十四、取引:古多万の林
稼吉が語るところによると、古多万は草木に宿るごく自然的な、大昔から居る精霊のような存在だという。それこそ神々が中つ国を治め始める前から、土に小さな草が芽生えた瞬間から居るモノたちだ。
発展を望んで木々の伐採や土地の開拓をする神や人に対抗しようと一念発起した結果、純粋な精霊が妖怪へと変じたと言われている。
「群であり個であるというか。林、森、山。そんな単位でつるむんで“古多万”。どの木の誰という訳でもないようですぜ」
文字通り、古くから万の数ほど多く居る存在ということらしい。
少し前に喜び勇んでちょろちょろと駆けて行った小鬼が、ぎゃいぎゃいと騒ぎながら戻ってくる。泥と土にまみれた三匹を濡らした手拭いで受け止めて遠慮なくぐりぐりと拭いていると、真昼九つを告げる鐘の音がした。
「土門の子、気が変わったか?」
鐘の音色に紛れて、客がいない蔵の板間に現れたのは、あの椿が良く似合う童女を筆頭とした古多万諸君。日を置いて調子を回復したのか、今日は草木と人を合わせたような容姿に完璧な子供らしい笑顔を携えている。
サトは綺麗になった小鬼を稼吉に投げて、古多万諸君の方を向く。空中散歩を楽しんだ小鬼は着地先が骨ばった男だと気づくと、声を裏返らせて早々に手のひらから飛び退いた。
「おお、元気が良いことで」
稼吉は気にせず、物陰に隠れようとする小鬼にちょいちょいと指を向けてからかう。
古多万は小鬼の様子に笑っていた。幼気な笑い声が満ちる中、手毬を持った椿の童女だけが控えめな態度を崩さない。
サトはそれを見て、やっぱり、などと思うわけだ。
「おまえ、古多万ではなさそうだね」
笑い声が止み、椿の童女がぴたりと動きを止める。元々大きく身を動かしていたわけではないが、呼吸で肩や胸が上下することもなく、それこそ蝋人形のようにぴたりと。板間には間抜けな小鬼の声だけが響く。
「……やれ、ばれたか」
零れたのは椿の童女から発せられた、今までで一番子供らしからぬ声だった。子供らしくはないが、柔らかくて擽ったそうな、悪戯が露見した直後を思わせる声音だ。それに続いて、「まさか気付かれるとは」と周囲の古多万が騒ぎ出した。
「何故ばれたのかね」
「元精霊ってだけあって、他の連中は無邪気さと不気味さが混じってるだろ。それに、なんというか。群体感が強い。比べてお前は不気味が過ぎて、ちと精霊らしさが足りない」
「ふうん。しかし、心外だ。これでも木の精霊の端くれなんだが」
湯気のように揺らいだ椿の童女は、輪郭を取り戻すと妖しい女の姿に変じていた。面影は十分残していて、なるほどこれが正体なのだとひと目でわかる。
「古椿の霊、化け椿、椿女。好きに呼ぶといい」
童女改め椿の霊は、もう老練さと妖怪らしさを隠そうとはしなかった。
「凶事を告げる夜泣き椿か。こりゃあ珍しい」
いつまで経っても近寄ってこない小鬼に飽きた稼吉がそう零す。
椿女は「物知りだな」とコロコロ品よく笑って、見頃の椿のように真っ赤な唇に弧を描いた。
「なんで隠したんだ?」
「古多万の代表として参ったと言ったろ。それは間違いない故。あの林に住むのも間違いない。ただ個を名乗るより、総称して古多万としたほうが、名乗る面倒が少ない」
あっけらかんとした物言いだ。思ったよりも単純で、他愛もない理由だったらしい。鮮やかな花の化身のわりに、面倒くさがりなのかもしれなかった。
何らかを騙る在り方をする妖怪だったら厄介だと考えていたので、それよりもずっと良い。和やかに笑い合う椿女と古多万を眺めて、サトは密かにほっと一息ついた。
「――気を取り直して、椿女」
「そう呼ぶか。良い。なにか用か、土門の子」
「取引だ。前回おまえたちが望んだ“林で暴れる泡ガエルをどうにかする”って取引。対価は、変わらず“おまえたちの霊力を私に貸すこと”」
「……はて、何故気を変えたのか」
椿女の態度は一見してそう変わらないでいた。椿の葉のような髪を殆ど揺らさず、花弁のように鮮やかな唇だけが動いている。ただ目元がほんの僅かに瞬いた。予想外のことへの動揺、それから一握ほどの後ろめたさが読み取れる。
