするのは難しそうだ。

 ならば、と今度は切ったカエルにすぐ飛び乗った。切っては踏み、切っては踏み、飛び石のように使って前へ前へ。


 身軽なレンの動きを見て、武士がレンの前進を助ける形に切り替わった。礼を言う暇も惜しく、できていく短い命の飛び石を踏み続ける。


 そうして思ったよりすんなりと、親玉ガエルの直下へと到達できた。


「――!」


 がなりを上げながら跳び上がり、でっぷりとした腹を切りつけた。

 武士が歓声を上げたが、ブヨブヨとした手ごたえはまさに水饅頭を切るがごとく。脇差は餡どころか分厚い皮に穴をあけることすらできず、パックリ開いた傷からは血も垂れないのだから驚いた。


 強襲してきたカエルを切って一旦退く。親玉ガエルの全身を確認して、小さくとも傷ついたはずなのに、一切身じろいでいないという事実に舌を打つ。どこまで生き物から外れた作りをしているのやら。


「ああもう、気味が悪いったら」


 気丈に発した声が震えた。鳥肌が立って仕方ない。

 泡ガエルたちは母体を傷つけられて目の色を変えたが――。それが何らかの情や怒りが滲んでいればいいものを、そんな色は、どこにもなかった。


「さっさと松風が正気に戻って加勢してくれることを祈ろうかしら」


 脳内に大太刀を振り回す年上の彼女がよぎる。祈る相手はどうするべきか。有名どころの戦神は女神なので、レンとしては避けたい相手だ。ここはやはり、家族にでも。

 生憎と、加勢は今すぐには望めない。レンと今いる武士・浪人が親玉ガエルに致命傷を与えるには、同じ場所を切り重ねるしかない。

 震える手足を叱責して、また飛び石を作るところから始めるために、重い一歩を踏みしめた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