「ただし、泡ガエルの情報はしっかり教えてもらう」
サトがこう続けると、椿女たちの表情に畏怖が混ざった。サトに対してではなく、今ここにいない別存在に対してのものだ。噛み合っていた視線が斜め下へと流れていく。サトは、努めて穏やかな声音で続けた。
「分かるだろう。“厄介なケダモノ討伐”のための情報が欲しい。今さっき浪人たちが招集されていったんだ。その力になりたい」
何かへの恐れが消えることはないが、一同の目線がサトへと戻った。
「レンも行ったぞ。放置すれば、カエル共の汁でまたあの綺麗な顔が台無しになる。最近、やっと戻ってきたのにな」
軽い調子の声に、椿女の目だけが驚きに見開かれて数拍。呆れたか、諦めたかのようにじっとりと半目になり、色よい唇がへの字を描いた。
中々良い手ごたえではないだろうか。サトは喜びとちょっとの達成感を抑えきれず、にまりと笑う。
「ははあ、兄さんの御尊顔はどんだけ威力があるんだか」
感心した稼吉が胡坐に頬杖で見守っている。小鬼は後ろで恰好をまねようとして、胴も手も足も丈が足りずに転がった。
それから間もなく、「わかった」と取引に応じる意思を示した椿女と古多万だったが、さあカエルについて話そうじゃないかと口を開くモノは居なかった。どいつもこいつも、口を開きかけてはもごもご。あ、と一声あげてはだんまり。
サトは顎を撫ぜながら観察していた。ざらつきも吹き出物も無くなって久しい肌は、触り甲斐が無い気がした。
「……ただ弱点や対策を教えてほしいだけなんだが」
「俺が言ったとおりでしょう、情報を制限するのが苦手って」
「欲しい情報に、言いたくないことが混ざってるってことか……?」
「でしょうねぇ」
サトの予想どおりなら、言いたくない、もしくは言えないことは彼ら曰くの「おくら様」に関わる部分だ。サトたちが知っていれば、知っている箇所は言う必要が無いと断じることができたのかもしれない。そうではなかったため、妖怪の頭で言うことと言わないことの選択する必要ができてしまった。
もしかすると、妖怪側では何が討伐に役立つ情報かの判断がついていないのだろうか。
「――」
ふむ、と考える。レンが居れば、どういった情報が欲しいのか聞けたのだが。今この場にいない者を恋しがっても不毛なので、強めに息を吐いて気持ちを切り替えようとした。
「こちらの質問に答える形ならできるか?」
「そりゃあいい。古多万さん方が言いたくないときは、そう答えてもらえばいい」
サトたちの言葉に目を丸くした椿女は、逡巡としつつもたどたどしく頷いて見せた。
「では、ひとつ。泡ガエルの母体とやらはどんな姿をしている?」
「――木に追いつくほどの背丈をした、自分では立つこともできん大ガエルだ。尾を捨てず木を椅子に座っていて、背中の泡から無数の子を産む」
「お、おお……。最初から情報が多いな」
サトの脳内にはレンを食っていた泡ガエルがそのまま大きく膨らみ、倒木に腰かけている姿が浮かんだ。背中にはカエルの卵が入った泡を背負っている。どうやったって、想像はあの悍ましいどどめ色の水饅頭には辿り着かない。
尾を捨てずということは、あの丸々とした尻にはオタマジャクシのような尾がそっくり残っているのだろうか。幅の広い尾が大きな尻から伸びている様を思い浮かべながら、サトは質問を続ける。
「ふたつ。何故尾を残している?」
「……言えんな」
この問い方では駄目だったらしい。言葉を変えて改めて問う。
「では、尾は何か役目がある?」
「ああ、ある。尾を根にして地中へ伸ばし、そこから穢れを吸いあげている。だから、アレは座って動けない」
「穢れ?確かにケダモノは穢れを好むが、なんで?」
サトの頭の中で、扇状で宙を泳いでいた尾が中程から土に埋まっている絵に変わった。理解できず、思わず斜め後ろで見守る稼吉に問いを投げる。稼吉は特に動揺せずに、腕を組むと一緒になって考え始めた。
「浪人連中が不思議がってたのを考えると……繁殖のためですかねぇ。吸い上げた穢れで産卵場所をこさえているのか、そのまま糧にしているのか」
「子供は背中の泡から産むって言ってたが……。いや、どっちにしろ、無数と言うほど産んでいるなら、何かしらに使っているんだろう」
サトは動物の生態に明るくない。泡ガエル含めケダモノの生態となれば尚更。辛うじて、襲われた後の軽い応急処置程度の知識があるだけだ。これが八雲であれば、或いはレンの浪人仲間・富嶽であれば、どういった用途で穢れが使われているのか予測がついただろう。
自分では分からないことを考えても仕方がないと、サトは頭を振って次の質問に移る。
「みっつ。その泡ガエルを討つにはどうするべきか、知っているか?」
「予想はある。まず尻を浮かせて尾を断ち切り、穢れの吸収を止めさせる。それから頭骨を割るなり腹を裂くなり。それは普通のカエルと同じよ」
「ふうん……?」
穢れの供給を止めれば糧を失い、力を削ぐことができるのだろう。問題は、木に追いつくほど大きいというカエルの尻を、どう持ち上げるかだ。まさかひょろりと細いわけもあるまいし、一瞬ちょっと持ち上げたくらいで切れるはずもない。
「オタマジャクシの尾に骨は通っているのか……?」
巨体に見合った太さと強度を持っていると仮定すると、取れる手段は限られる。少なくとも、巨体を持ち上げるだけの衝撃を与える神通力が必要だろう。
「……椿女、それに古多万。おまえたちは、カエル退治を成すだけの力が私にあると思うか?」
「思うとも。だからお前に取引を持ちかけたのだから。足りんものは我らが補おう」
「土と木と水と共に生きる我らの霊力なら、お前にもよく馴染むだろう」
芯の通った子供の声。返答に揺らいだところは一切なかった。声に出して答えたのは数名だけだったが、傍に控える古多万諸君も同様に、信じて疑わないといった顔で並んでいる。
サトはどうにも面映ゆく、そう、と返して頬を掻いた。
話がひと段落するのを見計らったかのように、数刻前に聞いた半鐘が鳴る。今回は、三点と五点の交打が一回きりだった。「決定の合図だ」と、稼吉が言う。何が決定したのかなど、確かめなくても分かることだ。
古多万諸君を見渡す。こちらの視線を受け止める顔がどれもこれも、真摯な面持ちで視線を返してくる。全員といっぺんに目線を合わせるのは難しい。それでもサトは、全ての目と己の目を真っすぐ合わせる気概で姿勢を正した。
「椿女および古多万へ。私、巫術師が末席、サトが約束しよう。林で暴れる泡ガエルを退けるため、尽力すことを」
「では、巫術師サトへ。林の古多万一同、およびわたし椿女が約束しよう。泡ガエル退治のため、必要な霊力を提供することを。そして、退治が成された暁には、必ず礼をすることを」
サトから差し出した右手を始めに握ったのは椿女だ。樹木らしくひんやりし過ぎない、潤いのある手が、サトの熱が移ることで温くなる。皮膚の下に血潮は感じない。樹皮がペロリと剥けたばかりの木肌のような滑らかさだ。
続いて、繋いだ手に重ねて古多万の手が乗る。モミジのようであったり、若草のようであったり、或いは茸のようにとても柔い手もあった。いつの間にか人数が増えて手が伸ばしづらくなると、サトの肩や頭に手のひらが乗せられていく。
傍から見れば年若い者たちが団子になって、円陣を真似ているのかと思える光景だろう。その中心にいるサトは、密集した中でも息苦しさは微塵も感じていない。緑の深い森の中にいるような、湿った土と青い匂いが肺を満たしていた。
林が荒れていく光景を惜しみ、悲しむ深い深い愛情がそこにあった。
彼らは個であり群である。穢れた泥に覆われた一本の樹木を悼む気持ちが幾千あれば、幾千の草木の行く末を案じる気持ちが一本ある。そんな存在。
「――確かに受け取った」
古多万の誰かが言っていたように、なんとよく馴染む霊力だろうか。
サトという土に降りて根を張り、水が滲みて草が茂っていく。古多万が姿を消して円陣が無くなると、霊力の境界はなくなっていた。
そこには小さな林ができ上がり、一本の古椿が花を一輪落とすだけである。